風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

『愛し君へ』 5

2007-04-25 17:54:37 | テレビ



雨ニモマケズ 
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケズ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ怒ラズ
イツモシズカニワラッテイル
一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ 小サナ萱ブキノ小屋ニイテ
東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ束ヲ負イ
南ニ死ニソウナ人アレバ 行ッテコワガラナクテモイイトイイ
北ニケンカヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイイ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
ソウイウモノニ
ワタシハナリタイ

雨にも負けて 風にも負けて 人生に負けて
背中を丸めて去っていく人を 誰かが笑う
一生に一度 誰からも褒められることのないまま
咲いて枯れた花を 誰かが笑う
その人の夢も あまたある星の輝きには負けると
その人の人生も 過ぎ行く時の流れには負けると
誰が 笑えるのだろう?

(『愛し君へ』 第5話)

前半のカナ部分は、宮沢賢治が37年の生涯の最晩年に、手帳にひそかに書いた詩。賢治の死後、愛用のトランクから発見されました。

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『愛し君へ』 4

2007-04-20 00:07:46 | テレビ













あの二人の結婚式を見ながら考えていたことがあります。それは、もしも俊介が病気になっていなかったらどうしていただろうということです。俊介は写真の仕事を続け、四季さんは病院で働き、別の人生を別の幸せを手にしていたのでしょうか。ところが、病気という経験を通して、二人は同じ道を共に歩むことになりました。私は夫を亡くし、次男を亡くし、自分の人生を恨んだこともありました。でも、二人の結婚式を見ながら思ったのです。どんな人生にも行き止まりはなく、道は続いていくのだと。前に進めば必ずそこには道がひらけているのだと。

それは今、四季さんと俊介の笑顔が証明しているのではないでしょうか。私は幸せな人生を送ってきたのだと、今、心から思います。

(『愛し君へ』 第11話)

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『愛し君へ』 3

2007-04-19 00:22:32 | テレビ

「始めのうちはね、周りの人間が何をしているかわからないし、どんな顔をしているかわからないしでね、不安になるかもしれません。要は人を信じられるかどうかです。といっても、それは見えている人間も見えていない人間も、同じことです」

 ・・・・・・

「安曇さん、こういう考え方ってありますかね。たとえばどっか別の国に移住することになったとか。そこでは違う言葉をおぼえなくてはいけないし、文化や風習にも慣れなくてはいけないから、結構大変ですよね。でも、そこには新しい世界が広がっています。考え方次第で、色んな可能性が見えてくるんじゃないですかね」

 ・・・・・・

「私と安曇さんは、もしかしたらお父さんが思うような幸せにはなれないかもしれない。だけどね。私、思うの。幸せにも色んな形があって、私にとってそれは、何ていうか、嘘をつかずに生きていくことなの」
「それで医者を辞めるようなことになってもか・・・?」
「はい」

(『愛し君へ』 第9話)

1)目が見えなくなりつつある俊介(藤木直人)に失明の患者がむけた言葉
2)医者(時任三郎)から俊介へむけた言葉
3)四季(管野美穂)と父親(泉谷しげる)の会話

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『愛し君へ』 2

2007-04-18 11:31:24 | テレビ

「私にはわからないです。そこまでして仕事したいかなぁって・・・」

「僕じゃなくなるからだよ。写真をやめたら、もう僕は僕じゃない」

「そんなことないと思う。別に何をしてても何をしてなくても、安曇さんは安曇さんじゃないですか。ちがいます・・・?」

「・・・・・・ありがとう」

(『愛し君へ』 第2話)

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『愛し君へ』 1

2007-04-17 23:11:44 | テレビ



「人生は待ってはくれないから、あのときどうすればよかったのかとか、何が正解だったのかとか、誰にもわからないですよね。ただ、今日という一日を大事に精一杯に生きるしかなくて―――」

(『愛し君へ』 第1話)


DVDも持ってる、すごく大好きなドラマなのです。
みんな何かを背負って生きてて、なのに自分が傷ついても人のことを想ってて、真っ直ぐで明るくて。
森山直太郎の音楽がまた泣けるー・・・(T_T)

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京極夏彦 巷説シリーズ&京極堂シリーズ

2007-04-13 00:09:41 | 



※ネタバレ超注意

巷説シリーズを読んだ後に京極堂シリーズを読み返すと、思いのほか理解が深まって面白いですねぇ。
パラパラ読み返してみました(さすがにシリーズ全部読み返す時間はない・・・)。

「日常と非日常は連続している。確かに日常から非日常を覗くと恐ろしく思えるし、逆に非日常から日常を覗くと馬鹿馬鹿しく思えたりする。しかしそれは別のものではない。同じものなのだ。世界はいつも、何があろうと変わらず運行している。個人の脳が自分に都合よく日常だ、非日常だと線を引いているに過ぎないのだ。いつ何が起ころうと当り前だし、何も起きなくても当り前だ。なるようになっているだけだ。この世に不思議なことなど何もないのだ」
(『姑獲鳥の夏』p423)

「世に不思議なし。世、凡て不思議なり。怪を語れば、怪至る」
(『後巷説百物語』)


人は、この世で生きていかなければならない。
人を辞めてしまわない限り。
だから又市達は、果たせぬ想いや遣る瀬ない気持ち、怨みつらみ妬み嫉み、悲しみや憎悪まで、有りと有らゆる辛い現実を、凡て化け物の仕業として円く収める。
世界はただそこに在るだけで、化け物も「非日常」も、人の心が生み出す幻にすぎない。
だから要は遣り方次第。

化け物や非日常を道具として使う化け物遣いの又市と、憑き物落としの京極堂。
その基本的な決着方法の違いは、やはり時代の違いというものなのかもしれません(たまに又市も憑き物落としっぽいことしてるし、京極堂も憑き物つけたりしてますけどね)。
「山男」と『鉄鼠の檻』のラストでの「山」の扱いが興味深いです。
里の者から見れば存在自体が非日常であり化け物であった「山」。
そういった存在が時代とともに消えてゆくのをやはり寂しく思うのは、百介も京極堂も同じで。
けれど、時は流れるもの。時代は変わるもの。

「時代が――違う」
「百介さんは善ッくご存知でしょうに。妖怪てェのは、土地に湧くもの時代に湧くもの。場所や時世を間違えちゃ、何の役にも立ちゃしないのサ。御行の又市は妖怪遣いで御座んしょう。ならばこのご時世に相応しいモノを遣うに決まってる」
(『後巷説~』p547)

「あの寺は――やっぱり幻想だったのかな」
「そんな訳はない。蔵が残っている」
「そうだが――」
「ああ云う場所はもう――これから先はなくなってしまうのだろうな。そうした場所はこれから個人個人が抱え込まなくちゃいけなくなるんだ」
京極堂はそこでふう、と気を抜いて、
「まあ時代の流れだ――仕方がないか」
そう云って窓の外を見た。
(『鉄鼠の檻』p825)

ただそれは、「山男」のラストで与次郎が強く言ったように、化け物が要らない存在になった、ということにはならないでしょう。
ここで京極氏が「妖怪」と「化物」と漢字を使い分けている理由はよくわかりませんが(なんで・・・?)、京極堂の憑き物落としが必要とされるように、時代が変わりその形が変わっても、人が存在する限り「化け物」(妖怪ではないかもしれないけど。あ、漢字を変えたのはそういう意味か?違うかな・・・)は存在し、また必要ともされるのではないかなと思います。だってこの世は相変わらず辛く悲しいしさ・・・。誰かが「今の時代こそ又市がほしい」って言ってたわ

京極堂も又市も、彼岸と此岸の境界、彼岸をのぞきこむ位置に立つ人間。
それは生半可な覚悟で立てる場所ではなく、百介にはどうあってもそこで共に生きることはできなかった。でも百介はそれを悟って身をひいた(?)だけマシかも。だって関口君は覚悟もないのに彼岸に惹かれて惹かれて仕方なく、ちょっと目を離すと自らふら~とそっちへ引き寄せられていってしまうのだもの(笑)。京極堂も苦労するねぇ。

「いずれ訪れるであろう破局を、明日か今日かと待ちつづける毎日は死ぬより辛いじゃないか。たとえどんな結末にしろ、その地獄から彼女を救ったのは君だ。彼女は、だから君に礼が言いたかったのだと思う。彼女は最後に、ありがとうと言ったんだよ」
京極堂はそういって、ちょっと笑った。
何だか遣り切れなくなった。
「だが・・・・・・僕達が関わりさえしなければ、もしかしたら破局は訪れなかったかもしれないじゃないか・・・・・・」
「そんなことはあり得ない。万が一、梗子さんが藤野の死体を抱きながら生まれない子供を永遠に妊娠し続けることができたなら・・・・・・そして涼子さんが姉としてそれを永遠に見守り、かつ母としても永遠に終わらない拷問を行い続けることができたなら・・・・・・それは『ある意味で』幸福だったかもしれない。しかし時間は止められない。肉体はどんどん現実の記憶を重ねて行くんだ。遅かれ早かれ必ず最後・・・・・・破局は訪れる。それがどんな形で、いつ訪れるのかが問題だ。彼女は最後の最後に、ただ流されることを止めて、その破局を演出することを望んだのかもしれない。君は関わるべくして関わったのだよ」
(『姑獲鳥の夏』p426)

又市の仕掛けは、ここでいう破局の演出のような一面を持っているのだろうなぁと思う。
弔い装束もさもありなん・・・。
そして、時は必ず流れる。
破局は再生へ、終わりは始まりへと、続いてゆくのでしょう。

これで、巷説週間は終わりとします。
ひさびさに濃ゆ~い一週間を過ごすことができました。大満足(^^)
とってもお名残惜しいけれど、いい加減に此岸へ戻ることにいたします。
しかし京極氏の本はあんなに「彼岸にゃ行くな」と言っているのに、読むと彼岸に行っている&行きたい気分にさせられるのはなぜでしょう。。
行っている気分になるのは、あの殺人的な本の厚さ(に伴う内容の濃さ)のせいに違いない。
行きたい気分になるのは、、、又市がカッコよすぎるからよ!
ああ、又市がいるなら私、彼岸の住人になってもいい。そういう幸せもアリじゃない?・・・なんて思ってしまう私は本気でやばくなる前に、自力で此岸へ戻ります。

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京極夏彦 『嗤う伊右衛門』

2007-04-12 02:31:10 | 



「お前様は立派だ。強エ。そして間違っちゃいねえが、正しくもねえ。お前様は強エから、他人の痛みが善く解らねえんだ。自分は痛くなくったって、他人は痛ェんだ。お前様が痛くなくったって、傍は痛エだろうと思うンだ。・・・・・・想いってのはねお岩様、どんな想いでもそのまンま相手に通じることなんかねエんです。想われる方が勝手に作り出すもので御座居ましょうよ。ですからね、いずれ――喜ぶも怒るも――お前様次第で。・・・・・・そうやって、周りの囲いを破りまくっても、お前様は孤立するだけですぜ。幾らお前様が強くったって、そう保つもんじゃねえ。・・・・・・いいですかい、お前様の父上は、それは正しくはねえかもしれねェが、ただお前様のことを想ってはいますぜ」
(『嗤う伊右衛門』 p73)

生きるも独り。死ぬのも独り。
ならば生きるの死ぬのに変わりはないぞ。
生きていようが死んでいようが汝我が妻、我汝が夫。
(同p365)

「綺麗の醜いの、男だの女だの、侍だの町人だの――余り関係ねェことなのかも知れやせん」
(同p367)

※ネタバレ注意

というわけで『嗤う伊右衛門』、二回目読了。
数年前に友達から借りて読んだのですが、せっかくなので今回はちゃんと購入しました。
装丁が綺麗で嬉しいです^^
殆ど内容を忘れていたので、新鮮な気分で読み読み読み読み・・・・・・そして思い出した。私、近親相姦モノが苦手なのだった・・・。
だから前回読んだときの感想が、悪くはないんだけど・・・だったのである・・・(京極せんせいは多いですよね...)。
でも今回は巷説世界にどっぷりつかり中だったため、殆ど気になることなく素直に楽しむことができました。
やることなすこと後手まわってしまう、人間らしい又さんがいいですねぇ。
彼が関われば関わるほど、人が死ぬ。

又市はできれば伊右衛門を救いたかった(此岸に繋ぎ止めたかった)だろうと思います。
でも、できなかった。
事態はもうどうしようもないところまできてしまっていたし、なにより伊右衛門はすでに彼岸の住人となってしまっていた。
そこでは、綺麗の醜いの、男だの女だの、侍だの町人だのは関係なく、道徳だの倫理だのも通用しない。生きるの死ぬのも変わりはない。
それはすでに人を超えた存在。
彼らの行動原理は、彼らにしか理解することはできない。
伊右衛門にとっては、ただ岩と共にいることだけが幸福だった。
笑って死んだ伊右衛門は、「幸福」だったのだ。
静かで、壮絶で、美しいラストシーン。
『魍魎の匣』を思い出しました。
・・・と書いたところで気付いたけれど(遅すぎ?)、ラストシーンだけでなく、このお話、『魍魎の匣』とすごく重なるんですね。箱の中に幸福があるところも、近親相姦も・・・。
箱は、彼岸と此岸の境界の象徴なのでしょう。けれどそれも、人の心が生み出すものにすぎない。魍魎の箱の中身が、雨宮にとっては「美しい少女」であっても、いさま屋には「真っ黒い干物」にしか見えなかったように。

そして思い出すのは「帷子辻」。
生者と死者の絆を信じ死者を愛し続ける与力に対し、又市は「人は死んでしまえばただのモノ」という現実をつきつける。
それ以上犯行を重ねさせないために。

又市がぽつりと言う。
「悲しいやねえ、人ってェのはさあ」
そして微かに笑った。
「奴は――」
「なんですか」
「奴はね、先生、あの与力の――」
あいつの気持ちが少しだけ解りやすよと結んで、御行の又市はりんと鈴を鳴らした。
(『
巷説百物語』 p511)

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京極夏彦 『(続・後)巷説百物語』 2

2007-04-11 22:42:25 | 

「俺達ァお上の犬でもねェ。義賊でもねェ。人を裁くとか、悪を討つとかいう大義名分たァ縁がねェ。悪党だから死んでもいいなンていううざってェ小理屈も俺達にゃァ関係ねェ――。・・・裁くだなんて烏滸がましくて、笑っちまうじゃねえか。そうでやしょう先生――」
又市は――ゆっくりと。
夢山を仰ぐように顔を上に向ける。
そして、悲しいねえ――と言った。
それから百介を見て、悲しいじゃねェですか――と、念を押すように繰り返した。
百介も山を見る。
山だか夢だか、真に朦朧模糊として、百介は彼岸を感得する。
「どうやら生きるも死ぬも、この山の前じゃァあまり変わりがねェようでやすよ・・・」
(『巷説百物語』 p131)

「奴は、彼岸と此岸の刃境に住まい冥府の縁を行き来する、御行乞食で御座りまする」
(同p491)

「あんたには解らねェだろう。いや」
あんたには解っちゃいけねェんだと老いた悪党は啖呵を切った。
「俺がしようとしているこたァな、無駄なことだ。後ろ向きのことだ。間違ったことだ。間違ったことだが――如何にもしようのねェことだ。だがな、人ってのはよ、前向きじゃなくちゃいけねェのか。有益なことしかしちゃいけねェのか。正しいことしかしちゃいけねェのか・・・・・・如何しようもねェ時ってのはあるぜ。先生」
(中略)

勝敗を決するようなことではないのだ。それは単純に、終わらせるという意味なのである。無駄で、後ろ向きで、間違ったこと。・・・・・・

――駄目だ。
――そんなものは駄目だ。
裏も表も関係ない。昼も夜も関係ない。
そんなけりのつけ方は――厭だ。
(『続巷説百物語』 p748)


※ネタバレ注意

又市達の生きる世界とは結局、こういうものに繋がっている世界なのだろうなぁと思う。
如何しようもないもの、でも如何にかするしかない、如何にかしなければならないもの。
又市達の仕掛けを必要とするのは、そういうもの。
正しいとか正しくないとか、そういう位置にはすでにないもの。
裁きというよりもそれは弔いに近いのかもしれない。
彼岸を覗き込まないわけにはいかない世界。
小右衛門のけりのつけ方に対して「昼も夜も関係ない。そんなものは厭だ」と思ってしまうこと自体が、百介が昼の人間であるということなのでしょう。百介は、又市達が彼の前から姿を消したのは自分が覚悟を決められなかったせいだと思っているけれど、又市達はそんな覚悟なんて望んではいなかっただろうと思う。彼らは、百介にはそんな「人としての真っ当さ」みたいなものをずっと持ち続けてほしいと願っていたのではないかしら。
そんな百介だからこそ、又市は最後の最後に頼ることができたのでしょう。
あぁでも、やっぱり切ない・・・(T_T)

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京極夏彦 『(続・後)巷説百物語』

2007-04-10 00:22:29 | 



「この世は悲しいぜ。・・・お前も奴も、人間は皆一緒だ。自分を騙し、世間を騙してようやっと生きてるのよ。それでなくっちゃ生きられねェのよ。汚くて臭ェ己の本性を知り乍ら、騙して賺して生きているのよ。だからよ――」
 俺達の人生は夢みてェなものじゃねえか。
 又市はそう言った。

(『巷説百物語』 p464)

幸せなんてものはね先生、どっかにぽっかり浮かんでるものじゃねェや。今ここにあるもンでやす。ただ、それを幸せと思えるかどうか――ってことでしょうよ。人は皆夢ン中で生きてるんです。それなら悪い夢ばかり見るこたアねェと――奴はそう思う。凡て夢なら嘘も嘘と知れるまでは真実なんで。
(『続巷説百物語』 p217)

化物っていうのはつくりものですよ。江戸の人は知っておりました。皆、知っておりましたよ。信じておりませんよ。誰も。
・・・居ないことを承知で居ると謂う。・・・
又市さんがね、その昔、こんなことを申しておりました。
この世はね、悲しいんだ、辛いんだとね。
だから人は、自分を騙し、世間を騙して、ようやっと生きているんだと。
つまりこの世は嘘ッ八。その嘘を真と信じ込むなら、そりゃいずれ破綻する。
かといって、嘘を嘘だとしてしまえばね、悲しくて辛くッて生きて行けない。
ええ。だからこそ――嘘をね、嘘と承知で信じ込むしか健やかに生きる術はないんだと、又市さんはそう言っていましたよ。煙に巻かれて霞に眩まされてね、それでもいいと夢を見る。これは夢だと知り乍ら、知ってい乍ら信じ込む、夢の中で生きる――。
だから、お化けは嘘だけれども、居るのです。
(『後巷説百物語』 p715)

仕事を辞めてまとまった時間がとれたので、ずっと読めないでいた巷説シリーズをついに読みましたですよー。
三冊まとめて読んだのは正解でした。数日間で江戸後期から明治までの数十年間を一気に駆け抜けたような、なんとも不思議な切ない気分を味わわせていただきました。まさに、本は心の旅路。
本ってほんとうに良いものですねぇ。毎回そんな風に思わせてくれる京極氏に感謝!

※以下、ネタバレ含みます

京極堂シリーズで世間の常識とは全く逆の「幸福」の形を描く京極氏。その魅力はここでも健在でした。「夢ばかり見ていないで現実をみろ」と世間では言うけれど、果たしてほんとうにそうなのか。夢も見つづければそれは真実。辛く悲しいこの世の中で、そんな生き方を否定する必要がどこにある。
これは夢だと知り乍ら、知ってい乍ら信じ込む、夢の中で生きる――。
大切なのは、「夢だと知り乍ら」というところでしょう。
彼岸と此岸の境界線はきっちりひく。そのうえで、物事を一番いい状態へおさめようとするのが又市と京極堂。方法は逆だけれど、やっていることは同じ。
又市が化物を操り夢をみせるのも全て、今此処で生きている人々のため。
どんなに辛く悲しくても、人々が彼岸へ行くことなく、此岸で生きてゆけるように。
誰よりも彼岸に近い場所にいるくせに、彼岸にある「幸福」を知っているくせに、決してそれを選ぼうとはしない2人が大好きです。

「又市達と過ごした数年間だけ、自分は生きていると感じられた」という百介の人生は、その殆どの時間はやはり「幸福」とはいえないのだろう。
彼は結局又市達の世界で生きる覚悟を持てなかったのだし、又市も八咫烏になって以降はこれまでどおりの関係を続けることはできなかったようだから、新しい人生をみつけることができなかった百介はああ生きる以外になかったのだけれど、切ないなあ・・・。又市のいうように、この世は悲しいものですね・・・。

百物語で始まったこの物語は、百物語で幕を閉じる。
いいラストだと思いました。
百物語とは、現実そのものを向こう側へ移したり戻したり自在に操れる呪術でなければならない。そういう意味で、又市達が行っていたものこそ、百物語なのだろう。けれど、又市達と過ごしていた頃の百介は、彼自身が百物語だった。彼岸と此岸の間を何度も揺れ動き、結果此岸へ残されたがそこで生きる決心もできなかった彼に、百物語を開板することはできなかった。それまでの百介はそこで一度死に、その後再生することはなかった。そして数十年がたち、死んだように生き永らえてきた百介が、(彼自身による仕掛けとはいえ)怪談会において百話目の物語を語る役目を担ったところに、なんともいえない切なさを感じました。

百物語を語り終えたとき、与次郎達の仕掛けは狙いどおり公房卿に夢を見せ、はからずも慧嶽に絶望を見せた。けれどそれだけでなく、彼らの仕掛けは百介にもまた怪異(夢)を見せたのだろう。
自分の仕掛けとは全く異なる予想外の展開となり、からくりの解けないその仕掛けに呆然としつつ、きっと百介は嬉しかったのではないだろうか。又市達との別離から数十年、彼の耳はその夜、又市の声と鈴の音を確かに聞いたのだ。又市の鮮やかな仕掛けにもう一度立ち会えたような夢をみながら、彼は書物と一番楽しかった頃の思い出に囲まれて、子供のような笑顔でその人生を終えた。白い幻もまた、突然吹き込んだ風とともに消え去った。
切ない余韻の残るラストに、しばらくこっちの世界へ戻ってこられなかったですよ。。。

はからずも百介に最後の夢を見させた仕掛けを作ったのが与次郎や小夜のような若者達だった、というのも爽やかでいいです。百介は江戸という時代が遠ざかってゆくことを寂しく感じつつも、彼ら若者達が担う明治以降の日本へ明るい眼差しをむけていたのですから。
ちなみに文机の上の鈴と札を置いたのは誰か?について追究するのは野暮なのでしょうが、私はふつーに百介の持ち物だと思ってます(札はともかく鈴まで持ってるのはちょっと不思議だけど)。でももし又市が生きていたのだとしたらそれも素敵だなーという気持ちも残しつつ。

以上、私なりの巷説シリーズ解釈・感想でした。
前巷説も早く読みたいです。4月下旬に刊行されるって本当ですかね。うれしー。あと、とりあえず伊右衛門を読み返そうかと思っておりまする。

最後に、内容の素晴らしさに比べれば大した問題ではないですが、作中の登場人物の年齢、かなり矛盾が起きてますよね・・・?特に百介とおぎんさん。一体いつの時点で何歳なんだ・・・。明らかに変・・・と思いネットで調べたら、みなさん同じことを言ってた。だよねぇ。読んでて結構気になってしまったよー。
ちなみにネット上で色々な方が作られてる巷説年表は、大変参考になりましたー。時系列が、あり得ないくらい複雑でしたから・・・。

インタヴュー等:
nikkansports.com(言葉を幻惑し続ける言葉の妖怪)
R24.jp(面白くない本はない。人生もそう)
tae's page(京極夏彦さんの書斎を訪問)
※京極氏って19で結婚されてるんですねー。意外なようなそうでないような。

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