風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

七月大歌舞伎 夜の部 @歌舞伎座(7月29日)

2014-07-30 20:51:47 | 歌舞伎



※1階5列目中央

ハイ、またまた一階席ですよ~。だってオペラグラス越しじゃなく玉さまの表情を見たかったんだもの・・・衣擦れの音まで聞きたかったんだもの~~~・・・・・・・・。


【悪太郎】

右近さんは先日よりだいぶこなれられてて、猿弥さんとの絡みは変わらず可愛く、楽しかった^^(作品的にどうしても中だるみはしますけど)。猿弥さんの智蓮坊は、ふんわりした雰囲気がとてもいいですね。
『素襖落』もそうだったけど、こういう狂言の登場人物たちってなんかいいよねぇ。松之丞(亀鶴さん)は酒癖の悪い甥に困りながらも決して嫌ってはいないし、悪太郎も寝てる間に突然坊主頭になっちゃってちょっぴりショックを受けながらも「仏のお告げ」と飄々と受け入れてるし、智蓮坊も道端で絡んでくる面倒くさい酔っぱらいに困り顔ながらやっぱり飄々と付き合ってあげて、最後は一緒に修行の旅にまで出ちゃう。
良いことも悪いこともそのまま受け入れて、いつも前向きで明るくて。
こんな風にいられたら、人生に大変なことなんてなくなるのではないかしら。


【修禅寺物語】

先日も書いたとおり皆さんお役にとても合っておられて、特に笑三郎さんの桂は本当にぴったりですねぇ。前回も今回も、とてもよかった。

今夜は、中車さんの演じ方が先日から随分変わられていて驚きました。
良くなった、と言ってもいいのかなぁ。。。うーん。。。歌舞伎から遠ざかったと言えばそうとも言えるような。。
なんというか、「客を笑わせない」演技をされているように見えました。よりリアルで直接的な演技をなさっていて、夜叉王という人がどういう人間なのか、はっきりと伝わってきました。
夜叉王のことを“狂気”と表現している感想をよく目にしますが、あれは決して狂気などではないですよね。芸術に全てを捧げた者の普通の姿だと私は思う(もちろん誇張はされているけれども)。芸術って本来そういうものだと思うからです。50%なんてない、常に100%でなければ、それは芸術とは呼べない。そういう風に生きているから、当然普通の人の感覚や常識とは異なる部分が出てくる。普通の人達には時に彼が異常に見えるかもしれない。でもそれは芸術に従事する者だったら当り前のことで、狂気などでは決してない(そもそも狂人には本当の芸術は生み出せないと私は思ってます)。もちろん、人の情だってちゃんとある。それらは決して矛盾していない。
そういう芸術家あるいは職人の姿が、今夜の中車さんからはとてもよく伝わってきました。
そういう演技が出来ること自体は、本当にすごいことだと思うのです。さすが香川さんだと思いました。・・・と、つまりはこちらのお名前で呼びたくなってしまうような演技だったのでございます。。
今日は例の笑いは起こりませんでした。理解力のない客にも“リアルに”夜叉王の想いが伝わったのでしょう。でもそれを素直に喜べない私がどこかにいる。いや、本当に素晴らしい演技ではあったのですけれど。“香川さんファンの私”は感激したのですけれど。うーん。。。
ていうかそもそも、まだこれからの中車さんに色々望みすぎですね、私^^;
とても好きな俳優さんなので(『坂の上の雲』の子規など絶品中の絶品でございました)。

ところで、天守物語の桃六を中車さんだと勘違いしているレビューをいくつも見ましたが、この夜叉王と外見が似ているせいかしら。


【天守物語】

世は戦でも、胡蝶が舞う、撫子も桔梗も咲くぞ。――馬鹿めが。ここに獅子がいる。お祭礼だと思って騒げ。槍、刀、弓矢、鉄砲、城の奴等。

我當さんっっっ(>_<)!!!
ああ、我當さんの桃六、本当に好き。。。。。。この全てを包み込むような神々しさ、温かさ。。。。。。

一方千穐楽の主役のお二人は、私の好みから申しますと、気合いが入りすぎでございました・・・・・。13日の通常営業ver.の方が私は断然好きだった。。。 
いや、玉さまはまぁいいのです。力は入ってたけど、役が破綻していなかったのは流石だった。熱演と言ってもいいかもしれない。
問題はそのお相手ですよ。海老蔵クン・・・・・・・・・・・。一つは、中車さんと同じく「客を笑わせない」演技を意識しているように見えた。そんなことしなくていいのに。駄目な客に合わせてしまったら、芝居の質は下がる一方よ。
しかしそれはまぁいいのです(よくないけど)。なにが悪いって、今夜は思いきり役が破綻してた・・・・・・・。13日はちゃんと出来てたのに、あんなに良かったのに、どうしてそうなっちゃうかなぁぁぁぁ!
これはいつも海老蔵の演技で気になる部分なのだけれど、改めて海老蔵って“その役を演じる”ということがどういうことなのか解ってないのかもしれない、と思ってしまった・・・
富姫への恋情が今日は早々に出てしまっていて、涙さえ浮かべてて、そんな激しく濃ゆく演じなくていいのよ図書は!下界に未練があるって言って帰るくらいなんだから!
あの包容力のある表情は一体どういうつもり?なんであんな表情しちゃうかなぁ。まるで麻央さんを見るように愛おしそうに富姫のことを見ていたけれど、図書はそんな表情しなくていいの!ただまっすぐに富姫に惹かれていればそれでいいのに。役の性格を理解できていないというか、結局自分を捨てきれていないんだろうな・・。今日の彼は図書之助ではなく、海老蔵だった。ファンの方ごめんなさい、でもはっきり言ってしまいますが、今日の海老蔵は「人生最後かもしれない図書之助を熱演してるオレ」に酔っている風にしか私には見えませんでした。今月後半の(残りのカウントダウンを始めた頃からの)海老蔵はずっとこうだったのでしょうか。それが熱い演技でいいと感じる人もいるようだけれど、私は13日に観ておいてよかったと心の底から思いましたよ。あの日の海老蔵は文句なく素晴らしかったです。

今日は右近クン(亀姫)もなんか力入っちゃってた。人間っぽかったぞー。

猿弥さん、門之助さん、吉弥さんは今日も安定でした。素晴らしい。もちろん我當さんも。

再び玉さまについて。
亀姫が帰った後、夜になった真っ暗な天守に一人でいる場面がひどく印象的でした。富姫の孤独と、彼女が下界の人だった頃のことと、天守を支配する者の気高さと、更には玉三郎さんご自身のお姿とも重なって、、、見入ってしまった。とてつもなく美しかったです。

カーテンコールは4回。1~3階までほぼスタオベ。
千穐楽なので予想どおりといいますか、出演者の皆さんが勢揃いでした。陰陽師のときに書いたことと矛盾してしまいますが、どうせカテコをするのであれば、脇役も含めて勢揃いの方が絶対にいいですね(あ、松緑がカテコ拒否したこととは別の話ですよ。あれは絶賛支持しております!)。客それぞれ拍手を送りたい役者さんは違うはずですし、舞台上では拍手をもらえないチョイ役の方達にこそこういう時に拍手を送りたいですから。
しかし今日のカテコの玉さま、すごく清々しい表情をされてたなぁ。隣のおば様達が「綺麗ねぇ」って呟いていたけど、本当にとても綺麗だった。やっぱりこの方は立女形なのだなぁと改めて思いました。私はといえば前回と同様、これほどの富姫を作り上げてくださった、演じてくださった玉さまに心から拍手をいたしました。そして玉三郎さんと海老蔵がずっと我當さんをたててくれていて、それがとてもいい光景でした。また我當さんがいい表情されるのよ・・・。カテコ大反対派の私ではありますが、我當さんに真ん前で拍手を送れたことは心からよかったなぁと思いました。 

4回目のカテコは玉さま&海老蔵で、最後に玉さまが袖にいた中車さんを呼んで(なかなか出てこられなかったのは、遠慮されていたのかな)、三人で。中車がんばれー!の掛け声がありました。
中車さんはこういう時に出しゃばらない感じが好感持てますよね。頭のいい方なのでしょうね。

以上、ちょっぴり残念な部分もありましたが、終演後の可愛い図書&富姫さまの楽屋ツーショット@ABブログにキュンキュンさせてもらえましたし、最後かもしれない大好きな玉三郎さんの富姫を目に焼き付け、感謝の拍手を送ることができたので、やっぱり奮発して行ってよかったなと思いました。





終演後外に出ると、「五日初日」の幟が。来月の納涼歌舞伎のものに掛け替えられていました。
夢のような舞台の後、すこしの寂しさも感じつつ。
勘三郎さんが「舞台は水に字を書くようなもの」とその儚さを表現されていましたが、本当にそうだなぁと思いました。でも私は、そういうものだからこそ一層、ひとつひとつの舞台が宝物のように大切に思えるのです。


7月13日の感想

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立ちのぼる生命(いのち) 宮崎進展 @神奈川県立近代美術館 葉山

2014-07-21 17:04:49 | 美術展、文学展etc




人間が生きること、そして、死ぬことの意味を、わたしは、まさにシベリアで知ったのです。死ばかりでなく、命の賛歌も、そこで体験したのです。
(2004年作者)

宮崎が描こうとしたのは、戦争や抑留そのものではなく、その生死を越える極限の中で知った、人間を人間たらしめている根源的な力、打ち負かされることなく生きるためにさまざまなものを創り出す力、そして、大いなる自然の一部としての人間という何よりも強い存在そのものです。
(図録より)


先月のことになりますが、最終日に行ってきました。
宮崎進さんは現在92歳、鎌倉にアトリエがあります。
以前から知っていた作品も写真から想像していたより遥かに大きな作品であったことにまず驚きました。舞鶴の引揚記念館で彫刻を見たことはありますが、絵を見るのは今回が初めてです。
キャンバスに貼られた麻布の立体感とその力。絵画はどれもそうではありますが、特に宮崎さんの作品は“実物を見て初めて感じられるもの”が非常に大きいように感じました。
作品から発せられる強烈な生命力に、ただただ圧倒されるばかりでした。
抽象のようで抽象でない。
それを肌で知っている人にしか表現できないリアルな説得力。シベリアの風。

北の果ての収容所での終わりの知れない捕虜生活がどのようなものであるか、皆さんは想像できるでしょうか。
終戦と同時にソ連の“労働力”として満州から強制連行された60万人の若者たち。
彼らは-40度の極寒の地で強制労働を強いられ、その10分の1の方々が亡くなったと言われています。
戦中ではありません、戦後の話です。
昭和20年8月15日は終戦の日と名付けられていますが、それは決して戦争の「終わり」ではありませんでした。

今回の会場は、展示作品の配置が素晴らしかったです。
二つの『花咲く大地』の間、その奥に見えるのは、隣室に展示された『泥土』。その手前には、彫刻『横たわる』。そして、それらの絵と向かい合うように遥か部屋の反対側の壁に展示された、最新の『花咲く大地』
この配置で見ると、『花咲く大地』の黒色は、死臭漂う『泥土』に通じるものなのだということがわかります。その中から強い生命力で芽吹き、咲く、血の色にも見える真っ赤な花。
それらに囲まれて『横たわる』人物は、一体何を見、何を思っているのでしょう。
彼は中国やシベリアの土となった兵士なのか。それとも、絶望の淵にありながらもシベリアの短い春に歓喜し、咆哮を上げ、大地に横たわり、遠く日本へと続く空を見上げている抑留者でしょうか。
極限状態に置かれた若い肉体と精神は、死の匂いの充満する凍土の中に虚無だけでは決してない、圧倒的な大自然と、そこに生きる生命の力もまた、感じとりました。
同じく抑留者であった私の祖父は帰国後、マラリアに苦しみながら、繰り返し、地平線にどこまでも続く黄金色の向日葵の絵を描いていました。向日葵はロシアの国花です。

そして『すべてが沁みる大地』
会場の最後に泥土とともに展示されていたのが、1992 年に描かれた四つの小品。そして会場の最初の部屋、入口近くに展示されていたのが、1996年に描かれた同名の大作でした。
汗も血も涙も、再び母国の血を踏むことが叶わなかった者達の肉体も、すべてが沁みる、白い大地。

会場は空いていて、皆さん2時間近くゆっくりと絵と向き合われていました。
戦争について、人間について、静かに感じることができた空間でした。


現代、人間も世界も大きく変わり、多くの犠牲を払ったシベリアの現実も、風化して忘却の波に洗われ、このままでは何もなかったのと同じになってしまうのではないか。体験した者たちは、ただ沈黙して消えていくのだろうか、身をもって体験した者が沈黙しているのは、決して忘れたということではない。不条理の中の犠牲者たちの鎮魂には、生き残った者にきざす無常の思いを、かたちに置き換える拠りどころがなければならない。

(『鳥のように―シベリア 記憶の大地』より作者。2007年)


※日本経済新聞 『宮崎進展、一原有徳展 見えないものが浮かび上がる』

劇団四季 『異国の丘』(2013年7月)

日曜美術館 『宮崎進 ~シベリア・鎮魂のカンヴァス ~』




『泥土』部分(2004年)


『花咲く大地』(2004年)









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七月大歌舞伎 夜の部 @歌舞伎座(7月13日)

2014-07-17 15:48:25 | 歌舞伎




一階席か幕見か、ぎりぎりまで迷いました。金欠なのです・・・・・・。

が、

椿姫と同じく、今これ↑を一階で観なかったら一生後悔する!!と言える自信が100%あったので、行ってまいりました一階席。

結果、一階で観て本当に本当によかった。。。。。。。。。。

※一階六列目中央花道寄り


【悪太郎】

右近さん(悪太郎)は、本当に酔っぱらっているようには見えなかった・・かナ(^_^;) 猿弥さん(修行者)との絡みは可愛かったです。
登場時の亀鶴さん(伯父)が目の前すぎて、一人ドギマギしてしまった。


【修禅寺物語】

やっぱり澤瀉屋系の舞台の空気は苦手かも・・と改めて思ったりもしたのだけれど、それはそれとして、笑三郎さん(桂)も、春猿さん(楓)も、月乃助さん(頼家)も、寿猿さん(僧)もお役にぴったりで、中車さん(夜叉王)も発声は今ヒトツながら、桂が傷を負って戻ってきた以降は意外とよかった。
しかし夜叉王って、難しそうな役ですね。芸術至上主義な職人気質を強調しすぎると単なる非情な人間になっちゃうし、人の情を強調しすぎると話のテーマが破綻しちゃうし。キャラの矛盾なくそれらを両立させなきゃいけないのですから、難しいだろうなぁ。
その点、今日の中車さんはちゃんと両立されていました。
「幾たび打ち直しても~」の長台詞はオーバーさがギャグにならないギリギリのところで踏みとどまっていましたし(よかったよ!)、「断末魔の面を写しておきたい」のところも初日は笑いが起きてしまっていたようですが、今日は数人がちょっと笑っただけでした。今日のような演技だったら、問題があるのはむしろ客の方だと思う。

またこの演目は、舞台セットが美しいですねぇ。秋の草花に埋もれるように建つ夜叉王の家、月明りに浮かぶ桂川。綺麗。。。


【天守物語】

この演目を観るのは、2009年に続いて2回目(シネマ歌舞伎を入れると3回目)。私が初めて観た玉三郎さんの舞台で、初めて観た海老蔵の舞台でもあります。
はっきり申し上げて、大っっっ好きな作品なのです。鏡花の原作の中でも、外科室かこれかというほど好き。
で、今回の舞台ですが。
もう――

 完 璧 


パーフェクト。
前回も十分に満足したけれど、それ以上の素晴らしさだった。

玉三郎さんの富姫は、言わずもがな。玉さまのためにあるようなお役でございますから。
十代の少女のようにも、何百年も生きている妖のようにも見えるこの奇跡。なにより玉さまは鏡花の男前な台詞がもっっっのすごく似合うのよ(>_<)!かっぱらった案山子の蓑(でもちゃんと返してあげるの)を肩にかけて、「似合ったかい?」。お姉(あねえ)様
そんな富姫が図書之助に出会い、本当の恋を知る。

「千歳百歳にただ一度、たった一度の恋だのに」

「前世も後世も要らないが、せめてこうして居とうござんす」

これ・・・!鏡花の何が好きって、こういう関係がたまらなく好きなの!!!
妖怪も人間も、過去も未来も、世間も常識もすべて消えて、生身の体さえなくなって、広い宇宙の中に二つの魂だけが存在しているような、限りなく純粋な。

二人の間のそんな空気が今回一層強く感じられたのは、海老蔵の図書之助が前回(2009年)より遥かに良くなっているから。
美しさ&純粋さ&真っ直ぐさだけでなく、図書之助という人間の大きさ、清廉な心の奥行が感じられるから、富姫が彼に魅かれる理由がよくわかる。彼が富姫に魅かれる理由がわかる。
そして私の大好きな台詞。

「姫川図書之助と申します」

さ、爽やか~~~~~ 私、海老蔵が言うこの台詞が好きで好きで好きで。仁左さまの「ごきげんさ~ん♪」(@吉田屋)とともに目覚まし時計にしたいくらい。
しかし64歳の玉さまと36歳の海老蔵が、「これは歌舞伎である」フィルターを全く必要とせず当り前に恋人同士に見えるとは、玉さまって一体。。。。。

右近(尾上ね)の亀姫。
合うだろうとは思っていたけど、予想以上。おっとりした妖怪ぽさ、年若い可愛らしさに加えて、堂々とした“姫系”な雰囲気もちゃんとあり。御付きの舌長姥&朱の盤坊が若い姫様を大事そうに見守っている様子が微笑ましい(*^_^*)
富姫との妖しく無邪気な戯れもとてもよかったよ。

富姫や薄のクールビューティー姫路城勢と、亀姫に従うお笑い担当な舌長姥&朱の盤坊の猪苗代勢の構図は、最高すぎる。
吉弥さん(薄)と門之助さん(舌長姥)は前回から極上パーフェクトだったけれど、今回は猿弥さんの朱の盤坊も適度にエロくて磊落で、いい味出されてました。昔話に出てきそうな妖怪。猿弥さんは修理よりこの役の方がいいな。ぼろぼん♪

中車さんの修理と右近さん(市川ね)の九平も、文句なし。

それと、獅子!見事な動きでございました。見惚れました。

そして忘れちゃならないのが、我當さんの桃六。
最後に一人で全部を収束させちゃう桃六に申し分のない存在感。安心感のある温かさがいい。
とはいえこのマイク効果はどうなんだろー・・と前回も思ったのだけれど、やっぱりこの作品に限ってはこれでいいように思います。
ところで我當さん、さらにお足が弱くなられた…?舞台袖で、ぎりぎりまで支えられていたのが見えました…。

通常の歌舞伎ではスッポンから出入りするのは異界の者ですが、この演目ではそれが人間。
あちらの世界とこちらの世界が逆転しているのですね。つまりこちらが妖怪達の世界で、そこに現れる人間の方が異界の者。
臨場感のある舞台セットのおかげで、一階席前方にいると自分も妖怪達と一緒に姫路城天守にいる気分になれました。自然と彼らの常識(露を餌に秋草を釣ったり、生首を玩んだり)が観客の常識になるので、図書之助が登場すると当然に“異界の者”に感じられる。この感覚、ゾクゾクわくわくいたします。

そんな感覚もひっくるめてこれほど完璧で極上の鏡花世界を、これ以上ないパーフェクト配役で見せてくれる今回の『天守物語』。
少しでもこの世界に興味があるなら、絶対に観ておくべき舞台ですよ。
これを超える天守物語は、おそらく私が生きているうちは観られないだろうと言い切れる自信ある(同じ配役で再演されない限り)。
最後の桃六の台詞に「泣くな、美しい人たち」というのがありますでしょう。それを聞くと、「うんうん、本当に美しい人たちだよねぇ・・・」と深~く頷いちゃうのです(これは心の美しさも言っているのだろうけれども)。これほど説得力のある富姫&図書之助は今後二度と現れまい。
鏡花が「上演してくれる劇団があったらこちらが御礼を用意する」とまで言い舞台化を強く望んだ『天守物語』ですが、彼の生前に上演されることはありませんでした。
今回の舞台、鏡花に見せてあげたいなぁ。

さて、これだけパーフェクトと繰り返しておいてなんでございますが、実は、不満もちょっぴりあるのです。
ひとつは、富姫と亀姫の乗り物のCGっていらなくね?と。空のCGは綺麗で素敵ですけど、あの絵は、ねぇ。。

もひとつは、カーテンコール@歌舞伎座。
前にも書きましたが、もったいないなぁ、と思うのです。カテコがないのは歌舞伎の特権なのに、最高にクールなのに、それを歌舞伎自らが放棄しちゃうのは本当にもったいない。このクールさが玉さま(や他の一部の歌舞伎役者さん達)にはわからないのかな。。これに関しちゃ心から松緑に大同意よ、わたしゃ。。。
とはいえ四月の曽根崎心中の藤十郎さんもそうですが、これだけ圧倒的な素晴らしい舞台を見せてくださったのですもの、やる以上は感謝の気持ちも込めて拍手させていただきました(同様の理由で染五郎の歌舞伎座カテコは100年早いっす)。それに玉さまや海老蔵の発言から、今回が一世一代になる可能性も高そうですし・・・(号泣) 
ちなみに客電を点けないのが押しつけがましいとは、私はさほど感じませんでした。バレエなどでも同じですから。通常はカテコをしない歌舞伎座でカテコをしたいなら、こうする以外になかったでしょうし。本当はするとかしないとか最初から演者が決めるものではないのですけどね・・・。
ただ、我當さんに拍手ができたことは嬉しかったな(*^_^*)

そして最後に、毎度のことですが、客席の意味不明な笑い。
もうね・・・・・・なんなんでしょうね・・・・・。
面白い場面では全くないのに(そもそもが笑わせる場面じゃないのだから、せいぜい「ちょっと面白い言い方に聞こえた」とかその程度のはず)、なぜ大声で笑うのでしょう。理解不能です。前半はともかく、後半で可笑しい場面なんて、(あえて言えば)富姫と薄の会話と討手達の場面くらいでしょうに。筋を理解していないのでしょうね・・。

以上、「歌舞伎座に来たら笑わないではいられない病」の病人達を完全無視できるなら、いいえできなかったとしても、今月の天守物語は鏡花ファンだったら絶対に観ておくべき。
私も千穐楽までに絶対もう一回行く!


7月29日の感想

Comments (2)
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『ロミオとジュリエット』 K-BALLET COMPANY @オーチャードホール(6月29日)

2014-07-01 01:21:20 | バレエ




東京公演の千秋楽に行ってまいりました。
熊哲、あいかわらず綺麗に踊るなぁ~~~ 
ダンサーの見せ場の少ない作品だけれど、クルクルクルクル楽しそうに美しく踊ってた^^
あの年齢であれだけ踊れるなんて、普段からどれだけ努力してるんだろう。

ロベルタ・マルケスは、ジュリエットそのもの!可憐で、意志が強そうで。このジュリエットのおかげで、どれだけ楽しく観られたことか。熊哲好みのガーリーな衣装もよく似合う

遅沢さんのティボルトも、存在感があってよかった。ロミオとの対決は短いけれど見応えがありました。

しかし熊哲の演出はあいかわらず、よくもわるくも、観客に優しいね(といってもロミジュリはロイヤルの映像しか観たことないけれど)。
一幕の市場の乱闘で死人が出ないなど全体的におぞましさや暗さが薄いのはバヤのときと同じだけれど、今回はそれを物足りなく感じてしまったのは、ファンタジー要素のあるバヤと、現実的なドラマ性の強いロミジュリの違いだろうか・・?
中世近世ヨーロッパの、日常の中に常に死が潜んでいるような暗さ。それはこの時代を表現するときに欠かせない要素のひとつだと私は思っておりまして、この時代の明るさも、その暗さの表裏として存在しているように思うのです。そしてその暗さがしっかり表現されないと、物語の純粋さや悲劇性や美しさも真に表現されないように思うのだけれど…。
とはいえ一方で、そういうリアルを追求しない熊哲の明るさも決して嫌いではないわけで。
結局これが熊哲版だと割り切って観るべきなのか、な・・。

ジュリエットが人形遊びをしない(膨らんだ胸にビックリもない)演出は、いいなと思いました。性に目覚める直前の女の子が、いくらなんでも幼すぎるでしょと思っていたので。

墓場のパドドゥも、ロイヤルではロミオがジュリエットの死体(実際は死んでないけど)を長く引きずりまわしているように見えて微妙に感じたのだけれど、熊哲は比較的すぐにお墓の上に戻してあげていて、ジュリエットへの優しさを感じました。

他に気付いた相違点は、
・ティボルトが死んだときに嘆き悲しむのがキャピュレット夫人ではなく、ロザライン。
・ジュリエットの手紙がロミオに届かなかった理由を見せる。
など。
ただ、決して悪いだけではないはずのこういった変更がいくつも加えられた結果なのか、全体的にスッキリアッサリした印象になってしまっていたのも否めず。。一つ一つを見ると不要に思える部分も、全体のバランスという点からは案外必要だったりするものもあるのかもしれないなぁと思いました。演出って難しいのだなぁ。。

最初と途中で登場する剣の絵の幕は、シェイクスピアの物語の中に誘い込まれるようでワクワクしました。

場面としては、バルコニーのセットがシンプルで素敵だった。遠くに暗い森が見えて。ここの惹かれ合う二人のパドドゥ、見惚れました。舞踏会での出会いの場面とこの場面が、一番好みだったかも。

出会いの場面は、恋は自分の意思と全く関係なく落ちてしまうもので、するとかしないとか人間が選択できるものではないということがよく表れていて、とてもよかった。そういう意味では恋に落ちることそれ自体、一つの悲劇と言えるかもしれませんね(自分ではコントロールできないという意味で)。
そうそう、恋ってこうだよねぇ、とほぼ忘れかけていたものを熊哲に思い出させてもらった、笑。
そして、この世の全てとは言わないまでも、人生で私達が自分で選択できることって考えてみるととても少ないのだなぁと、殆どすべての出来事は神様のイタズラで、それに一喜一憂させられながら束の間の人生をそれでもめいっぱい生きようとしているのが私達人間なのかもしれないな、とそんなことを思ったりしました。決してネガティブな意味だけではなく、ね。

個人的に今回の出会いの場面は、これ(my ロミジュリ決定版)↓に劣らないくらい心動かされたかも。


今回と同じ熊哲×マルケスのオータムツアーのチケットも買ったよ  カルメン

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