風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

嶋太夫さん

2020-08-26 21:17:37 | その他観劇、コンサートetc

嶋太夫さんが、20日にお亡くなりになったそうです。
私が初めて行った文楽で、「世の中にこんな世界があったとは」と大きな衝撃を受けた『本朝廿四孝~十種香の段』。
そのときの太夫が嶋太夫さんでした。八重垣姫を遣っていたのは簑助さん。
私が今も文楽を観続けているのは、あの舞台がずっと心に焼き付いているからです。
そして『帯屋』!至芸とはこういうものかと知った。
嶋太夫さんの温かく情感溢れる語りが大好きでした。

横浜能楽堂でご自身の生い立ちや文楽についてお話しされたときの少年のようなお顔も忘れられません。浄瑠璃が本当にお好きなんだなあとこちらまで笑顔になってしまった。立ち振る舞いもきっちりと美しくて、見ていてとても気持ちがよかったことを覚えています。

人が亡くなったときの常としてまだ実感が湧いていませんが、ご冥福を心よりお祈りいたします。

「弟子によく言うのは、何事にも『片寄りなさんな』ということです。恋愛もし、結婚もし、周りとのおつきあいも大切。ありきたりの人生の中に人間の情がある。情というのは人情だけではない。風が吹いても風情です。そういうものすべてが文楽の情の世界なんですよ」

豊竹嶋大夫インタビュー @KENSHO)



私が文楽の世界に出会った2014年2月国立劇場公演のチラシ。
写真は十種香の段の八重垣姫。

そういえば北野武監督の『Dolls』、冒頭で「封印切」の上演場面があって、その語りが嶋太夫さんなのだとか。
北野作品って実は一度も観たことがないのだけれど、観てみようかな。
"Dolls"というタイトルも文楽人形にかけていたりするのだろうか。
今思い出しましたが、玉男さんの襲名披露公演のときに北野監督からお花が届いていましたね。玉男さん(当時は玉女さん)も忠兵衛の人形遣いとして映画に出られているんですよね。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

75回目の終戦記念日

2020-08-19 22:49:21 | 

2006年にこのブログでご紹介した学徒兵木村久夫氏の遺書は、『きけ わだつみのこえ』(岩波書店)からの引用でした。
ですがそれは実際に書かれたままの内容ではなく、2つの遺書を合わせ、内容も編集されたものであったことがその後の調査で判明。
2014年、その経緯及び遺書の完全版が掲載された『真実の「わだつみ」』という本が、東京新聞から出版されました。
そちらを先日読んだため、以前の記事を削除し、改めて今回ご紹介したいと思います。

木村久夫 終戦後の1946年5月23日シンガポールにて処刑 28歳。

私も訪れたことのあるシンガポールのチャンギ国際空港は戦中に日本軍の飛行場として連合国側の捕虜たちにより建設されたものであったこと、彼らが収容されていたチャンギ刑務所に戦後木村氏が収容されていたこと、本書を読んで知りました。
戦中、そして戦後に彼の身に起きたこと。それは決して簡単にここに書けるような内容ではないので、遺書全文と合わせ、ぜひ本書をお読みください。
75年前の悲劇を二度と繰り返さないために最も重要なもの。
それはまぎれもなく私達日本国民一人一人の意識の中にこそあるのだと、この手記を読んで改めて強くそう感じました。

以下、本書より一部の抜粋を載せます(「……」は中略部分です)。


……私は死刑を宣告された。誰がこれを予測したであろう。年齢三十に至らず、かつ学半ばにして既にこの世を去る運命、誰が予知し得たであろう。波瀾極めて多かりし私の一生もまた波瀾の中に沈み消えていく。何かしら一つの大きな小説のようだ。しかし、すべて大きな運命の命ずるところと知った時、最後の諦観が湧いてきた。……

日本は負けたのである。全世界の憤怒と非難との真っただ中に負けたのである。日本は無理をした。非難さるべきことも随分としてきた。全世界の怒るのも無理はない。
世界全人の気晴しの一つとして、今私は死していくのである。否、殺されていくのである。これで世界の人の気持ちが少しでも静まればよいのである。それは将来の日本の幸福の種を残すことだ。……

私は何ら死に値する悪はしたことはない。悪を為したのは他の人である。しかし今の場合、弁解は成立しない。江戸の仇を長崎で討たれたのであるが、全世界からしてみれば、彼らも私も同じく日本人である。すなわち同じなのである。彼の責任を私がとって死ぬ。一見大きな不合理ではあるが、これの不合理は、過去やはり我々日本人が同じくやってきたのであることを思えば、やたら非難は出来ないのである。彼らの目に留った私が不運なりとしか、これ以上理由の持って行きどころはないのである。日本の軍隊のために犠牲になったと思えば死に切れないが、日本国民全体(へ)の罪と非難を一身に浴びて死ぬのだと思えば腹も立たない。笑って死んでいける。……

わが国民は今や大きな反省をなしつつあるだろうと思う。その反省が、今の逆境が、明るい将来の日本に大きな役割を与えるであろう。これを見得ずして死するは残念であるが、世界歴史の命ずるところ、しょせん致し方ない。……

すべての原因は、日本降伏にある。しかし、この日本降伏が全日本国民のために必須なる以上、私一個の犠牲のごときは涙を飲んで忍ばねばならない。苦情を言うなら、敗戦を判っていながら、この戦を起こした軍部に持っていくより仕方はない。しかし、またさらに考えを致せば、満州事変以後の軍部の行動を許してきた、全日本国民にその遠い責任があることを知らなければならない。
日本はすべての面において、社会的、歴史的、政治的、思想的、人道的、試練と発達が足らなかったのである。すべてわれが他より勝れりと考え、また考えせしめたわれわれの指導者及びそれらの指導者の存在を許してきた日木国民の頭脳にすべての責任がある。
日本はすべての面において混乱に陥るであろう。しかしそれで良いのだ。かつてのごとき今のわれに都合の悪きもの、意に添わぬものはすべて悪なりとして、腕力をもって、武力をもって排斥してきたわれわれの態度の行くべき結果は明白であった。
今やすべて武力、腕力を捨てて、すべての物を公平に認識、吟味、価値判断することが必要なのである。そして、これが真の発展をわれわれに与えてくれるものなのである。すべてのものをその根底より再吟味するところに、われわれの再発展がある。……

吸う一息の息、吐く一息の息、食う一匙の飯、これらの一つ一つのすべてが、今の私に取っては現世への触感である。昨日は一人、今日は二人と絞首台の露と消えて行く、やがて数日のうちには、私へのお呼びもかかって来るであろう。それまでに味わう最後の現世への触感である。今までは何の自覚なくして行ってきたこれらのことが、味わえばこれほど切なる味を持ったものなることを痛感する次第である。
口に含んだ一匙の飯が何とも言い得ない刺激を舌に与え、かつ溶けるがごとく、喉から胃へと降りていく触感に目を閉じてじっと味わう時、この現世のすべてのものを、ただ一つとなって私に与えてくれるのである。泣きたくなることがある。しかし涙さえもう今の私には出る余裕はない。極限まで押し詰められた人間には何の立腹も、悲観も涙もない。ただ与えられた瞬間瞬間をただありがたく、それあるがままに、享受していくのである。死の瞬間を考える時にはやはり恐ろしい、不快な気分に押し包まれるが、そのことはその瞬間が来るまで考えないことにする。そしてその瞬間が来た時は、すなわち死んでいる時だと考えれば、死などは案外易しいものなのではないかと自ら慰めるのである。……

精神的であり、また、たるべきと高唱してきた人々のいかにその人格の賤しきことを、われ、日本のために暗涙禁ず能わず。……

私の仏前、及び墓前には従来の仏花よりも、ダリヤやチューリップなどの華やかな洋花も供えてくれ。これは私の心を象徴するものであり、死後はことに華やかに明るくやっていきたい。うまい洋菓子もどっさり供えてくれ、私の頭脳にある仏壇はあまりに静かすぎた。私の仏前はもっと明るい華やかなものでありたい。仏道に反するかもしれないが、仏たる私の願うことだ。
そして私の個人の希望としては、私の死んだ日よりはむしろ、私の誕生日である四月九日を仏前で祝ってくれ。私はあくまで死んだ日を忘れていたい。われわれの記憶に残るものはただ私の生まれた日だけであってほしい。私の一生において記念されうべき日は、入営以降は一日も無いはずだ。……

昭和二十一年四月十三日、シンガポール チャンギ―監獄において読了。死刑執行の日を間近に控えながら、これがおそらくこの世における最後の本であろう。最後に再び田辺氏の名著に接し得たということは、無味乾燥たりし私の一生に最後、一抹の憩いと意義とを添えてくれるものであった。母よ、泣くなかれ、私も泣かぬ。……


(刑務所内にて偶然入手した『哲学通論』の余白に書かれていた遺書より。『哲学通論』は出征前の学生時代に木村氏が読んでいた本)


いまだ三十歳に満たざる若き生命を持って老いたる父母に遺書を捧げるの不幸をお詫びする。いよいよ私の刑が施行されることになった。絞首による死刑である。戦争が終了し戦火に死ななかった生命を今ここにおいて失っていくことは惜しみても余りあることであるが、これも大きな世界歴史の転換のもと国家のために死んでいくのである。……

すべての望みが消え去った時の人間の気持ちは、実に不可思議なものである。いかなる現世の言葉をもってしても表し得ない、すでに現世より一歩超越したものである。なぜか死の恐ろしさも解らなくなった。すべてが解らない、夢でよく底の知れない深みへ落ちていくことがあるが、ちょうどあの時のような気持ちである。……

私は戦終わり、再び書斎に帰り、学の精進に没頭し得る日を幾年待っていたことであろうか。
しかしすべてが失われた。私はただ新しい青年が、私たちに代わって、自由な社会において、自由な進歩を遂げられんことを地下より祈るを楽しみとしよう。マルキシズムも良し、自由主義もよし、いかなるものも良し、すべてがその根本理論において究明され解決される日が来るであろう。真の日本の発展はそこから始まる。すべての物語が私の死後より始まるのは、誠に悲しい。

降伏後の日本は随分と変わったことだろう。思想的に、政治、経済機構的にも随分の試練と経験と変化とを受けるであろうが、そのいずれもが見応えのある一つ一つであるに相異ない。その中に私の時間と場所との見出されないのは誠に残念の至りである。……
もう書くこととて何もない。しかし何かもっと書き続けていきたい。筆の動くまま何かを書いていこう。……

死ねば、祖父母にもまた、一津屋の祖父にも会えるであろう。また図らずも戦死していた学友にも会えることだろう。あの世で、それらの人々と現世の思い出語りをしよう。今はそれを楽しみの一つとして死んでいくのである。また世人の言うように出来得んものならば、蔭から父母や妹夫婦を見守っていこう。常に悲しい記憶を呼び起こさしめる私であるかもしれないが、私のことも思い出して日々の生活を元気づけていただきたい。
誰か「ドイツ」人の言葉であったか思い出した。
『生まれざらんこそこよなけれ、生まれたらんには生まれし方へ急ぎ帰るこそ願わしけれ』
私の命日は昭和二十一年五月二十三日なり。……

もう書くことはない、いよいよ死に赴く。皆さま、お元気で、さようなら、さようなら。

一、大日本帝国に新しき繁栄あれかし。
一、皆々様お元気で、生前は御厄介になりました。
一、末期の水を上げてくれ。

 辞世

・風も凪ぎ雨も止みたり爽やかに 朝日を浴びて明日は出でなむ
・心なき風な吹きこそ沈みたる こゝろの塵の立つぞ悲しき

遺骨は届かない、爪と遺髪とをもってそれに代える。

処刑半時間前擱筆す

(家族へ宛てた遺書より)

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『夜会VOL.20 リトル・ト―キョー』劇場版

2020-08-16 16:14:35 | その他観劇、コンサートetc




友人からチケットをいただいて、中島みゆきさんの『夜会VOL.20  リトル・ト―キョー』劇場版を観に行ってきました
17時からの回で、お客さんは5人くらいでした。
(ちなみにその2日後に『千と千尋の神隠し(再上映)』を観に行きましたが、そちらも客が12人くらいで、映画館つぶれちゃうんじゃないか…と心配になった。)
客席は客が少ないせいかコロナ対策の空調のせいか冷房がガンガンきいていて、上着を持って行ったので問題ありませんでしたが、おかげで自分が作中と同じ真冬の北海道のホテルにいるような感覚になれました(笑)
以下、感想を少しだけ。ネタバレありです。

夜会はいつも歌的にもストーリー的にも後半でぐわぁ~と波が押し寄せる展開が多いけれど、今回も例にたがわず。
第2幕の後半、「月虹」~「二隻の舟」~「放生」~「いつ帰ってくるの」~「放生」の流れが圧巻でした。特に全員で歌われる「二隻の舟」のエネルギーには言葉にならないもので胸がいっぱいになった・・・。ここは上に載せた劇場版の予告編でもメインに使われていますね。ここのみゆきさんと皆さんの歌唱と表情、素晴らしかった。そして改めて「二隻の舟」は名曲だ。

事前にあらすじを予習したときは海外にある日本人街のリトル・トーキョーとは関係のないお話なのかなと思っていたのだけれど、作中で歌われる「リトル・ト―キョー」の歌詞を聴いて、日本人街にも少し意味合いを重ねているのだな、と。
私は10代のときに初めて行った海外旅行先がロサンゼルスで、泊まったホテルのすぐ近くにあったリトル・トーキョーも散策しました。アメリカでの彼らの歴史をより深く知ったのは、その数年後にワシントンD.C.のアメリカ歴史博物館で日系人の歴史に関する展示を見たときでした(そういえば山崎豊子さんの『山河燃ゆ』、まだ読めていないなあ…)。
今回の夜会の「リトル・トーキョー」の歌詞を日本人街に重ねるなら、第一の故郷は日本の東京となる(夜会の中の話ではなく、あくまで日系人の話)。でもそこには帰れないから仮の場所を作る。ホンモノとは似ても似つかないものには違いないけれども、弱い者たちが身を寄せ合い、心を寄せ合い、今いる場所で生きていくために作りだした場所。一見儚いようで、でもたくましく強い、そこに生きる者達にとってはホンモノ以上にホンモノなこの世界での心の故郷。
そういう風に思うと、ホテル&パブ オークマの片隅に杏奴が作ったステージ「リトル・トーキョー」って、『橋の下のアルカディア』の橋の下のおうちのような存在ですね(帰ってくる人をそこで待つ者達の存在や、ささやかで温かな営み、ラストで家が崩壊してそこに住めなくなるのも、まっさらの場所から新たなステージへ再出発する点も同じ)。

先日『24時着00時発』を観返したときに「みゆきさんという人はカンパネルラではなく、なすべきことをなすために銀河鉄道からこの世界に戻るジョバンニなのだなと感じた」と書いたけれど、今回の『リトル・トーキョー』でも、やはりそう感じたのでした。
みゆきさんの使う「命」という言葉。命というのはこの世界に存するものでしょう。この世界に生きるあらゆる生き物にとって、「命」は一つきりであり、一度きり。そして「放生」とは命を死なせずに、閉じ込めずに、生きたままこの世界で解き放つ行為でしょう。彼らが幸せにこの世界で生きてゆけるように。それは幽霊として戻ってきた杏奴が、小雪やふうさんにした行為。また、杏奴との悲しい別れを乗り越て生きていかなければならない李珠やおいちゃん達にも向けられた想い。
でも、私達は当然ながら、いつか必ず死ぬ。命には必ず終わりがある。志半ばで倒れる人は多い。だからみゆきさんはこの「放生」という言葉に、本来にはないもう一つの意味も込めているのではないだろうか。ラストの「放生」のもう一つの意味、つまり「生からの解放」。私達は生まれ変わるために生きているわけではないし、生まれ変わるために死ぬわけでもないけれど、いつか必ず死すべき運命にあることは免れない(英語でいうmortal)。
でも命から解放された全ての魂にはゆくべき場所があるのだと、帰ることのできる故郷があるのだと。だから安心してこの世界で思いきり生きてきなさい、とみゆきさんは私達に歌ってくれているのではないだろうか。
それは「時代」から変わらず、繰り返しみゆきさんが歌ってきたもの。

ところで『リトル・ト―キョー』はネット上のレビューでは「かつてないほど”陽”の夜会」と多くの方が書かれているけれど、私はあまりそういう感じを受けなくて。一回だけしか観ておらず、”みゆき経験”が皆さんに比べて圧倒的に少ない私が感じたことなので全くアテにならない感覚ですが、見終わったとき、私は少しだけ「寂しい」ような感じを受けたのでした。これは、これまでの夜会では一度も感じたことがないものでした。決して暗い内容ではないし、それどころか救いがない中に救いを与えてくれる典型的なみゆきさんらしい作品なのだけれど、事前に想像していたより遥かにみゆきさんという人が「ストレート」に表現されているように感じられて、それは宮崎監督の『風立ちぬ』を観たときの感覚と似ていて。若い頃には作らなかった作品ではないかなと、今だから作った作品ではないかなと、どこか終わりに近い気配を感じさせる、そういう種類の気負わないストレートさ。そんな感覚を私は受けたのでした。だから最後に杏奴がキラキラとした光を残して空間に溶けて消えたときには、みゆきさんがこの世界でのなすべきことを終えて消えてしまったような錯覚を覚えて、泣きそうになってしまった。なのでその後のカーテンコールの元気な素のみゆきさんの姿にとてもほっとしたのでありました。

そうそう。「二隻の舟」の場面だったと思いますが、舞台中央で白いドレスのみゆきさんが座りながら歌う場面、客席側からどのように見えるかが考え尽くされていることがわかる完璧な美しさで、そういう常に客席からの視点を忘れない客観的な舞台作りに玉三郎さんや美輪さんを思い出しました。私はそういう舞台作りをできる人を尊敬してやまないのである。夜会は作品や歌唱に加えて、みゆきさんのそういう舞台に対する姿勢にもいつも感動してしまうのでした。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

チバニアン

2020-08-09 13:16:56 | 日々いろいろ





昨日、ヤフーニュースにこんな記事が出ていました。
”千葉の地層から地球史に刻まれた「チバニアン」 快挙を遂げた研究者たち”

「チバニアン」、2年前に亡くなった友人(彼女は千葉県民だった)が可笑しそうに教えてくれたものの一つです。
これは今年正式決定された約77万4千年前~約12万9千年前(新生代第四紀更新世中期)の地質年代の名称です。地球の歴史を区分する地質年代は「ジュラ紀」「白亜紀」などがよく知られていますが、この年代はこれまで代表的な地層が決まっていませんでした。
平成29年、千葉県市原市にある約77万年前の地層「千葉セクション」がGSSP(各地質時代を区切る境界。それが地球上で最も良く分かる地層)に認定されるよう、国内の研究グループから国際地質科学連合に提案書が提出されました。 GSSPに認められることで、時代区分にその地名に由来する名前がつけられます。今年1月にこれが認められ、 晴れて「チバニアン」(千葉時代の意)という名称が正式決定されたわけです。これは国内初のGSSPで、日本の地名が地質年代の名称に採用されたのは初めてとのこと。

友人の職場のデスクには生物進化の歴史が地層とともに螺旋を描いて一目で分かる紙の模型が置いてあって(彼女のものというより、学会か何かでオマケでもらったものがたまたま彼女の机に置かれてあっただけとのことでしたが)、「これ、日本史や世界史で作ったら面白そうだねー」と私が言ったら、「そしたら戦争だらけになっちゃいそう(笑)」と笑っていました。チバニアンの話題が出たのもそのときだったと思います。
彼女と話していると、この世界がキラキラした楽しさに溢れているように感じられたものでした。
私が生きているよりも、彼女のような人が生きていた方がずっとこの世界の魅力をいっぱいに味わい尽くしていたろうに、と今も時々思います。そういう彼女だったので、43年間の人生で普通の人の何倍もこの世界を体と心で感じていたろうとも思いますが(好奇心いっぱいに本当に色々なことにトライしていました^^)。
旅行も大好きな彼女だったので、今頃はきっとあちらの世界を隅々まで探検していることでしょう。いつかあっちに行ったときには、オススメの場所を教えてもらわなきゃ

私もせっかくこうして神様から与えられているこの世界での持ち時間。
それがどれくらいの長さかはわからないけれど、もう少し身を入れて何かをしよう、と思わせてくれたチバニアンの記事でありました。

「チバニアン」が教えてくれる海と陸、生物の秘密(2020年4月 リクルートワークス研究所)

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

75回目の広島原爆の日

2020-08-06 19:08:09 | 日々いろいろ




人類が地上に誕生してから長い長~い年月をかけて進化し文明が発達してきたわけですが、その長い年月と膨大な労力の割に、私達の心はどれだけ幸福になっているんですかね。
毎日毎日いま目の前にある竹を目を細めて幸せそうに食べているシャンシャンの姿に、そんなことを思ってしまう75回目の広島原爆の日。

先ほど、こんな記事を読みました。
原爆投下「必要なかった」歴史家らが米紙に寄稿(共同通信)
"Op-Ed: U.S. leaders knew we didn’t have to drop atomic bombs on Japan to win the war. We did it anyway" (Aug. 6, 2020, Los Angels Times)

1997年、大学生のとき、ワシントンD.C.の国立航空宇宙博物館でエノラ・ゲイの特別展示を見ました。特徴的な「R」のマークの垂直尾翼が入口に大々的に展示されていました(私はレストア中のときだったので、別館ではなく本館で見ました)。
この展示についてはwikipediaに簡潔に記載されていましたので、以下引用。

1995年に、国立航空宇宙博物館側が原爆被害や歴史的背景も含めて、レストア中のエノラ・ゲイの展示を計画した。この情報が伝わると、アメリカ退役軍人団体などから抗議の強い圧力がかけられ、その結果、展示は広島への原爆被害や歴史的背景を省くこととなり、規模が大幅に縮小された。この一連の騒動の責任を取り、館長は辞任した。

その後、レストアが完了し、スミソニアン航空宇宙博物館の別館となるスティーブン・F・ウドヴァーヘイジー・センター(ワシントン・ダレス国際空港近郊に位置)が完成したことにより、現在はその中で公開されている。重要な常用展示機体であり、その歴史的背景から破壊行為などが行われないよう、複数の監視モニターにて監視され、不用意に機体に近づく不審者に対しては監視カメラが自動追尾し、同時に警報が発生するシステムを採用。2005年には映像解析装置も組み込まれるなど、厳重な管理の元で公開されている。

前述したような事態が繰り返されるのを避ける目的で、原爆被害や歴史的背景は一切説明されていないために、その展示方法には批判的な意見も存在する。

アメリカが国として原爆投下に対してどのような基本意見を持っているかは当時も知っていましたが、実際にその展示内容を現地で見るとやはり大きな衝撃、というより重い衝撃といった方が正しいでしょうか、そういうものを受けました。
展示の最後の最後にオマケのようなコーナーがあって原爆投下後のことについて書かれてあったのですが、「戦争を早期に終結させるきっかけとなった」という記載はあっても、どんなに目を皿のようにして読んでも被害についての記載は殆どゼロ。それが博物館側の方針なのだろうと当時は思ったのですが、このwikipediaの説明よると、一概にそういうわけでもなかったんですね。計画当初は被害についても展示しようとしていたと。でも国内から圧力がかかり被害の展示は断念され、館長も辞任したと。
そういう思い出もあって、上記のロサンゼルス・タイムズの記事は興味深く読みました。
私が一昨年の8月5日に広島の原爆資料館を訪れたときには、多くの外国からの方達が涙を流して展示をご覧になっていました。そしてオバマさんから贈られた折り鶴の写真を撮っておられました。

今年の終戦記念日には、『太陽の子』というドラマが放送されるそうですね。戦時下に原爆を研究していた京大の科学者達の苦悩と青春を描いた物語とのこと。
このブログでも以前『海と毒薬』の感想記事の中で触れたことがありますが、戦時中、日本でも原子爆弾の研究が行われていました。もし日本がアメリカよりも早く開発に成功していたら、日本の軍部は迷うことなくそれを使用していたろうと私は思います(これはもちろん上記LAタイムズの「ソ連の宣戦布告のみで日本は降伏すると予測されたにも関わらず、日本に原爆投下をした是非(米国は冷戦を意識して行動した)」とは別問題です)。
もっとも当時の日本は基礎研究においては高レベルにあっても原爆研究においては非常な初歩段階にしかなく、終戦までに日本が核爆弾を完成できる可能性はゼロというのが当時の日本の科学者達の共通認識だったそうですが(そして実際そのとおりになった)。

今回ドラマになっている京大の原爆研究(F研究)は海軍の依頼によるものですが、他に陸軍の依頼による理研の原爆研究(二号研究)も並行して行われていました。日本の原爆研究は二本柱で行われていたんですね。
終戦後、理研や京大にあった「サイクロトロン」という原子核の最先端の研究装置が原爆製造用であると米陸軍省により誤認され、「純粋な基礎研究用のものである」という科学者達の涙の訴えにもかかわらず破壊されてしまいます。この暴挙は米国の科学者達からも「人類に対する犯罪である」と強く非難され、後に米陸軍長官は破壊命令は誤りであったと謝罪しました。これにより日本の核物理学の研究は大きく遅れることになったと言われています。

原爆投下直後の広島・長崎の調査を命じられた日本の原爆研究に携わっていた科学者達は、その惨状を目にして大きな衝撃を受け、戦後は彼らの多くが核兵器廃絶運動に取り組んだそうです。1949年には日本学術会議が創設され、二号研究の中心的研究者だった仁科芳雄およびF研究の中心的研究者だった荒勝文策の提案により、以下のような声明が出されました。

「日本学術会議は、平和を熱愛する。原子爆弾の被害を目撃したわれわれ科学者は、国際情勢の現状にかんがみ、原子力に対する有効なる国際管理の確立を要請する。」

この声明が出されてから71年。
冷戦も終わり、なのに核抑止力の問題が再び現実味をもって議論される時代が来ようとは・・・。
戦争のない平和な世界を作ることはそんなに難しいことなのだろうか・・・人類ってどうしてこう愚かなのか・・・毎日笹食べて寝て満足してるパンダ達を見習いなさいよ!とため息が出る、75回目の広島原爆の日でありました。


【戦後70年 核物理学の陰影(上)】幻の原爆開発 科学者が巻き込まれた2つの出来事とは(2015年 産経新聞)
【戦後70年 核物理学の陰影(下)】悲運の加速器、海底に沈む 「米国の誤謬、もはや絶望」(2015年 産経新聞)
「平和問題と原子力:物理学者はどう向き合ってきたのか」(2016年 日本物理学会)
「エノラ・ゲイ元航空士が遺した、原爆の「過ち」と誓い」(2015年 日経新聞)

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

みゆきさん、銀河鉄道の夜、24時着00時発

2020-08-04 17:54:13 | その他観劇、コンサートetc




2006年に行われた中島みゆきさんの夜会『24時着00時発』についての感想は当時こちらの記事で書きましたが、機会があって、とても久しぶりにDVDで鑑賞しました。
当時青山劇場で圧倒された空気が蘇って(DVDは大阪公演の収録ですが)息をのみつつ、あぁみゆきさんの声好き好き好きとキュンキュンなりつつ、あれから14年たって改めて色んなことを感じたりもしたので、覚書も兼ねて書かせてくださいませ。

ラストでジョバンニ姿のみゆきさんが『命のリレー』を歌う場面は私の最も好きな場面の一つですが、今回この作品を観て、改めてみゆきさんという人はジョバンニなのだな、と感じたのでした。
天上へ行くカンパネルラではなく、「どこまででも行ける」切符をもち、なすべきことをするためにこの世界へと戻るジョバンニ(もっともジョバンニは特別な選ばれた人というわけではなく、彼は銀河鉄道の旅を通じてそのことに気づいただけで、本当はその切符はこの地上に生きる私達皆が持っているものなのだと思う)。それは賢治自身でもある。

血の色は幾百
旗印の色は幾百 限りもなく

遥か辿る道は消えても 遥か名乗る窓は消えても
遥か夢の中 誰も消せるはずのない
空と風と波が指し示す天空の国
いつの日にか帰り着かん 遥かに

二幕。この『わが祖国は風の彼方』に続き、『帰れない者たちへ』→『月夜同舟』→『命のリレー』→『サーモン・ダンス』→『二隻の舟』→『無限・軌道』の流れが圧巻なのですが(当時の自分の感想を読んだら「周囲からすすり泣きが聴こえていた」と書いてありました)、夜会のテーマ曲でもある『二隻の舟』からは次の部分が歌われています。

風の中で 波の中で
たかが愛は 木の葉のように
わたしたちは 二隻の舟
ひとつひとつの そしてひとつの

おまえとわたしは 二隻の舟
同じ歌を歌いながらゆく 二隻の舟

ここの「わたし」とはみゆきさんで、そして「おまえ」とは私達のことなのではないだろうか。
私達、つまり”帰る場所をもたないたくさんの魂たち”へ、いつかきっと行ける遥か彼方のその場所に一緒に行こうと、(ご自分一人だけが行くのではなく)皆で一緒に行こうと。
そのためにみゆきさんは”ここ”にいて、歌を作り、歌ってくれているのではないだろうか。
そこには「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と言った賢治と同じように、「誰一人置いていかない」というみゆきさんの強い想いを私は感じます。

ここでアカリやサケ達が線路を切り替えるために転轍機を必死に探している場面は、『橋の下のアルカディア』で人見達が「緑の手紙」を探す場面に重なりました(ちなみに偶然でしょうが、小説の中のジョバンニの切符も「緑いろの紙」です)。『サーモン・ダンス』で「生まれ直せ」と力強く歌うみゆきさん。そう思うとあのアルカディアのラストも一種の輪廻転生と言えるのかもしれません。

生きて泳げ 涙は後ろへ流せ
向かい潮の彼方の国で 生まれ直せ

またこれは当時の感想にも書いたけれど、愛する人を救うために自分は他人であると宣言したアカリの行為は、ジョバンニや賢治の目指す生き方に重なります。そしてそういう生き方をすること(他人の幸福のために自らの想いや欲望を諦めること)は一見「自己犠牲」のように見えるけれど、実はそれは自らの幸福にも繋がっているのだと。それは魂の安らぎという意味からもそうですし、また輪廻転生という意味からもそうです。『24時着00時発』の最後の場面でアカリがプロのデザイナーとして幸福な人生を送っていることは、それを暗示しているのではないでしょうか。
それを静かに見送るアカリの「影」。少し寂しそうな、でも強い意志をもった眼差し。
これは「みゆきさん」その人なのだと思う。そして黒服を脱いで歌う再びの『サーモン・ダンス』(めっちゃ綺麗&カッコイイ)と、黒いマントの賢治から少年のジョバンニ姿に変わっての『命のリレー』(可愛い&圧巻&最高)。
そんなことを思い(私の勝手な妄想ですが^^;)、「みゆきさん」と改めて胸がいっぱいになってしまった、久しぶりの『夜会vol.14  24時着00時発』鑑賞でございました。
何百回でも書いちゃいますが、みゆきさんと同じ時代に生きることができた私は幸福です。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする