風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

NHK交響楽団 第1967回定期公演 Bプロ(2日目) @サントリーホール(10月27日)

2022-10-29 01:26:28 | クラシック音楽



AプロCプロに続き、Bプロ2日目のサントリーホール公演に行ってきました。
ブロムシュテット&N響の3公演、今年は全プロコンプリ―トです。

【グリーグ:ピアノ協奏曲 イ短調 Op. 16】
ソリストは、作曲家としても活躍しているフィンランド人のオリ・ムストネン
前日の同プログラムのSNSの評判が散々だったので心配していたけれど、多くの人が言っていたような”調律”の問題は私は特には感じず。調律というより弾き方がすごく独特に感じました。鍵盤が奥まで押し込まれるように上から重力で弾いているような感じはロシアのピアニストに近いのだけれど(そのためか椅子は高さを延長している特注品とのこと)、特徴的なのは多くの音をスッタカート気味に弾くところ。音を強めに短く切る。では全てスタッカートかというと軽く滑らかにジャズっぽく流す瞬間もあったり。スッタカート→ジャズ→スタカート→ジャズという感じ。わかりにくい喩えですみません、自分用覚書です(ジャズ全く詳しくないので、ただのイメージです)。音色のコントロールはされているようには感じた。更にミスタッチも気にせずに弾くので賛否両論あって当然だけれど、個人的にはその新鮮さを興味深く感じながら、楽しく聴けました。ダイナミックで自分の表現したい世界をはっきり持っている感じがして、嫌いなタイプのピアノじゃないです。わざわざリサイタルに足を運びたいとまでは思わないけども。
ただ、正攻法で美しく奏でていたブロムさん&N響の響きと合っていたかというと…?
違う個性がぶつかって高め合うケミストリーが起きていた感じもなく、オケとピアノがそれぞれの演奏をしているように聴こえてしまった。昨年のカヴァコスとのブラームスではちゃんとケミストリーが感じられたのだけれど。

【ヘンデル:調子のよい鍛冶屋(ピアノ・アンコール)】
驚いたのはこのアンコール。
なぜならヘンデルなのに奏法が前曲のグリーグと全く同じだったから
つまり作曲家ごとに弾き分けているわけではなく、これは”ムストネンの奏法”なんですね。
グリーグはともかく、こういう曲はシフのような演奏で聴きたいかも(シフでこの曲を聴いたことはないけど、きっと素敵に弾いてくれるように思う)。リサイタルを全てこの奏法で弾かれたら、数曲で飽きてしまいそうだ。
いやあ、しかし変なピアニストがまだまだいるものだ。世界は広い。
ちなみにムストネンはポゴさんのように楽譜を見るピアニストなんですけど、グリーグでは楽譜が何度もめくれてきちゃって、それを左手で直したり、果ては両手でグイッと折り直しながら弾く様子も面白かったです。ポゴさんみたく譜めくりさんに座ってもらえばいいのにねぇ。
帰宅してからyoutubeで彼の最近の演奏をいくつか聴いてみたけど、予想どおり、全てこの奏法であった(昔の演奏はここまで個性的ではない気がするので、途中で変わった…?)。
これも帰宅してから見つけましたが、ねもねも舎さんが面白い記事をいくつか書かれているので、ご紹介。
【ピアノの技術2】スタッカートの技術
オリ・ムストネンがピアノを始めたきっかけ

(20分間の休憩)
ところで、休憩時間に二階ロビーで集まって大声で批評会している男女の集団は一体ナニモノ…?
いやそれ自体は全然構わないんですけど、そのうちの一人が私の隣の席で(周囲も彼のお友達だらけ)、開演ギリギリに来て、ブロムさんがステージに出てきても拍手せずにオペラグラスを凝視。演奏中もオペラグラスを上げたり下げたり上げたり下げたり×数十回。その度にスチャッと音が鳴る!あんたは演奏を聴きに来たのか、オペラグラスを覗きに来たのか。鍵盤見えない席なのにカデンツァでもスチャッ。好みの女性奏者でも見てんのか?演奏後もオペラグラスを覗いてばかりで一切拍手せず。そして休憩時間には二階ロビーで批評会。あんた偉そうに批評できるほど演奏に集中してなかったでしょーが!ひたすらスチャッスチャッしてただけでしょーが!

【ニルセン:交響曲第3番 Op. 27「広がり」】

《交響曲「広がり」》は原題では「シンフォニア・エスパンシーヴァ(Sinfonia Espansiva)」で、これは第1楽章の発想記号「アレグロ・エスパンシーヴォ」に由来する。ニルセンはこの交響曲についてプログラム・ノートを何度か書いた。第1楽章については、「広い世界に向けて放出されるエネルギーと人生肯定」という言葉で、この楽章の持つ緊張感や前向きな人生観を語っている(1931年3月ストックホルムでの公演に際して)。このようなニルセンの意図は、ラの音のみによる序奏で始まって次々と調が変化していくところに特によく表れている。第2楽章は打って変わって、「自然界の平和と静けさの描写で、入り込んでくるのは鳥などの声のみである」(1912年4月アムステルダム、コンセルトヘボウでの公演に際して)。
晩年には、「われわれの最初の祖先アダムとイヴの原罪の前の楽園」とも表現した。この楽章では母音唱法によるバリトンとソプラノのソロが登場するところがユニークである。
草稿では当初、「すべての思考は消えた。ああ! 私は空の下に横たわっている」という歌詞が付けられていたが、最終的には歌詞は入れないことになった。第3楽章はスケルツォ風で不安定な性格なのに対し、第4楽章は明快だ。ニルセンの言葉では「労働と健全な日常生活への賛歌」(先のストックホルム公演に際して)。まさに生きる喜びの表現で、力強く前進するその音楽には、人々を勇気づける魅力的な美しさがある。
フィルハーモニー10月号

オペラグラス男は後半のニルセンでもずっとスチャッスチャッだったけど、私もこの頃には多少慣れてきて、何よりそいつへの怒りを軽く上回るほどN響の演奏が素晴らしかった。。。。。。。
熱がしっかりあるのに美しくて、スケールも大きくて。いい音出すなあ。。。。。いいオケだなあ。。。。。。
そしてこの独特のハーモニーの響きって、ニルセンの特徴なのかな。清濁異なるものを全て含んでいるのに、全て含んでいるがゆえの美しさみたいな(要は無調気味ということなんだけど)。1曲の中に光と影を感じさせるだけでなく、一つのハーモニーの中に感じさせるのが独特というか。
二楽章のソプラノとバリトンの効果も素晴らしかった。まさにアダムとイヴを感じました。
北欧の冷たく澄んだ、でも不思議と温かな空気が舞台上からどこまでもどこまでも力強く広がっていくような、そういう感覚を覚えた今夜のニルセンの交響曲第3番。あれは配信ではなくホールで聴いてこその感覚だったと思う。今夜のブロムさんとN響が聴かせてくれた明確な人間肯定の響き、忘れません。

そうそう、4楽章のブラームス1番に似たメロディのところ、ものすごく美しく豊かに温かに響いていて、ブラームスの交響曲をサントリーホールで聴いてみたい、と感じました(まだここでは聴いたことがないのです)。ブラームスには華やかな響きのサントリーホールは合わないだろうとずっと思い込んできたのだけれど、意外に合うのかもしれない。12月のシュターツカペレ・ベルリンのブラームス、バレンさんが来日できなくなったのでチケットをリリースしようかと思っていたのだけど、迷うな…。そしてバレンさん、どうかお体お大事に…。

N響のtwitterによると「マエストロの強い意志で実現したこの6公演」だったとのこと。
ブロムさん、来日してくださって本当に本当にありがとうございました。
また来年も、きっとお会いできますように。
それまでどうかお元気で!

今月21日でハイティンクが亡くなって一年が経ちました。そしてもうすぐフレイレの命日。早いな…。





ブロムさん、演奏後のムストネンにずっと拍手を送ってた
前半終了時は、ムストネンがブロムさんに声をかけて一緒に退場されていました。

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NHK交響楽団 第1966回定期公演 Cプロ(2日目) @NHKホール(10月22日)

2022-10-26 20:51:58 | クラシック音楽



 シューベルトの交響曲は、《未完成》と《グレート》を除く6曲が、初期の完成作とみなされる。[Cプログラム]では、その最初と最後の作品を聴く。
 ウィーンの神学校に通っていたシューベルトは16歳で《交響曲第1番》を書いた。この頃、彼は友人たちと日夜アンサンブルを楽しみ、作曲に励んだというが、10代のブロムシュテットも兄を含む仲間とカルテットを結成し、活動に熱中した。純粋なアマチュア精神は二人に共通するキャリアの原点であり、マエストロが一貫してシューベルトに愛情を注ぐ理由の一つかも知れない。
 第1番の4年後、自ら“大交響曲”と銘打った《交響曲第6番》には、青年作曲家の自負がみなぎる。ハイドンやベートーヴェンの影響を受けながら、リートやオペラを思わせる豊かな歌謡性はまさにシューベルトの世界。
 ブロムシュテットは40年以上前にドレスデン・シュターツカペレとシューベルトの交響曲全集を録音しているが、その後の研究により、当時とは全く違う作品像が提示されるはずだ。

N響公式ページ


【シューベルト:弦楽四重奏曲 第6番 ニ長調 D. 74─第3楽章、第4楽章(開演前ミニコンサート)】
N響メンバーによる開演前のミニコンサート。「すっかり恒例になりました」と挨拶で仰っていて、え、私は今回初めて知ったと思ったら、Cプロ限定なんですね。今回の交響曲第1番と同じ16歳のときにシューベルトが作曲した弦楽四重奏曲が演奏されました。
3~4楽章のみの15分間でしたが、私は室内楽を聴く機会が少ないので楽しかったな。シューベルトやブラームスってオーケストラ作品より室内楽作品の方が「らしさ」が出ているように感じるときがある。

【シューベルト:交響曲 第1番 ニ長調 D. 82】
【シューベルト:交響曲 第6番 ハ長調 D. 589】
※休憩なし

今日のブロムさんは、ゲストコンサートマスターの白井さんに支えられてご登場。でも足取りは先日のAプロよりずっとしっかりされているように見え、指揮台にもバーにつかまりつつ軽い足取りで上がっておられた
指揮姿も上半身の動きがすっかり以前のブロムさんで、ほっとしました。

私がブロムさんの指揮を今のように聴くようになったきっかけは、2017年にみなとみらいホールで聴いたゲヴァントハウス管との『ザ・グレート』に大感動したからなのですが(ちなみにこれまで行った演奏会の中で最も空席の多い演奏会でもありました…)、あれからブロムさんのシューベルトを聴ける機会はなく。
今回久しぶりに聴くことができて、やはりとっても好きだなあと再確認。
N響なのでゲヴァントハウス管のようなドイツ的な響きではないけれど、もう一度「ブロムさんのシューベルト」の響きを体感できて本当に嬉しい。
『ザ・グレート』ではブロムさん&ゲヴァントハウス管と方向性が全く違って別の曲のようだった(そして同じくらい感激した)昨年のムーティ&ウィーンフィル。
今回も6番は彼らの演奏で予習してみたけど、ブロムさんとは音の出させ方が全く違うことを今日のN響を聴いて改めて感じました。
1番でも6番でも木管の音の出させ方や音楽の流れ方がtheブロムさんで、その清澄で明るい音色にはあの日のグレートを思い出ました。ムーティと比べるとよりドイツぽく、でも伸びやかで、ベートーヴェンの響きを彷彿とさせると言えばいいかもしれない。同時にシューベルトらしい親しみやすさもあって、自分もシューベルティアーデにお邪魔させていただいているような、そんな感覚を覚えました。
なんか、心が洗われたな。自分の心も綺麗になれたような、自分の人生を赦してあげてもいいような、そんな気持ちになれた。大袈裟かもしれないけど、そうなんです。
ブロムシュテットのシューベルトをもう一度、こんなに素敵な演奏で聴けて、感謝しかありません。
N響はブロムさんの指揮では温かで献身的な音を出すね、いつも(というかブロムさん以外の指揮者でN響を聴いたことがないのだけれど)。今日も美しさに呆然と聴き入ってしまう瞬間が何度もありました。95歳でスイス?から日本までの長旅が体の負担にならないわけがないので、N響との演奏会を大切に思っておられるからこそ来日してくださったのだと思う。
そして先週よりも明らかにお元気になっている様子を拝見して、こうして指揮をしていることでブロムさんも若返るのかも、とも

1817年10月から作曲を始め、翌1818年2月にかけて完成されたこの第6番は、シューベルトの死後1ヵ月後の1828年12月14日にウィーン楽友協会主催の音楽祭で初演が行なわれた。元来、シューベルト自身は第8番(『ザ・グレート』)の演奏を希望していたが、あまりにも演奏至難だったために拒絶され、替わりに本作品の楽譜を提出し、演奏された。
(wikipedia)

シューベルトは『ザ・グレート』を完成直後の1826年と死の直前の1828年に二度に渡ってウィーン楽友協会に提出したけれど、演奏の困難さを理由に拒否されている。替わりに同じハ長調の第6番が受け入れられ、シューベルトの死後一ヶ月後に初演された。一方『ザ・グレート』は世の中からすっかり忘れ去られ、シューベルトの死から10年後の1838年、自筆譜がシューマンにより発見され、翌年の1839年にメンデルスゾーン指揮ゲヴァントハウス管により初演された。
あれほどの傑作を書き上げて(本人がその価値は一番わかっていたと思う)、なのにその演奏を拒絶され、演奏される目途が立たたないままに死んでいくのはどれほど無念だったろうと思わずにいられないけど、同時に、村上春樹さんがシューベルトについて書いた次の文章を私はいつも思い出すのです。

音楽を書きたいように書きまくって31歳で彼は消え入るように死んでしまった。決して金持ちにはなれなかったし、ベートーヴェンのように世間的な尊敬も受けなかったけれど、歌曲はある程度売れていたし、彼を尊敬する少数の仲間はまわりにいたから、その日の食べ物に不足したというほどでもない。夭折したせいで、才能が枯れ楽想が尽きて、「困ったな、どうしよう」と呻吟するような目にもあわずにすんだ。メロディーや和音は、アルプス山系の小川の雪解け水のように、さらさらと彼の頭に浮かんできた。ある観点から見れば、それは悪くない人生であったかもしれない。ただ好きなことを好きなようにやって、「ああ忙しい。これも書かなくちゃ。あれも書かなくちゃ」と思いつつ、熱に浮かされたみたいに生きて、よくわけのわからないうちに生涯を終えちゃったわけだから。もちろんきついこともあっただろうが、何かを生みだす喜びというのは、それ自体がひとつの報いなのである。
(村上春樹「意味がなければスイングはない」)

考えてみると私はブロムさんの指揮でシューベルトの最初、真ん中、最後の交響曲をそれぞれ聴けたことになるのだな。
来週(これを書いている今はもう明日だけど)は今年のブロムさん&N響の最終公演のグリーグ&ニルセンに伺います。チケットは完売とのこと。

※曲目解説:フィルハーモニー10月号











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パリ管弦楽団 @サントリーホール(10月18日)

2022-10-19 22:59:17 | クラシック音楽

©Mathias Benguigui


パリ管の音をもう一度聴きたいと思っていたところ、LCブロックのS席を格安で譲っていただけることになったので(感謝です!)、15日の東京芸術劇場に続き、サントリーホール2日目公演にも行ってしまいました。
行けることになったのが急だったので会社を無理くり早退したが、このために働いてるのだからいいのだ。

【ドビュッシー:交響詩《海》】
先日も感じたのだけど、マケラって指揮の仕方がサロネンに似てません・・・?後ろ姿がサロネンに見える現象がしばしば起こる。フィンランド人の指揮の特徴とかあるのかな。
さて『海』ですが、ツアー初日の芸術劇場で聴いたときの方が溌剌とした色彩感が感じられたような。もちろん素晴らしいことに変わりはないのだけど、今日は少々ノッペリした印象を受けてしまった。
ホールの違いも影響しているかも。芸劇よりサントリーの方が音の粒立ちが悪い(良くも悪くも響きが混ざる)ので、一つ一つの音の色合いがクリアには見えにくいのかも。
それでも変わらず波のうねりや清澄さなどは肌で感じられ、パリ管の『海』、堪能しました!

【ラヴェル:ピアノ協奏曲ト長調】
これは絶品
ソリストは、アリス=紗良・オット。彼女のピアノを聴くのは、録音も含めて今日が初めて。調律のせいなのか最初は音の届かなさに驚いたけど、次第にそれにも慣れ、その音色も含めて楽しめました。クセのない素直な軽やかさ(少しピリスを思い出した)、透明感があるのに冷たくない、といって弱いわけではなく低音もちゃんと聴こえる音。彼女自身の主張は控えめなのに、それが自由な音色で遊ばせるパリ管と意外なほど相性が良くて、両者のノリの良いお洒落な対話がとっても楽しかった!三楽章、興奮しました。ファンタジー味のある音のグリッサンドも綺麗~。
二楽章もよかったです。最後のオケとピアノの音が空間に消えていく美しさといったら・・・。
でもって、パリ管!もう理想的なラヴェルの演奏!一人一人の出す音の個性、色合い、自由さ、官能性(弦もいいけど、木管もいい~♪)。それらがモダンピアノと一緒になると、たまらない。
この幸福な音の空気は、指揮者であるマケラの影響も大きいのだろうと想像する。
というわけで、冒頭の写真は今月上旬のパリ公演の際のリハーサル写真より。やたらと絵になる二人。ていうかこの写真、上手すぎない?と思ったら、プロのカメラマンの方だった。

【アルヴォ・ペルト:アリーナのために(ピアノ・アンコール)】
拍手で舞台に呼び戻されたアリス。
おもむろに始まる女子トーク(こんなに普通に日本語を話すとは知らなかった。wikipediaによると日本人学校に行っていたんですね)。「私自身は一昨日無事に日本に着いたんですけど、ロストバッゲージにあってしまって、今日着る服も全部そのスーツケースに入っていたんです。それは今もミュンヘンにあります(客席爆笑)。昨日5時間東京を歩き回ったんですけど、こういう時に限ってほしいものって見つからないんですよね。なので今着ているこのスカートは楽団のスタッフの方にお借りしました」と笑。素敵なスカートで、よく似合っていました。
そして、「サントリーホールの特徴って、音と音の繋がりや、音が消えていくときの響きの美しさにあると思うんです。そういうホールの特徴が生きる曲をこれから弾きたいと思います。私の好きな曲で、エストニアの作曲家のアルヴォ・ペルトの『アリーナのために』という曲です」
これは今年3月のリサイタルでババヤンが演奏する予定だったけど、急遽変更になった曲だな。こういう曲だったのか。
アリスの言うとおり、この曲はサントリーホールの音響の美質がめちゃくちゃ生かされる曲!ひとつひとつの音の響きが奥深くて、とてもとても美しかった。。。こういう音楽を配信ではなくこういうホールで聴けるのは最高の贅沢で、生演奏の醍醐味ですね。
アリスさん、ありがとう!!

(20分間の休憩)

【ストラヴィンスキー:火の鳥(全曲)】
この曲を生で聴くのは、ヤンソンス&バイエルン放送響(組曲)サロネン&フィルハーモニア(全曲)ゲルギエフ&ウィーンフィル(全曲)に続いて4回目。
それぞれがそれぞれに素晴らしくて、中でもゲルギエフ&ウィーンフィルの甘いファンタジー味&ぞくぞくする禍々しさ&怖いほどの美しさ&スケール感の絶妙コンビの演奏が私は最高に好きだったんですけど、その感動は残念ながら今回の演奏では上書きされなかった でもこれはマケラ&パリ管が悪いのではなく、完全に好みの問題。
マケラ&パリ管も50分間、飽きずに聴くことができました(というか今まで聴いたこの曲の演奏で飽きたことは一度もないのだけど)。ラストの爽快感(何故か加速してた)、楽しかった。気持ちよく盛り上げて、最後は華麗かつキレッキレの響きで終了
なお今日も『火の鳥』で照明演出あり。照明のことはすっかり忘れてて、始まった瞬間に「そういえばそうだった」と思い出したのだけど、恋人達の場面でピンク色になり、悪魔達の登場で赤に変わるとか、いくらなんでも安直すぎない・・・?マスクの中で苦笑してしまった。。

【グリンカ:歌劇『ルスランとリュドミラ』序曲(アンコール)】
マケラから「大好きな曲」と紹介があり、アンコール。
勢いのある沸き立つような音が楽しい~~~
奏者達もバリバリのめり込むように演奏していて実に楽しそう♪♪♪
今日もアンコールはロシアの曲だけど、考えてみたら今回の来日公演のメイン2曲(ストラヴィンスキー)はロシアの曲とも言えるので、特に不思議はないのだった。

演奏後は、満面の笑顔で足を盛大に鳴らしてマケラを称えるパリ管の面々。愛されまくってるな~。オケのほぼ全員が彼よりだいぶ年上だと思うけど、だからこそもあるのか、みんなマケラのことが可愛くて仕方がないって顔で見ていて、その雰囲気だけで幸せになる。そういうオケの温かな空気が、彼らの作り出す音楽にも出ているように感じた今回のパリ管来日公演でした。

マケラって音楽に対する明確なビジョンを持ちながらも、自分の個性をオケに押しつけるのではなく、オケの美点を自発的に伸ばさせる、そういうタイプのリーダーのように感じる。インタビューからもそういう印象を受けるし、ブロムさんも「派手さはないが、真面目で素晴らしい指揮者」と表現していたし。
そういうアプローチは、少しハイティンクと似ている気がする。
2027年からシェフになるコンセルトヘボウとも良いコンビになってくれるといいな。ハイティンクは彼らと色々衝突もありましたけど、互いに愛憎混じりながら素晴らしい音楽を沢山残してくれた。
以下は、オランダの新聞de Volksrantの2020年12月のマケラのインタビューより(例によって私訳です)。
(このクリスマスマチネでルイージの代役をと電話で依頼されたときにどう感じたか?)「一瞬も迷いませんでした。あのホール、あのオーケストラ。9月にアムステルダムでデビューした後、私はすぐにまた再会したいと願っていたんです。これは絶好の機会です」
(世界がクリスマスマチネに注目しているが緊張は?)「ストレスはそれほど感じていません。むしろ楽しみです。コンセルトヘボウ管弦楽団は、独自の音を持つ数少ないオーケストラの 1 つです。常に透明感を保ちながら響きに温かみもある。この組み合わせは圧倒的です」
(コンセルトヘボウはまだシェフを探しているのを知っているか?)「はは、私は既にオーケストラを2つも持っています」
結果的に今年6月、コンセルトヘボウのシェフ就任が発表されたけれど、この2020年のインタビューで「あと7年間はパリ管とオスロフィルに集中したい(客演も本当に特別なことができる一握りのオーケストラに限定したい)」とも言っているので、就任が2027年という年になったのはマケラの希望もあったのかな。一方こちらは今年8月、シェフ就任の発表後に初めてアムステルダムで振ったマーラー6番についての同新聞のレビュー記事。アムステルダムの伝統「マーラー試験」に臨んだ彼のマーラーの長所(奏者達を奮い立たせ熱狂的な演奏をさせる)と短所(頻繁に大音量になる。全ての言葉を明瞭に語る朗読を聞いているようでコントラストが薄く、説得力がない)を冷静に指摘しつつ、未来の可能性に賭けたアムステルダムについて述べた良記事だと思います。
ところでこの記事の記者は歴代のRCOの指揮者のマーラー演奏について「Now everyone wants to know which turn Mäkelä takes, after Haitink the emotional one, Chailly the precise one, Jansons the magician and Gatti the self-taught.」(蘭語→英語のgoogle翻訳)と書いていて、ハイティンクが「emotional」と紹介されていることに少し驚いた。私はそう感じていたけれど(だからアムステルダムまで足を運んだし)、一般的な評価は違うのかと思っていた。

「音符ってとても面白い『言語』だと思うんです。五線譜上の同じ位置にあっても、それを置く作曲家によって全く意味が違う。『真実』が無限にある。それを発見していくプロセスがたまらないから、一度やった曲を時間を置いてまたやるのが大好きです。その間のいろんな学びが私の感性を開き、解釈を変えていく。読んだ本だったり、作曲家の人生についての新しい知見だったり、美術館で見たラファエロの美しさだったり。出会いによって心を動かされたことのすべてが演奏に反映されます」
2022.10.13朝日新聞

私は、今週末はまたブロムさん&N響へ
26歳→95歳(客席に26歳)→26歳→95歳

ところで2年前に中止になったソヒエフ&パリ管のコンビも興味あるのだけど、そのコンビでの来日はもうないのだろうか。

 


東海道新幹線で富士山が見えると車内の外国人達が一斉にカメラを構える現象にマケラも参加している(富士山の美しさはモノクロじゃない方が出ると思うけど…)
これほどクッキリと見えることって意外と少ないのに、マケラ&パリ管もってますね~


全く負けてません!!


アリスさん、よかった
イラスト可愛い~♪

Ouverture de Rouslan et Ludmila, Glinka - Klaus Mäkelä
パリ管がupしてくれた、今日のアンコール(ルスラン)の冒頭

Stravinsky - Ballet "L'Oiseau de feu" - Diana Vishneva
『火の鳥』のバレエ予習は、今回もヴィシニョーワ&マリインスキー。何度観てもヴィシ様の火の鳥は最強

 

※追記

演奏直前のあの長い長いアナウンスには私もかなりイライラしたので千々岩さんが仰りたいことは理解できるが、東京も初日の芸劇公演で普通にブラボーとんでましたけどね
私個人は現在くらいの感染状況なら、マスク有かつ本当に良い公演だったなら掛け声もOKと思っています。吉右衛門さんの最後の俊寛の千穐楽の幕切れで「播磨屋!」とかけてくれた人には今も感謝している。でもそれは演技や演奏に感動した観客が自発的にするものであって、演者の側から要求するものではないと思っている。

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NHK交響楽団 第1965回定期公演 Aプロ(2日目) @NHKホール(10月16日)

2022-10-17 03:59:39 | クラシック音楽



[Aプログラム]はマーラーが完成させた最後の交響曲である《第9番》。今までこの曲は、健康への不安を抱えた作曲家が、死の予感に怯えながら書いた“現世への告別の辞”と言われてきた。しかし最近、こうした見方には疑問が呈されている。脂の乗り切ったマーラーによる、充実した日々の所産だというのである。それを裏付けるようにブロムシュテットも「生きる喜びを歌い上げた、晴れやかな音楽」と語っている。この大作はむしろ、生死や美醜などあらゆる対立概念を包み込んだ、マーラーの世界観の集大成と捉えるべきだろう。

マエストロと演奏する第9番は12年ぶりだが、曲のイメージから連想される「最後の機会かも知れない」といった特別な思いは、私たちに露ほどもない。おそらく作曲当時のマーラーがそうであったように。選曲も演奏も、マエストロにとってはあくまで音楽家としての日常の一部なのだ。だが同時にそれは生きることそのもの、神から与えられた使命でもある。
NHK交響楽団 2022年10月定期公演プログラムについて


前日のマケラ&パリ管の興奮さめやらぬなか、ブロムシュテット&N響を聴きにNHKホールに行ってきました。本日は『マーラー9番』のプログラムの2日目。
ブロムさんでこの曲を聴くのは、録音も含めて今日が初めて。
事前にN響による冒頭の紹介文を読んでいたのだけれど、実際に今日の演奏を聴いて受けた印象は、半分そのとおりで、半分違うものでした。
いずれにしても、忘れられない演奏会体験となりました。

会場は満席。
今日のブロムさんは、奏者達に続いてマロさんに支えられながら入場され、指揮台の椅子へ。
この姿を見てショックを受けたという声もSNSであったけれど、私は6月に転倒されたというニュースを知っていましたし、来日は難しいのではないかと思っていたくらいなので、支えられながらもご自分の足で歩かれるその姿にほっとしました。9月21日に復帰されたばかりだそうで、はるばる日本に来てくださって本当に感謝です。

そして始まった1楽章は、N響の演奏とは思えない不安定さで、正直驚きました。これほど不安定な演奏をするN響というものを聴いたことがなかったので。演奏自体もそうだけど、楽器の音のバランスも安定していない。一体どうしてしまったというのだろう。リハの時間が足りなかったのか。理由は今もわからず。ただそれでもなお端々で「ブロムシュテットの音」を感じることがました。
2楽章は、だんだん違和感はなくなり。
3楽章では、すっかり音楽に入り込んで聴いていました。ブロムさん&N響はこの楽章に特有の神経質な暗さは少なく、前へ前へと進んでいく推進力を強く感じて、「ああ、ブロムさんの音だなあ」としみじみ。静かに広がっていく夕映えの箇所(と私が思っている部分)では、その響きの美しさに泣きそうに…。そして今回のブロムさん&N響、今までこのコンビから聴いたことがないくらいの解放感のある音を出している気がする。

そして、4楽章。
ここでも、推進力のある演奏は変わらず。
それはとても”幸福な”4楽章で、この楽章にこんな演奏があるのかと驚いた。穏やかさとか、諦念とか、死の間際の澄んだ心とかそういうものではなく、かといってラトルのような日常の一日という感じでもなく、いっぱいに「生きることの喜び」を感じさせてくれる演奏。
それは、あの最高の幸福感をくれたブロムさんのマーラー1番を私に思い出させました。
若き日の1番のあの幸福感と、そして9番のこの幸福感。
その2つの音色が私の中で同時に響いた瞬間、涙腺が・・・・・。
なんて幸せで、輝かしく、優しい響きだろう。
95歳のブロムさんが長い両腕を使ってこの楽章を指揮するその後ろ姿は、そこから奏でられる音楽は、「生きるということは、素晴らしいことなんですよ」といっぱいに言ってくださっているように感じました。
そしてこれまで聴いてきた指揮者達のこの楽章の響きを思い出して(そのうちの二人はもういらっしゃらない)、涙が込み上げてきた。

でも、やはり終わりは来る。ブロムさんがこのラストを死と結びつけているかどうかはわからないけれど、そして死と結びつけないのが最近の主流のようだけど、ラトルやサロネンのような変化球の演奏ならともかく、今回のように正攻法で演奏されると、この音を死と結びつけない方が不自然だと今日も改めて感じました。それはもちろんマーラー自身のことではなく、曲想という観点で。
けれど死は決してこの曲の、そして私達の人生の中心部分ではないのだと、今日の演奏からは感じました。めいっぱいにこの世界で生きて、そして終える。それは生きとし生ける者にとって当たり前の自然の流れなのだと、そう言われているように感じたのでした。ヤンソンスさんの最後の来日のときにBRSOがこの曲について言っていた「生きて、そして死んでゆく全てのもの達へのラブソングであり讃歌」という言葉が浮かびました。でもヤンソンスさんが「The cellos play their last notes, then I take a big break, and then the strings play this incredible music, where you can really cry. For me, this music is no longer on earth, there Mahler's soul is already in heaven - and we feel his spirit and his genius that remain for us on earth.」と言っていたこの部分は、ヤンソンスさんの演奏ではまさにそういう感じだったけれど、今日の演奏では最後まで”人間”のものであったように感じました。同時に、中間部のあの独特の明るく清澄な光の輝かしさはキリスト教徒であるブロムさんならではの音のように感じられました。

ヴィオラが最後に同じフレーズを幾度も繰り返し、一番最後だけが違う音型になって音楽が閉じられるところ。私達の体の鼓動は意思とは関係なく続き、そしてその時を迎えるのだろうと、そういう風に感じました(ここは毎回そういう風に感じるけれど、今回は特にそう感じた)。全ては自然の懐の中、大きな自然の流れの中にある。それを、宗教の世界では神と呼ぶのかもしれない。
繰り返しますが、そこに「死」はあるけれど、そこから私が感じたのは、紛れもない人生讃歌の音楽でした。
最後の一音の響きが美しく美しく消えていったとき、そしてそれから長く長く続いた静寂のなか(ブロムさん、右手でちゃんと静寂をコントロールされていた)、その不思議な余韻の中に私はいました。
しかし、マーラー9番。なんという曲だろう・・・・・。

一般参賀は、マロさん&郷古さんに支えられて出てきてくださいました。ブロムさん、嬉しそうな表情をされていた。
N響もブラヴォー!

ホールを出たところで、「ブロムシュテットもこれが最後だから」とさらりと言い切っている人達がいたけれど、いやいやいやおいおいおい、と。そもそも今回の来日だって、まだシューベルトプロとニールセンプロが普通に残ってるでしょうに。



ブロムさんはどういうお気持ちで今日の演奏を指揮していらっしゃったのだろう。ブロムさんも幸福な気持ちになってくださっていたら嬉しいのだけれど・・・。
ところでこのツイートをされてる方、一日目と二日目の沈黙時間を数えていて(あの演奏を聴いた後でよく数える気持ちになれるな)、一日目は37秒で二日目は52秒だったそうな。そんなに長かったのか。私はそれほどの長さには感じなかったけど、「ブロムさんは今お祈りしているのかもしれない」と思ったくらいだから、それくらいの長さはあったのかも。

 

★★★オマケ★★★


なんと、マケラ
今日は明日のサントリー公演のリハかと思いきや、私と同じ客席でN響を聴いていたとは。彼は今日の演奏を聴いて何を感じたろう。何も変わったことをしない自然体の演奏でもこんなに感動的なマーラー9番になるんだよ、ということを感じ取ってくれたら嬉しいなあ(変わったことをしない未来のマーラー9番指揮者を増やしたい私)。
ブロムさんが95歳で、マケラが26歳。
お二人とも北欧出身で弦楽出身ですね。
そういえば二人は互いをどう思っているのだろうと軽くググってみたら、お互い好意的に感じているようでよかった↓

Wie schaffen Sie es, sich bei Ihrem vollen Kalender ständig wieder aufzuladen?
Ich versuche, in Proben genauso intensiv zu spielen wie im Konzert. Nur so kann man sich wirklich vorbereiten. Wenn man einem Orchester viel Energie gibt, gibt es einem auch viel zurück, man fühlt sich danach erfrischt. Das hält mich am Leben. Außerdem esse ich jede Menge Bananen … Und ich glaube, Herbert Blomstedt macht immer noch mehr Konzerte als ich (schmunzelt), er ist in vielerlei Hinsicht ein großes Vorbild.
Klaus Mäkelä im Interview @ISSUU

What of today’s young conductors? Blomstedt confesses he doesn’t get to see many as his schedule (in a normal year) includes 80-90 concerts of his own. He expresses admiration for Gustavo Dudamel and the work he did with El Sistema in Venezuela. And Klaus Mäkelä has caught his eye: “He’s very young, but I’ve seen him conduct and he looks very promising, not flamboyant at all but a wonderful, serious musician. So many of them come from Finland...
(“Music keeps me young”: Herbert Blomstedt on a life making new discoveries  @Bachtrack)

Asked why the Finns are so successful at producing good conductors he said:

‘Finland is less of a spoiled nation than Sweden, there are fewer temptations. They’ve lived in a dangerous place, been skilled in diplomacy and managed to handle Russia. Therefore they are more introverted and work on their own. Sweden has succeeded in its economy and could afford to hire foreign conductors.

‘Here we have the ratpoison that Finland couldn’t afford.  Elias Canetti said: “Success is ratpoison for art.”‘
(HERBERT BLOMSTEDT EXPLAINS WHY FINNS CONDUCT BETTER THAN SWEDES  @Slipped Disc



演奏会前に明治神宮をお散歩。大きな木が気持ちいい。
ところで原宿駅を出たところにある鳥居の前で、かなりの割合の若い子達が深くしっかりお辞儀をしてからくぐっているのを見て、驚きました。神社での作法といえばそれまでだけど、私の世代やそれより上の世代は明治神宮でそういうことをする人は少ないように思う(実際にしばらく見てたけど、お辞儀をするのは若い子達が圧倒的に多かった)。この現象をどう捉えればいいのか、ちょっと心配な気持ちになりました。


マーラー9番でお腹が鳴ってしまうとまずいので、腹ごなしのお団子を神宮内のカフェにて。







※2022年11月10日追記
以下は、クラシック音楽館のブロムさんのインタビュー。
交響曲第9番はマーラーの最高傑作だと思います。この作品でマーラーは人生、そして音楽に別れを告げているのです。今の時代にぴったりの作品だと思います。命に別れを告げる音楽だからです。地球上の全ての命に別れを告げる可能性が今、あります。核戦争になれば全てが終わりです。この楽曲を書いたときマーラーはまだ50~51歳、重い心臓の病を抱えていることを知っていました。長くは生きられないことも知っていました。だから、これは彼の別れの曲です。歌詞を伴わずとも音楽を通して巧みに終わりを告げています。
(しかしこの曲は悲観的な音楽ではない、とブロムシュテットは言います。)悲劇と同時に幸福を描いた曲だからです。愛にあふれた曲で、最後に愛するすべてのもの、そして人生に別れを告げているのです。マーラーの交響曲はすべて愛情に満ちています。彼は人生を愛していました。オーケストラを愛し、作曲することを愛し、音楽で自己表現できることを愛していました。そうした能力があることに感謝していました。私たちも、そうでなければならないと思います。人生に別れを告げることになるかもしれない、危険で不穏な時代に私たちはいます。でも私たちには音楽をはじめ、幸せを感じさせてくれるものがたくさんあります。それを多いに楽しみ、他の人たちに伝え、分かち合いましょう。

「長く生きられないことを知っていたマーラーが人生に別れを告げている曲」とはっきり言い切っておられますね。
だよね。今回のブロムさんによる演奏、私もはっきりと「死」や「別れ」を感じたもの。それは決して不幸なものではなく、ブロムさんが仰っているとおり愛に溢れたものだったけれど。
となると「この曲は健康への不安を抱えた作曲家による“現世への告別の辞”ではない」と明記していたN響HPの紹介文は、今回の演奏に関しては当てはまらないことになる。N響HPもあまりアテにならないな…
ところでテレビで見て初めてわかりましたが、ブロムさんが胸につけていらっしゃったリボンは青と黄色のウクライナカラーだったんですね。以前フィンランドから優秀な指揮者が多く出る理由について「常にロシアの脅威にさらされている国だから、甘やかされているスウェーデンとは緊張感が違う」と話されていたことがあって、北欧出身の指揮者らしい見方だなと感じたことがあります。上記の「核云々」も、もちろんウクライナを意識されての発言ですよね。

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パリ管弦楽団 @東京芸術劇場(10月15日)

2022-10-16 11:45:41 | クラシック音楽




先日のロンドン響の感動がまだ残るなか、今日はパリ管へ。
来日オケラッシュの東京の秋がようやく戻ってきた
が、斜陽の我が国ではそんな秋も今年が最後という話も。。
ちなみに一昨年中止になったソヒエフ&パリ管はD席7000円でしたが、今年は15000円ですよ。こんな勢いで値上がったんじゃ、仮に来年以降も海外オケが来日してくれても、私が行けない。
先の心配ばかりしても仕方がないが、聴きたいものは聴けるうちに聴いておけ。
というわけで、行ってきました池袋

いやあ・・・・・・何よりもまずパリ管の音に驚いた。。。。。
このオケを聴くのは初めてで、これほど私好みの音を出してくれるオケがまだあったとは、世界はまだまだ広いのだなぁ。。。。。
単純に音の好みだけで言うと、今まで聴いたなかで最も好きなのはウィーンフィルで、今日のパリ管はタイプは違えどそれに肉薄するくらい好きな音かもしれない。(他にチェコフィル、コンセルトヘボウ、バイエルン放送響、マリインスキーとかも好きです)
これってパリ管独自の音なのかな。それともフランスのオケの特徴なのだろうか。フランス国立管や放送フィルやトゥールーズキャピトル管も聴いてみたいものだ。
パリ管の音の特徴として色彩感という言葉がよく言われるけど、そうは言っても楽器の音だし限界はあるよねぇと聴く前は思っていたのだけど。
色彩感はんぱなかった・・・・・。全ての楽器から違う色が見えるようだった。
そして自由で、色気があって、軽やかさも、柔らかさも、透明感も、禍々しさもあって。
デュトワが職人芸で新日フィルから作り出していたor作り出そうとしていた音色を、この人達は難なく自然に出しているように聴こえた。


【ドビュッシー:交響詩《海》】
今日のコンマスの千々岩さんが2014年のインタビュー「パリ管の使命はいわゆる各国のクラシックの名曲を演奏することで、フランス音楽の伝統を守るという傾向は、フランス放送フィルハーモニー管弦楽団(ラジオフランス)やフランス国立管弦楽団の方が強いように思います。彼らの方がもっと責任感をもっていろいろなフランス音楽を演奏していますよ。自分としては、パリ管でももっとフランスの曲をやりたいですね。」と仰っていたのを読んだことがあったので、今回のプログラムは本来のパリ管向きのものではないのかしらと思いきや、とんでもない、素晴らしかった。

マケラの指揮も、想像していたよりずっと好みで驚きました。
外見が爽やか君なせいもあり、もう少しアッサリ&スッキリした音楽を作るタイプかと思いきや、そういう傾向ではあるけれども、歌わせるところはちゃんと歌わせ(これはパリ管のおかげもあるのかもだが)、激しいところはしっかり激しくて嬉しい驚き。ロトのことをone of my heroesと言っていただけあるなあと。
空、波、風、光の清澄さと繊細な移り変わりと、波のうねりと。その空気を肌で感じるよう。
ああ楽しかった、美しかった。
マケラのシベリウスも聴いてみたいと感じたけど、来年オスロフィルとやるんですね。

【ラヴェル:ボレロ】
この曲はベジャールバレエでは何度も聴いているけど、BBLは基本録音を使うので、生演奏は初めて。
ベジャールのボレロの音源は、二十世紀バレエ団の頃はマルティノン&パリ管弦楽団で、ローザンヌになってからはデュトワ&モントリオール響のものを使用しているそうです。
管のソロの柔らかな音色、色っぽくていいなあ(一部不安定な人もいたが…)
しかしバレエで観ているとダンサーにも目がいくので彼らと音楽の相乗効果に浸りきっていて、音楽の変化に関しては無意識なのだけど。
改めて音楽だけで聴くと、「そろそろ盛り上げなくていいの…?大丈夫…?終盤に急にクレッシェンドなんてことにならない…?」と妙な心配を起こさせる曲であることが今回わかった笑。そのポイントは指揮者も奏者の皆さんも論理的に把握されているはずで、いらん心配なのだろうけれども。そして、なるほど根気よくいかないとだめなのね、ということもわかった。中盤あたりに来ても、まだまだ先は長い(聴いてる方は一瞬も飽きないので長くは全く感じないが)。
しかしクレッシェンドもそうだけど、速度を変えない演奏っていうのもよくできるものだな。気づいたら早くなってたり遅くなってたりしないのかしら。ラヴェルもよくこんな音楽を思いつくものだな。天才だな。

なんて素人丸出しな感心を初めての生ボレロにしつつ。
この曲でも、パリ管の音の色合い!
いやあもうほんとに一人一人全部が違う色に見えて、それらが合わさって盛り上がっていく様は究極の美しさで、楽しくて仕方がない。一人一人個性が際立って好きに演奏しているように聴こえるのに、結果的にはちゃんと統一感がある。こういうところが最初から統一感を目指しているように聴こえる日本のオケとの一番の違いだと、海外の、特にヨーロッパのオケを聴くといつも感じる。
ちなみにこのコンビのボレロは、原始的興奮のようなものはあまり感じられないタイプ(ゲルギエフとかに比べれば、ですけど笑)。禍々しさはちゃんとあるし、もちろん曲構造的にも音色的にも興奮するんだけど、最後まで美しくスタイリッシュな音楽に聴こえました。帰宅してからyoutubeの宣伝動画を観たけど、やはり同じ印象。
これはこれでとてもよい。

(20分間の休憩)

【ストラヴィンスキー:バレエ音楽「春の祭典」】
この曲を生で聴くのは、サロネン&フィルハーモニアに続いて2回目。
今月本拠地のパリであった演奏会のこの曲の評判が良かったので楽しみにしていたけど、おおっ、いい~
上演前のプレトークで奥田佳道さんが「ドビュッシーはストラヴィンスキーをとても高く評価していて『火の鳥』と『ペトルーシュカ』については文句なく絶賛していたけれど、この『春の祭典』だけは”美しい悪夢”と呼んだ」と仰っていて、ドビュッシーはどちらかというとネガティブな意味で言ったらしいけど、今日の演奏は良い意味でまさに「美しい悪夢」のように感じられました。
この曲ってこんなに美しかったんだねえ。。。そしてしっかり悪夢だった。。。
例によってサロネンのような楽器が壊れるのではレベルの狂暴性やゲルギエフのような土臭い野性味とは異なるけれど(ゲルギエフはストラヴィンスキーを「ロシアの音楽」と言い切っているそうです)、バレエ・リュスがフランスとロシアの融合であるなら、今日の演奏はフランスの空気の方をより強く感じました。
といっても「優雅で上品なおフランス」の方じゃないですよ。バレエ・リュスを生み出した方のフランス。いや、品はいいんですけど、それ「だけ」ではないというか。
なんかパリ管って気まぐれで場合によってはやる気のない演奏を聴かされるような勝手なイメージがあったんですけど(根拠ゼロです、フランス人に対する100%の偏見です、すみません)、今日の演奏はしっかり熱が感じられて素晴らしかった。マケラ&パリ管のコンビ、いいね~。きっと良い関係にあるのだろうなあと感じました。
第一部のラストの爆発には、固まって動けなくなってしまった。あの客席の静寂。きっとみんな固まっていたに違いない。
この曲でも、パリ管の音は禍々しさと色っぽさがあって、そして自由で美しい。

そしてマケラは、オケやホールの雰囲気を作るのが上手いね。演奏前も、指揮台に脚を開いて俯いて立つだけで、オケも客も静まりかえって空気が出来上がる。26歳で見事なものだなあ。
こういうのって意外と大事ですよね。以前千々岩さんがサロネンについて「この指揮者の良いところは、演奏前に既に良い演奏になることを確信させるところ」みたいなことをtweetされていた記憶があるけど、マケラにもそういう空気を既に感じる。これから更に成長していくのだろうなあ。
もちろん演奏も、あの歳で完全にオケをコントロールしているようにちゃんと見えるし、聴こえる。実際はパリ管がマケラに協力的だからという理由も大きいのだと思いますが、オケにそうさせるのも指揮者のひとつの才能ですよね。今日も指揮者が魔法使いになっていました。

今日の演奏を聴いていて気付いたけど、春祭って『火の鳥』と似てる部分もあるのね。やはりストラヴィンスキーなのだな、と。

照明演出は、行く前は「マジいらない」と思っていたけど、実際はそこまで気になりませんでした。マケラとオケを見ていたら最初のうちはいつ照明が変わっていたのか気付かなかったくらいだし、ストーリーの変わり目で変わるので、聴いていて物語を思い浮かべやすいというメリットもあるといえばある。まあ、いりませんけどね。

【ムソルグスキー:オペラ『ホヴァンシチナ』より前奏曲「モスクワ川の夜明け」(アンコール)】
演奏前にマケラから、日本に戻ってこられて嬉しい的な挨拶と、アンコール曲の紹介。
マケラってああいう声なのか。そして頭も耳も完全にフランスになっていたので、突然の英語に戸惑うワタシ(阿呆だ)。
マケラはフィンランド人なのだった。コンマスさんは日本人の千々岩さんだし、なのにどうしてあんなにイギリスともアメリカともドイツとも違う、ちゃんと”フランス”に感じられる個性的な音が出るのか不思議。
この曲は初めて聴きましたが、どこか郷愁を帯びた美しい曲ですね。
パリ管は清澄な音もしっとりした音もちゃんと出ているのが本当によい
これがどういう内容のオペラかわからないけれど、フィンランド人であるマケラが今この曲を指揮するというのはどういう気持ちなのだろう。調べてみると、この曲は前奏曲で、「川の小波、鳥のさえずりなど、モスクワの夜明けの美しさが変奏曲の形式で描かれ、続くオペラ本編の人間たちの壮絶な政治闘争の描写と好対照を成す」(wikipedia)と…。

最後にマケラがオケに立つように促しても、オケはマケラを称えて立たず。一般参賀も一回ありました。

「広大なレパートリーから好きな曲を選んで指揮することに子供の頃からあこがれていた。最初にオーケストラを振ったのは12歳の時。あの感動は忘れられません」

ヘルシンキのシベリウス・アカデミーで師事したのは名教師ヨルマ・パヌラ。「僕の自主性を重んじ、個性を伸ばしてくれた。指揮で一番大切なのは『奏者の邪魔をしない』こと。そのため言葉を極力使わず、ジェスチャーで楽団員に意図を伝えることを学んだ」

 共に来日するパリ管について、「個性の強い集団で繊細かつ知的な音楽が持ち味」と語る。音楽監督に着任してまだ日が浅いが、すでに「彼らの美点を引き出す方法がわかってきた。演奏水準は日を追うごとに上がっている」と自信を見せる。
読売新聞「パリ管弦楽団率いる26歳の異才、クラウス・マケラの極意は「言葉を極力使わない」

頼もしい

ラトル&ロンドン響に続きマケラ&パリ管、心から楽しませて&感動させていただきました。来日してくれてありがとう!!!
さて、これからブロムさん&N響、行ってきます

※18日のパリ管サントリーホール公演の感想はこちら




クラウス・マケラ指揮 パリ管弦楽団「ラヴェル:ボレロ」

クラウス・マケラ指揮 パリ管弦楽団「ドビュッシー:交響詩《海》」

今回の春祭のバレエ映像での予習はゲルギエフ&マリインスキー管ではなく、こちら↓。どちらも二ジンスキー振付のものですが、こちらの演技の方がストーリーがわかりやすい。このニジンスキー版を復活させたのもこの方達とのこと。
Joffrey Ballet 1987 Rite of Spring (1 of 3)

パリで活躍する日本の「副コンマス」たち。第1回 パリ管弦楽団 副コンサートマスター 千々岩英一さん(アッコルド)
千々岩英一さん(And Vision)
千々岩さんのtwitterは時々拝見しています。

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カヴァコス・プロジェクト2022 @紀尾井ホール(10月9、10日)

2022-10-12 19:03:21 | クラシック音楽



【J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン】
10/9

パルティータ第3番 ホ長調 BWV1006
ソナタ第2番 イ短調 BWV1003
ソナタ第3番 ハ長調 BWV1005
(アンコール)
ソナタ第1番-1、4
パルティータ第2番-1
ソナタ第1番-3
パルティータ第1番-7
パルティータ第3番-1

10/10
ソナタ第1番 ト短調 BWV1001
パルティータ第1番 ロ短調 BWV1002
パルティータ第2番 ニ短調 BWV1004
(アンコール)
ソナタ第3番-3
パルティータ第3番-3
ソナタ第3番-4
ソナタ第2番-3

※両日とも2曲目の後に休憩あり


3年がかりのカヴァコス・プロジェクト、2年目の今年は、バッハ無伴奏ヴァイオリンソナタ・パルティータの全曲演奏会。
バッハの無伴奏ヴァイオリンの全曲演奏を聴くのは、昨年のファウストに続いて二回目です。

ところで紀尾井ホールでリサイタルを聴くのはエマール、アンデルシェフスキ、そして今回のカヴァコスで3回目なのですが(全部バッハ…)、今までも薄々感じてはいたけれど、わたし、このホールの音響が得意ではないのかもしれない
世間では抜群の音響と言われている理由もよくわかるのだけど、私の耳には音が届きすぎるように感じられ、ここで演奏を聴くといつも音楽より楽器を聴いているような感覚を覚えてしまう。エマールもカヴァコスもタケミツホールではそういうことはなかったので、となるとホールと私の相性がよくないのかも、と。ただ紀尾井ではこれまで全てR側バルコニー席だったので、次回は正面席を試してみたいと思う。

とはいえ今回の2日間のリサイタル、非常に楽しめました。
カヴァコスの無伴奏は協奏曲のアンコール時に3回聴いたことがあるだけで、改めてちゃんと聴いたのは今回が初めて。予習なしだったので、一曲目から「カヴァコスってこういうバッハを弾くのか」と驚いた。私は彼の弾くブラームスが大大大好きなのだけど、バッハもブラームスのような勢いのある演奏で(と私には感じられた)、最初は戸惑ったのが正直なところではありました。加えて耳慣れない装飾音?も聴こえてくるので、全く知らない曲を聴いているよう。
本来の私の好みはもう少し正統的なバッハなのだけど(何を正統的とするかは人それぞれですが)、ではカヴァコスの演奏が不自然だったりキワモノ的だったかというとそんなことは全くなく。ホール中に”カヴァコスのバッハの世界”が力強く広がっていく感覚に心動かされました。

皆さんもSNSで書かれていたとおり、一日目の最初のうちの演奏は明らかに調子がよくないように聴こえました。私の場合は彼のバッハ演奏自体への戸惑いもあったので、安心して音楽に浸れるようになったのは休憩後の3曲目(ソナタ第3番)くらいからだったろうか。
ソナタ第3番-4.Allegro assai(二日目のアンコールでも演奏)はホール中を音の光や波が満たしていくようでしたし、一日目のアンコールの最後に弾き直し?として弾かれたパルティータ第3番-1.Preludioは最初の不調だった演奏とは別物のように素晴らしく、複数の楽器のオーケストラを聴いているようで心動かされました。
二日目のシャコンヌも、独特の演奏ではあったけれど、後半にホールに広がっていく音色に胸にこみ上げてくる瞬間がありました。

でも最も心に響いたのは、二日目のアンコールの最後に演奏されたソナタ第2番-3.Andante。シャコンヌを別にすると、無伴奏ソナタ&パルティータの中で最も好きな曲です。
私の席は舞台袖の様子が見える席だったのですが、このとき舞台に戻る前、カヴァコスは、一緒に舞台に出てほしいと誰かを何度も手招きしていて、でも断られた(遠慮された?)ようで、諦めたように一人で舞台に出てきました。誰を呼んでいたんだろう?AMATIの社長さんとか?とその時は思ったのだけど(以前にツィメさんがJapan Artsの会長さんを舞台に連れ出したときと似ていたので)、今思うと通訳さんだったのかな、と。
一人で舞台に戻ったカヴァコスは、英語で挨拶を始めました。要約すると、以下のような感じ。

-----------------
今日はこの素晴らしいホールで皆さんのために演奏できたことを嬉しく思います。静かに音楽に耳を傾けてくださった皆様に感謝します。※ここで客席から笑い(
音楽において静寂はとても大切で、全ては静寂から生まれ、静寂に還ります。
ですから私は今日の演奏会を静寂で終えたい(closeしたい)と思います。今からソナタ二番のアンダンテを演奏します。どうか演奏が終わった後、拍手をしないでいただければ幸いです。 ※ここでも客席から笑い(
-----------------

これは無理だよカヴァさん……。日本人は言われていることの意味さえ理解できればみんな絶対に守るけど、おそらく今日の客席でカヴァさんの言葉を理解していたのは半分か、多くても3分の2。笑いが起きていたのは、意味を理解しないで笑っていたのだと思う。あの意味を理解していたら笑えるはずがない。意味を理解していないのに笑う理由は……私にはわからん(でも見慣れた光景)。
「演奏後はしばらく静寂を」ならまだしも、「静寂のまま演奏会を終えたい」は言葉の意味がわからないなりに周りの空気から察するには難易度高すぎる。
演奏後は絶対に拍手が起きる、と100%思っていたので、案の定起きてしまったときも「まぁそうだよね」と特に怒りは湧かず(でもしばらくはちゃんと静寂が保たれてはいました)。カヴァさんは残念そうでしたね。ちょっと気の毒だったな。
ちなみに私の左隣の男性が休憩時間に読んでいた本はシフの『静寂から音楽が生まれる』でしたが、この男性でさえ拍手していた。右隣の男性と私は最後まで拍手しませんでしたが、半分くらいの人達が拍手していたかな。
カヴァさんからの意向を受けてなのか、演奏後もしばらく照明はつかず、もちろんカヴァさんは舞台には戻らず、会場内は少し微妙な空気に。そしてお開きとなりました。

でも、この最後の演奏は本当に素晴らしくて、強く心に響きました。前日に本プロで演奏されたときはここまでは心動かされなかったのだけど、やはり今日の方が調子がよかったのかな。あるいはアンコールとして、そしてあの挨拶の内容に合わせて、少し演奏の仕方を変えていたのかもしれません。
先ほども書いたように、シャコンヌを別にすると、この曲は全ソナタ&パルティータの中で私の最も好きな曲です。ファウストの時にも感じたけれど、一人の人間が前を向いて人生を歩んでいる、そういう音楽に聴こえる。どんなに辛くても、ボロボロになってよろけても、最後の瞬間まで私達は前に向かって歩んでいくしかないのだな、歩いていくのだな……と。カヴァコスの演奏を聴きながら、泣きそうになりながら、でも静かな力ももらえたのでした。
この無伴奏ヴァイオリンソナタ&パルティータは全6曲中4曲が短調で、長調は2曲のみ。人生みたいだな、と感じます。そしてどちらも最後(第三番)が長調

「ハーモニーのリズムと、リズムのハーモニー。生きるという経験の中でカタルシス、つまり魂の浄化を得ることを目指す個人的な旅に乗り出すたび、この2つは決定的に大きな力になってくれる。そして、そうやってテーシス(神化・神成)、つまり人間が神の性質を得た状態へと近づく門の扉を開いてくれる」
「バッハはパルティータ第3番のプレルディオをオルガンと管弦楽用に書き直して、カンタータ第29番冒頭のシンフォニアに使った。カンタータ第29番には『神様、私たちはあなたに感謝します』というタイトルが付けられたが、このタイトルは6曲のソナタとパルティータすべてのタイトルとしても使えそうだ」
(2020年ベルリンのルーテル福音派「聖十字教会」で録音した全曲演奏の日本語版ブックレットより、カヴァコスの言葉)

ところでヴァイオリンリサイタルの恒例として、今日も客席には教育ママ風+小さな子供の組み合わせ多し。
演奏が始まる直前に二人の子供達の膝の上にそれぞれ楽譜を置くママ。女の子はすぐに拒否。男の子は最初のうちはパラパラ読みながら聴いていたけど、すぐに拒否。そして二人とも眠りの世界へ。ママは返された楽譜をパラパラ。
オケの演奏会でスコア本を目で追いながら聴いている人達もそうだけど、ネットのない数十年前じゃあるまいし、楽譜と見比べるのが目的なら配信聴けばよくない?譜読みは大事だけど、演奏会ってその時その場でしか体感できない響きと空気を全身で味わうものじゃない?楽譜を拒否した子供達は将来有望だわ、と思ったわ(寝ちゃったけど笑)。



永田町から紀尾井坂へ


すっかり秋だねえ




演奏会後は、ニューオータニの日本庭園を通って赤坂見附方面へ


『リヴィエラを撃て』の物語の始まりの場所


紀尾井=紀伊徳川、尾張徳川、井伊の三家のことだったと初めて知った。。。

★そして相変わらず可愛いカヴァコスのインスタ(旨そーだな・・・)★









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ロンドン交響楽団 @サントリーホール(10月6日)

2022-10-08 04:41:28 | クラシック音楽




前日に続き、ロンドン響サントリー公演2日目に行ってきました。
ラトルらしさいっぱいのおもちゃ箱から取り出したようなプログラム、ラトルらしさいっぱいの演奏。
とてもとても楽しくて、ワクワクして、幸福でした。
ラトル&LSOの演奏会はいつも私に”この世の天国”を感じさせてくれる。
心からありがとう、ラトル&LSO。

昨日もだけど、ロンドン響は奏者達が拍手に迎えられながら一斉に入場ではなく、各々がぱらぱらと舞台に出てきて、気づけば揃っているという珍しいパターン。この気取りのない親しみやすい感じ、私はとてもいいと思いました。


【ベルリオーズ:序曲『海賊』 Op. 21】
これぞラトル&ロンドン響の音
この鮮やかさ、明るさ、躍動感。第一音から昨日とは別のオケのよう。やはり昨日はお疲れだった
まるでディズニーランドで10分間のアトラクションに乗ってるみたいで、楽しくて仕方がなかったです。ベルリオーズらしくはないのかもしれないが、大大大満足!
金管も昨日に増して輝かしい。

【武満徹:ファンタズマ・カントスⅡ(トロンボーン:ピーター・ムーア)】
「個人的に大好きなフランス音楽も取り入れたかった。フランス音楽から影響を受けた武満徹の作品を日本で演奏したいとずっと思っていたので、トロンボーン協奏曲(ファンタズマ/カントスII)を取り上げる。武満徹はジャズから非常に影響を受けている。父がジャック・ティーガーデンを好きで私も小さいころから聴いて育った。トロンボーンが歌手のように美しいアリアを奏でる」
来日前インタビューより。ontomo)

ラトルはこの曲だけ譜面あり。
トロンボーンと他の楽器が織りなす妙にうっとり
ロンドン響ってこういう大人な音色も自然に出しますよね。
トロンボーンの音色の柔らかで繊細な移り変わり。指揮者の隣で吹いたのでP席に音が飛んでくるか心配だったけど、ちゃんと聴こえた
ところで武満を海外の奏者が演奏するときに必ず「日本人が演奏する場合」との比較が議論に上がるけど、谷川俊太郎さんが(友人の)武満徹が海外で受け入れられたときに「詩と違って言葉の壁のない音楽が羨ましかった」と仰っていたことを考える。音楽に国境はあるのか、ないのか。私はあるとも言えるし、ないとも言えるように思う。ただ武満自身は、自分の曲を海外のオーケストラが演奏することを心から楽しんでいたのではないかなと思う。以下のKajimotoの連載記事はとても面白いのでオススメです。

・没後25年を思う──蔵出し連載「武満徹と〇〇〇の間」+ 雑感色々(その1) 、(その2)、(その3)、(その4)、(その5

《ノヴェンバー・ステップス》をヨーロッパで初演したのは、ハイティンク&RCOだったんですね。ハイティンク39歳のとき。上記連載には武満とLSO、ラトルについてのエピソードも書かれてます。

【(ソリスト・アンコール)ディヴィッド・ユーバー:ブルース エチュード(Clef Study No18)】
ジャズのようで素敵だ…。サントリーホールじゃないところで聴きたい(お酒飲むようなところ)
ムーアと一緒にステージに戻ったラトルは、空いてるハープの席に座ってすごく楽しそうな表情で聴いていた。演奏後は隣の奏者に興奮したように話しかけてて子供みたいだ。ラトル、こういう曲が好きそうですもんね。

【ラヴェル:ラ・ヴァルス】
このコンビのラヴァルスは、狂暴な響きは出てるけれど不穏さは皆無。いや、音自体はちゃんと不穏なんだけど、根本が不穏じゃないというか。音楽が崩れるところも整然と崩れていく。ロンドン響が巧すぎるのが仇になっているのではなく、ラトルの音楽作りがそうなのだと思う。指揮してるラトルの表情も全く不穏じゃなく、めっちゃ楽しそう
この曲に関しては、私は優しく甘くかつ刺激的なデュトワの方が好みで、ワルツの切なさもあちらの方が好きなのです。
実は今回の来日に先立って行われたベルリン公演(武満以外は今日と同じプログラム)でのラトル&LSOのこの曲の配信を聴いて、私、持っているロンドン響のチケットを全部手放そうかと思ったほどで。自分の好みと合わなすぎて。他の曲の演奏がよかったから思いとどまったのですけど。
でもいざ生で聴くと、思いのほか楽しめた
このロンドン響の音で思いっきり演奏されるラ・ヴァルスを聴くこと自体、凄く贅沢。それに音の狂暴さはしっかりあるから、聴いていて興奮するし楽しい。
好みじゃなくても、楽しかったから満足です。
それに、今の私は心が暗いので、ラトルの音楽の明るさに救われたのも正直なところ。

(20分間の休憩)

【シベリウス:交響曲第7番 ハ長調 Op. 105】
今日も前日同様、休憩時間にオーボエ&フルートが交代(もっとも今日は前半も問題なかったけど)。
この2日間の私的白眉はこの曲でした。4年前の5番も素晴らしかったけど、今回の7番の美しさといったら。。。。。。。。。
ラトルはラヴァルスのような「安定しているものが崩れていく美しさ」の音楽よりも、こういう「混濁しているようで実は安定している世界の美しさ」を表す音楽の方が合っているように感じる。LSOとのラストコンサートはトゥーランガリラとのことだけど、このコンビに合ってると思う。
そしてLSOの透明で清澄な音色はシベリウスに本当によく合う(5日の演奏は残念だったけど)。
以前はこの楽団の音の色の薄さに戸惑ったけど、今はこの楽団にしかできない音楽があることがわかる。
ラトルの、最後の和音のさりげない終わり方も凄くいい。とはいえここは難しいのか、ベルリン公演の演奏は僅かにアッサリしすぎで消化不良だったのです。でも、今日のは大変良かった。
予習で聴いたサロネンの膨らませるように響かせるラストも素敵だったけど、今日のように完璧にキマるならラトルのようなまっすぐな音色のままの終わらせ方は個人的に凄く好き(それにしてもサロネンとラトルは得意な曲が似てますね)。
暗く淀んだ心が洗われるような演奏でした。

【バルトーク:バレエ『中国の不思議な役人』組曲】
シベリウスが素晴らしすぎたので、もうあれで終わりでいいんじゃない?と思いかけたけど、ここでこの曲なのがまさにラトルだよね
最後のお祭り気分で、思いっきり楽しめました!
娘を表すクラリネット、色っぽくて大変よかった。ラトルもすごく満足そうに見てた。
ラトル&LSOなので全体的に不気味さは薄いけど、巧すぎて別の意味で怖い。ジェイソンに狙われてる気分で、ロックオンされたら最後、絶対に敵わない感じがする。
ただ大音響の時はサントリーホールの音響では音が混濁気味で、本来はミューザのようなホールが合っている曲なのだろうなとも。と同時に、ミューザだと解像度が良すぎて不思議っぽさ色っぽさは減退してしまうような気もする。それにしても音の飽和状態の中でもこれほど完璧に美しく思いきり演奏できるロンドン響は凄いものだ。
最後の追い上げ、いやあ、凄まじかった。楽しかった。
こんな風に最高に楽しい気分にさせてくれるのも、ラトルの魅力ですよね。
チェレスタは日本人だったのかな?演奏後にラトルが感謝を示していた。

【(アンコール)フォーレ:パヴァーヌ Op. 50】
ラトルの日本語での曲紹介に続いて、アンコール。
このコンビって、こういう雰囲気の音楽もほんとに上手い。
フルート、美しかった。。。。。。。。。
この曲はまさにサントリーホール向きの音楽。
幸福な2日間の最後の曲をしっとりと聴きながら、こうして彼らの音楽を聴けていることの貴重さを感じました。
以下は、先日の日経のニュース。
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クラシック音楽事業の老舗であるジャパン・アーツの二瓶純一社長は、今秋のような一流オケの来日ツアーが「今後、激減するのではないか」と予想する。「大きなスポンサーがつく公演は別として、中小の民間事業者が、今のようなコスト高の中で一流オケを呼び続けるのは無理」。最近の海外との交渉の中で「欧州の音楽関係者も、今後、アジアツアーを諦めざるを得ないと考え始めている」とも感じているという。
新型コロナによる入国制限は世界的には緩和されつつあるが、中国ツアーの再開にはまだ時間がかかりそうだ。「ジャパン・マネー」で音楽家を呼べたバブル景気の時代と違い、近年のアジアツアーは「チャイナ・マネー」を目当てに企画される傾向があった。それができないとなると、日本や韓国だけに来るメリットは小さい。実際今年も、中国ツアーが成立しないことを理由に中止になったオーケストラの来日がいくつかある。
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国力が弱まるというのは、こういうことなのだなあ…。
現実に起きて実感する。

奏者達のP席への一斉挨拶の笑顔。目の前のホルンやパーカッションの人達がニッコニコで振り返ってくれて嬉しい

ラトル&LSOの公演はいつも、終演後にホールを出た人達がみんな笑顔で幸福そうで。
そんなやっと戻り始めた日常の光景を眺めながら、この先どれくらい東京でこういう風景を当たり前のものとして見られるだろうか、と思ってしまった。特別なものではなく、当たり前のものとして。日本の未来と、世界と、美しい音楽と…。
でも今は、こんな美しい時間を人生の中でまた一つ持つことができたことに、ただただ感謝。

一夜明けて、7日は私の誕生日。
でも普通に仕事…(在宅だけど)。
まあ素晴らしかった演奏会の感想をこうして書けることも幸せなことです。

ラトルは次回はバイエルン放送響と来日かな。
ラトル&ロンドン響、私にとってはヤンソンス&バイエルン放送響と並んで相性完璧コンビだったのだがなあ。仕方がないとはいえコンビ解消は実に実に惜しい。。。。。。ヤンソンスさんの後任がラトルなのは嬉しいかもだけど。
とはいえロンドン響の後任のアントニオ・パッパーノを今回の予習で初めて聴いたけれど、LSOとの相性はとても良いように感じました。こちらのコンビも楽しみ


せっかくラトルが日本語で言ってくれたけど、肝心の「フォーレのパヴァーヌ」が聞き取れなかった。日本語発音を頑張ってくれたけど、イントネーションが「フォーレ⤵」じゃなく「フォーレ⤴」なんだもの(この曲がアンコールで演奏されることはベルリンと大阪の公演で知っていたので問題はない)。



武満の娘さんがツアーマネージャーだったのか
以下は、先ほどご紹介した連載記事より。

ところで、私が武満徹さんと会話したのはたった一度。
1992年、東京芸術劇場でサイモン・ラトル指揮バーミンガム市交響楽団がメシアン《トゥランガリラ交響曲》を演奏した際の、終演後のロビーです。私は上司に「武満さんはラトルと親しいから、楽屋に案内して」と指示され、武満さんをロビーからバックステージへとお連れしました。その時の武満さんは真赤な顔で興奮しておられ、こんなことを言っていました。

「僕はこんな《トゥランガリラ》聴いたことないよ!少し前、エサ=ペッカ・サロネンがN響を指揮した演奏で、これ以上のものはない、と感激したものだったけど、さらに上があったんだねえ!」と。
実は私もそのサロネン/N響の演奏を聴いており、この日のラトル/バーミンガム市響も客席で聴くことができたので、「私もまったくおんなじ思いです!!」とつい熱くなって返答しますと、「そうか君もか!いや~ホント凄かったよね」と、この後お互いよくわからない感嘆の言葉の応酬をしつつ、廊下を歩いて行きました。
Kajimoto News 没後25年を思う──蔵出し連載「武満徹と〇〇〇の間」+ 雑感色々(その5)

音楽プロデューサー 武満真樹さん 父・武満徹は猫がピアノの鍵盤を歩くと「なるほど」(東京すくすく)

そして帰宅してバレンさんのこのtweetを知ったのでした……。
バレンさん、大丈夫なのかな……。心配……。どうかお大事に……。
そして12月の来日はどうなるのだろう。もしキャンセルなら、テンポプリモさんも前回のリサイタルの一件に続いてお気の毒です…。


※追記


皆さん、飛行機使わず新幹線で小倉行くのか…!
私も全国割で新幹線で九州行くのを考えて(飛行機苦手なので)、5時間は耐えられないかも…と思ったのけど、意外とイケるのだろうか。考えてみたらロンドン→エジンバラの鉄道は4時間半、アンカレジ→デナリは7時間だったけど全然ノープロブレムだった。そもそも飛行機のエコノミー席に12時間座ってヨーロッパ行けたんだから、それより座席の広い新幹線で5時間なんて実はどうってことないのか…?


今回の来日公演でコンマスをされてたAndrej PowerはLSOの新しいLeaderなのかな?と思ったら、guest leaderとのこと。

※さらに追記


在日英国大使のJulia Longbottomさん、書道もされるんですね
ラトルが彼女に日本への思いを熱く語ってくれたという話も、嬉しかったな

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ロンドン交響楽団 @サントリーホール(10月5日)

2022-10-07 21:58:51 | クラシック音楽



4年ぶりに来日したロンドン交響楽団の、サントリーホール2公演に行ってきました。
ラトル&ロンドン響は前回がこのコンビでの初来日で、その後コロナ禍を挟んで来日できず、今回が最後の来日となってしまったのでありました。
4年前と同じく、最っっっ高に幸せな気持ちにさせてもらえた2日間だった
まずは1日目の感想から。

【シベリウス:交響詩『大洋の女神』Op. 73】
【シベリウス:交響詩『タピオラ』Op. 112】
前回の来日公演で聴いたこのコンビの5番が素晴らしかったので、この日の私のお目当ては前半のシベリウス2曲でした。
しかし。
なんか皆さんお疲れ気味・・・
前日の休みで気が抜けちゃった?
とんがった音色や、美しい強奏や、どこから聴こえてくるの?な弱音に流石だなあとは感じつつ、なぜかオケに4年前のようなワクワクする雰囲気がなく、音も今一つ集中力と覇気が欠け、音楽が細切れに聴こえるというか。
ラトルだけはいつもどおり頑張っていたけど、いかにせこれは・・・。
いや決して悪くはないんですよ。金管は前回来日時より明らかに状態いいし。でも、消化不良でモヤモヤ。
特にソロを吹いたオーボエとフルートが・・・。まさかこの2人が後半のブルックナーも担当するんじゃなかろうね?と心配していたら、後半は2人とも交代でホッ(ごめんなさい、でもほんと気になったの…)。

※後でSNSで知りましたが、LSOは4日は朝から北朝鮮のミサイルのJ-Alertで起こされ、その後束の間の休暇を札幌で満喫し、それから東京へ移動。ブラスセクションの一部は同日銀座の高校を訪問し、その後イギリス大使公邸でミニリサイタルを行ったとのこと。「女王を偲んで英国の曲が演奏された」そうだけど、何の曲だったんだろう?(そういえば先日の女王の国葬でパーセルがオルガンで演奏されてて、ハイティンク&LSOの来日で聴いたなぁと懐かしかった)。皆さんお疲れなわけだ。そもそも30日京都、1日大阪、2日川崎、3日札幌、4日移動、5日~7日東京、8日移動、9日北九州、10日移動、11日〜韓国って・・・・・・。相変わらずの激務ね・・・。

(20分間の休憩)

【ブルックナー:交響曲第7番 ホ長調(B-G. コールス校訂版)】
この曲を生で聴くのはハイティンク&ロンドン響(2015年)、ブロムシュテット&ゲヴァントハウス管(2017年)に続いて3回目。
まずは気になっていたオーボエ&フルートが交代されて一安心(後半はJuliana KochとGareth Davies)。
オケ全体も後半は集中力増し。
ロンドン響のブルックナー7番は、2015年のハイティンクとの演奏が強く深く心に刻まれていて1000%満足しているので、今回は特に期待も予習もしていませんでした。
でも待てよ、と。せっかくチケットを買ったのに、予習なしでいきなり前回のラトル’sマーラー9番のような洗礼を受けるのは危険かも、と当日午前にバーミンガムとの三楽章以外をyoutubeで見つけたので聴いてみたんです。
そしたら、これはアリかも、と。
人によって好き嫌いがはっきりと割れそうだが。
今日のブルックナーも、傾向としてはバーミンガムのそれと同じ。
つまり前回のマーラー9番の印象と同じで、これは当時私が書いた感想↓
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ここで盛り上げていけば別世界の光景が広がるのに!という部分をあえて淡々と流して、ここの一瞬の沈黙が全てを物語って最高なのに!という部分に沈黙をいれないで、ここを鋭く演奏すると最高にかっこいいのに!という部分を滑らかに演奏させて、ガラッと空気が変わるはずの部分を変えないで、、、そういう諸々が単純に「もったいない」と思ってしまったんです。ラトルの見せたい世界を見せるためには、これほどの犠牲を払わないとならないのだろうか・・・と(ラトルはそれを犠牲とは考えていないと思うけど)。
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普通に演奏すれば大感動の音楽なのに、敢えてそれをしない、もったいないとも感じられてしまうやり方。
でも今回は、これはこれでとても良いブルックナーだと感じたんですよね。前回の大人買いでラトルの音楽作りに慣れたせいもあると思うけど。
ハイティンクのときのようないつまでも深く心の中に後を引いて残る感覚はないし、どちらか一つを選べと言われれば私は即答でハイティンクのブルックナーを取るけれど(あの夜の演奏は私の中で別格なので)。
でも今日の演奏、妙に耳に残る演奏だった。
なんというか、自然の安定、的な。
2楽章の安定した美しい音のハーモニーでは、ヤンソンスのマーラー9番を少し思い出してホロリとした。
こういう音のコントロールはラトルの特徴でもあるよね。曲によって良くも悪くもになるけど、この曲では良い意味ではまっているように感じました。そして普段聴こえない音が聴こえて、淡々と流れてるようで他とは違う新鮮な風景を、彼だけの風景をちゃんと表出させている。
今ならラトルのマーラー9番にも感動できるかもしれん。
4楽章はクライマックスが多すぎじゃね?とか(少々単調に感じられた)、LA席だったので大音量に左耳が痛くなったりもしたけれど(しかしこの席はつくづく聴こえる音のバランスが悪いな…。ラトルの表情がよく見えたのとワグナーチューバがこちら向きだったのがせめてもの救い)、フィナーレではちゃんとそれらを上回るクライマックスを作ってくれた。あのホールを満たす合奏の響きの神々しいまでの多幸感
なのに。
響きが完全に残っているうちのフラ拍手。今日の公演はTDKの関係者&招待客らしき人達がとても多かったので、仕方がないのかも。「LSOってどういう意味?」なんて会話も普通に聞こえてきてた。とはいえ個人的には、演奏後の拍手のタイミングまで場内でアナウンスする(させる)方向性には賛成できませんが。芸術って根本的に、最大限なぎりぎりまで自由な場にあるべきものだと思う。フラ拍手にはめっちゃ腹立つけど。

それにしても金管、美しかったなあ。。。。。。今回の来日公演、ブラスセクションの輝かしい音色にやられっぱなしです。

・カテコのとき、RA席でブラボー布を掲げた女性に「上下が逆になってるよ」と根気よく教えてあげるラトル。奏者の譜面台から7番のパート譜をとりあげて掲げ、ブルックナーとコールスへの賛辞も示していました。

・今日の指揮は全曲暗譜だったけど、あんなに指揮台ギリギリまで出て下を見ずに動きまくって、よく落ちないものだ、と妙な感心もしたり。

・コールス版の違いは、私にはわからず。

・今夜のブルックナーを振るラトルはまさに全身全霊といった感じで、ツィメさんが前回の来日ツアーの際に『不安の時代』を指揮するラトルについて言っていたことはきっと本当なのだろうな、と感じました。以下、再掲。

「サイモンは『彼がここにいた気がする』と、昨日も含めて、ツアー中に何度も言っています。バーンスタインはこの曲の中に信じられないほど存在し続けているのです。私はツアー中に何度も涙がこみ上げてきましたが、ラトルは音楽にのめり込んでいました。彼は全身全霊をかけていたので、そのまま死んでしまうのではないかと心配になるほど、すべてを捧げていました。私がいつも生徒に繰り返し聞かせるように『私たちが音楽の最初の犠牲者にならなければならない』のです。その信念が一番大切で、それがない人は職選びを間違えたと言えましょう」
(『音楽の友』2018年12月号)

・「ラトルはブルックナーの人ではない」という声をチラホラ聞くけれど、ラトルってブルックナーも普通に好きだよね。好きじゃなかったらコールス版やら9番完全版なんて手を出さないと思うし、以前もご紹介した9番についてのインタビューも、ブルックナーへのこだわりを感じる。この中でラトルは「ブルックナーはワグナーのようにではなくシューベルトのように演奏すべきだ」と言っていて、彼のブルックナーの独特の「安定さ」の理由はこういうところにもあるのかな、と。

it is very important for conductors and orchestras to understand that there is so much Schubert in Bruckner. We should not make the mistake to play Bruckner much differently from Schubert. It has to be as ‘classical’ as Schubert, and very disciplined because this is very expanded music after all, as Schubert’s late quartets are very expanded. I never forget what Günter Wand once said to my orchestra: 'Bruckner’s harmonies are romantic but the rhythms and the structure are classical'. I found this so important that I kept saying it, over and over again. He was absolutely right, because you cannot lose this frame, be indulgent with it. You really must be strict about the rhythms, the structure and the relations. The harmony may lead you to Wagnerian flexibility, but that is a grave mistake. Bruckner’s great admiration for Wagner does not mean that his music ‘walks’ in the same way.

・今日のプログラムを聴いて、シベリウスとブルックナーの相性はとても良いと感じました。私が宗教的でない人間のせいかもしれないし、自然が神そのものと思っている人間だからかもしれないけれど。そういえばハイティンクは7番の指揮を学ぶ生徒に「神ではなく山について、もっと考えを巡らせなさい」と言っていたな。

「ブルックナーとシベリウスの交響詩では、自然がぶつかりあい、進化を遂げる。どちらも自然の力を感じる作品です。B-G.コールスは優秀なブルックナーの研究者。自分の考えを差し置いてブルックナーが何を書いたのかにとことん誠実に向き合った版です。だから今回私たちは“正しい7番”を演奏できると思う。」
(来日前のインタビューより。ontomo

※サイモン・ラトル指揮、ロンドン交響楽団の来日ツアー前にこだわりのブルックナー作品『交響曲第4番』がリリース(Mikiki

翌6日公演の感想はこちら

 

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