風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

マリア・ジョアン・ピリス ピアノリサイタル @サントリーホール(4月12日)

2018-04-28 15:20:53 | クラシック音楽




ピリスのピアノを聴いてみたいと思ったきっかけは、好きな指揮者のハイティンクやブロムシュテットとよく協奏曲を演奏しているイメージがあったから。お互いに何か通じるものがあるのかな、と。
そんなわけで来日の機会を窺っていたところ、突然のステージ活動からの引退表明。撤回がない限りは、今回の来日が私がピリスの演奏を生で聴ける最初で最後の機会となってしまったのでありました。

サントリーホールに来るのは、友人が旅立ってからは初めて。
ちょうど5ヶ月前の同じ日に、ブロムさん×ゲヴァントハウスのブルックナーを友人のすぐ近くの席で聴きました。その席に座っていた彼女の姿を今もはっきりと覚えています。ロビーのカウンターでチラシを見ていた彼女を私が見つけて声をかけて。休憩時間に「小泉さんがいるね」って教えてくれたのも彼女でした。たった5ヶ月後にこんな気持ちでサントリーホールに来ることになるなんて、あの時は想像もしていませんでした。


【ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第8番 ハ短調 Op.13 「悲愴」】
ピリスの「悲愴」からは、「昔の偉大な音楽家」ではなく、「この曲を作ったそのときのベートーヴェン」の心を感じました。
2楽章。ベートーヴェンが二百年前の人生のある時期にこんな美しく優しい音楽を作ってくれて、それから多くの人達がこの世界に生まれてこの曲を演奏して聴いて感動してこの世界を去っていって、そして今この瞬間、私達はこの曲を聴いている。それはなんて美しい世界なのだろう。音楽というのは「この世界」のものなのだな、と思った。あちらの世界ではなく、その時その時にこの世界に生きている者達のものなのだ、と。そういう世界に彼女だってあと数十年は生きることができたはずだったのに、とクラシック音楽が大好きだった友人のことをどうしても思ってしまいました。


【ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第17番 ニ短調 Op.31-2 「テンペスト」】
当初発表されていたシューベルトの「3つのピアノ曲 D946」から曲目が変更されたこの「テンペスト」。
素晴らしかった。
嵐の激しさと静けさは同じものなのだ、ということをあまりにも自然に感じさせる演奏の凄み。そして三楽章後半のものすごい美しさ。嵐が遠ざかっていって最後の音が消えてゆく美しさはちょっと言葉では表現できないものでした。限りなく自然なのに、なぜか強く心に残る。
きっとピリスにとってもいい演奏だったのではないでしょうか。演奏を終えて舞台袖に退場するときのピリス、少し泣いていたように見えました。

(20
分間の休憩)
ピアノの確認のため一階へ
その音からそうだろうとは思ったけれど、やはりレオンスカヤと同じYAMAHA


【ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第32番 ハ短調 Op.111】
若い頃の演奏でも危ういデリケートさのようなものが感じられていたピリスのピアノは、この日も時折彼女の小さな手や年齢にもよるのであろう指のもつれなどもあって、でもそれも全部含めて、彼女の演奏からは「繊細な生身の人間」である等身大の作曲家の姿が強く伝わってきたのでした。
シフのベーゼンドルファーでの32番からは「宇宙」を感じ、今夜のピリスの32番からは「人間」を感じました。その演奏からは、ベートーヴェンとピリスという二人の人間の人生が重なって感じられた。
二楽章。苦悩があって、迷いもあって、弱さも脆さもあって、そこから次第に光へと向かっていくベートーヴェンの心の変化が、この曲を作曲していたときの心の過程が伝わってくるようで、まるで彼自身が目の前で弾いているかのように錯覚しました。彼がどれだけのものを乗り越えてその光にたどり着いたのか。ピリスはきっとこの曲の中のベートーヴェンのそんな優しく繊細な部分を感じ、寄り添い、そして自分自身と重ねながらこの曲を弾いているのではないでしょうか。
シフのときは宇宙が見えてトランス状態にさせてもらえた高音トリル。ピリスの今夜は、その音から滲み出るベートーヴェンの繊細さに泣きそうになった。そしてそこから力強さを増して広がっていく光。あの強さはベートーヴェンが当たり前に手に入れたものではなかったんだな。地面を這いつくばって苦悩や孤独や悲しみを乗り越えて、ようやく手に入れた強さだったんだ、と。
そんな人間としての作曲家の繊細さと優しさ、そして強さを、あまりにも自然に感じさせてくれた32番だった。


【ベートーヴェン:『6つのバガテル』 Op.126 より 第5曲 クアジ・アレグレット(アンコール)】
ベートーヴェンがピアノソナタ32番より後に作曲した、最後のピアノ曲。
聴きながら、これはきっとピリスのとても好きな曲なんだろうな、と感じました。きっと彼女は時折誰のためでもなく、自分のためにこの曲を弾いているのではないかしら
。自宅で昼や夜のくつろいだ時間に、あるいは自分自身を元気づけたいときに、一人でこの曲を弾いているピリスの姿が重なって見えました。ベートーヴェンやピリスの心の中の最も気負わない素の部分を見せてもらえたような演奏で、こういうものを聴くと、私の心も素直になれるような気がする。
最後まで、ベートヴェンの音楽の繊細な美しさを感じさせてくれたピリスのリサイタル一夜目でした。

カーテンコールの彼女は感慨深い表情の笑顔。彼女は演奏前も後も必ずP席に丁寧に頭を下げて挨拶してくれるんですね。長く深いお辞儀。
このリサイタルに来るまではピリスが再びステージ活動に戻ることもあるのではと思っていたのだけれど、実際に今夜彼女の表情を見て、その演奏を聴いて、少なくとも今の時点での彼女は本気で引退をするつもりでいるのだな、と感じました。優しさだけじゃなく、小さな体の中に思いのほかの厳しさも感じさせるピアニスト。

17日のリサイタルの感想は後日。

Maria Joao Pires Beethoven, Chopin & talk about piano competitions

Op.126-5クアジ・アレグレットは、0:57より。
トークは何語…?まったくわからない レコーディングやコンクールについてのお話のようです。

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エリーザベト・レオンスカヤ シューベルト・チクルスⅢ、Ⅵ @東京文化会館小ホール(4月8日、14日)

2018-04-27 19:45:49 | クラシック音楽



今月は、レオンスカヤ(8日)→ピリス(12日)→レオンスカヤ(14日)→ピリス(17日)の女性ピアニスト祭り、からのブロムシュテット×N響祭り(15、21、26日)でした。
それぞれがそれぞれに素晴らしかった

まずは、レオンスカヤの感想から。
シューベルト・チクルスの第3日目と第6日目に行ってきました。
8日は11時開演、14日は14時開演。以前ミューザでウィーン弦楽四重奏団を聴いたときも思ったのだけど、昼間の時間帯のリサイタルや室内楽って会場の照明をもう少し明るくすると爽やかでいいと思うのだけどなぁ


【チクルスIII】 2018.4.8(日) ※3列目中央
ピアノ・ソナタ 第2番 ハ長調 D279 +四楽章としてAllegretto D346
ピアノ・ソナタ 第13番 イ長調 D664 
ピアノ・ソナタ 第16番 イ短調 D845 
5つのピアノ曲 D459a より 第3曲 Adagio(アンコール)

小ホールは浩子さんの音楽会のときにアコースティックギターが響きすぎるほど響くように感じられたのでピアノだとどんな感じなのかなと思ったら、今度は意外なほどの響かなさ。なるほど、今日はピアノがヤマハなのですね。考えてみると私はヤマハのピアノをコンサートで聴くのは初めてで、これはなかなか貴重な機会では!・・・と思っていたら、すぐにサントリーホールでも聴くことになったのでありました笑(@ピリス)。

ヤマハの愛好者といえばリヒテルさん。という理由だけじゃなく、レオンスカヤって弾き方がリヒテルによく似てる、と一曲目から感じました(リヒテルは録音でしか聴いたことがありませんが)。突然深淵を覗き込まされるような強音や低音や、大きな全体としての曲の歌い方などが。
レオンスカヤのあの強音の和音の安定感にはビックリしました。女性でもああいう音が出せるんですねえ。聞くところによると彼女の手は大きいのだとか。

もちろんリヒテルと異なる部分は沢山あって。例えばリヒテルのシューベルトにある子供が無邪気に遊ぶような感じは、レオンスカヤのシューベルトからは感じられません。一方で、シューベルトの曲を聴いていると私は花畑の風景が見えることが多いのだけれど、どちらも野に咲く花ではあっても、リヒテルの演奏から見える花は小さく可憐な花々が咲き乱れる風景。レオンスカヤの方は、もう少し大きな花々が温かな春風にゆったりと揺れている様を感じました。浮かんだイメージはアネモネの花。この人のピアノは、そういうゆったりと歌うような旋律がものすごくいい。同時に、自然や人生の摂理として存在している避けられない暗闇や孤独も感じさせてくれるのがレオンスカヤ。
特にD664とアンコールは、忘れがたい演奏でした。素晴らしかった。

ところで休憩時間に公演中の話し声や「寝息」についての注意アナウンスが流れていたけれど・・・・・・、音のタイミング的にあれはレオンスカヤの鼻息だと思う。もっとも最終日には殆ど聞こえなかったので、座る席や彼女のご体調によるのかも。


【チクルスVI】 2018.4.14(土) ※下手K列
ピアノ・ソナタ 第11番 へ短調 D625
幻想曲 ハ長調 D760 《さすらい人幻想曲》
ピアノ・ソナタ 第21番 変ロ長調 D960
4つの即興曲 D899 より 第2曲 変ホ長調、第3曲 変ト長調(アンコール)

本日は、チクルス最終日。
ちょっ、初っ端から素晴らしいんですけど・・・
ご年齢(72歳)のせいか指がまわらない部分などはあるけれど、そんなことは全く問題にならない何ものかが彼女の演奏にはあるように思う。
深い闇からふわっと広がる優しく大きな華やかさ。
圧巻はD760 《さすらい人幻想曲》。この曲の中心の心から生まれ出てくるようなレオンスカヤの音。最初から最後まで息をするのも忘れるほどの素晴らしさでした。この曲ってこんなに表情豊かな、聴き応えのある曲だったんですねえ・・・。四楽章後半では鍵盤から飛翔していく鳥の翼が見えた。いやぁものすごいものを聴いてしまった。演奏が「この曲そのもの」に感じられた。この曲にこれ以上の演奏などあるのだろうか、と感じてしまった。ブラボー!

そんな渾身の演奏で体力を使い切ってしまわれたのか、彼女の本来のアプローチでもあるのか、この後のD960は気力で最後まで乗り切ったように感じられた演奏でした。もともと太く重めの弾き方をする方なので21番については私の好みの演奏とは違ったのだけれど、印象的だったところもあって。4楽章冒頭の超強音はリヒテルと同じ。これ私は苦手なはずだったのに、ツィメルマン以来これじゃないと物足りなくなってしまった。また最終楽章の一番最後の音を今日のレオンスカヤはダンッと勢いよく短く終えていて、そこになぜか強く「シューベルト」を感じたのでした。これ、とてもよかった。ここはツィメさんはもう少し長かったと思う。帰宅してyoutubeで調べてみたらここを短く切る演奏って意外と少なくて、リヒテルのプラハリサイタルや光子さんが同じ感じでした。今後この弾き方じゃないと満足できなくなってしまいそうだ。

アンコールは、即興曲D899の第二曲と第三曲。第二曲はポロポロではなく大きく流れる川のように自然に歌われるフレーズと地の底から響くような低音の暗さの対比が彼女ならでは。他のピアニストとは違う方向からの確かな「シューベルト」を感じさせてくれました。そして第三曲。私が感じる彼女のピアノの魅力がいっぱいに溢れた、優しく温かなシューベルトの花の歌。非常に非常に素晴らしかった

この最終日の21番の演奏はBSプレミアムの「クラシック倶楽部」で放映予定とのこと。んー、あの演奏をそのまま放映するのかしら・・・(後から撮り直したという噂もあるけれど)。今日の演奏ならD760+アンコールという組み合わせが絶対にいいと思う。


ぶらあぼインタビュー



毎年上野でこのポスターを見かける度にいいな~と羨ましく思っていた東京・春・音楽祭
ようやく参加できて嬉しい


Elisabeth Leonskaja: Schubert Impromptu op. 90 no 2 in E flat


Elisabeth Leonskaja: Schubert - Impromptu op. 90, no. 3 G flat

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四月大歌舞伎『絵本合法衢』 @歌舞伎座(4月8日)

2018-04-24 23:09:11 | 歌舞伎


「南北はその土地の匂いを出しています。・・・南北の役は、なぜかわからないけれど、すっと入ってくる」

仁左衛門が語る、歌舞伎座『絵本合法衢』


※3階1列目中央

た~のしかった~~~

終演後に漏れ聞こえるおばさま達の会話に、いちいち思いっきり頷いちゃいました。
「楽しかったねえ~」 うんうん!
「やっぱり仁左衛門は上手いねえ~」 うんうん!!

ニザさんお元気&熱演!!
噂には聞いていたけれど、ここまで出ずっぱりとは。
仁左衛門さんってほんっとうに上手い役者さんだよねぇ。。。。。もう最初から最後までずーーーっとその至芸に見惚れっぱなしでした。
言い換えればこの演目って話の中身は殆どなく大学之助/太平次の役者に全てがかかってるように思われるから、仁左衛門さんと同じくらい客の目を引き付けられる芸と華と色気と凄みと愛嬌と存在感をもつ役者がいないと今後の上演は難しいのではなかろうか・・・。

彌十郎さん(高橋瀬左衛門/高橋弥十郎)と時蔵さん(うんざりお松/弥十郎妻皐月)の二役早替りは、歌舞伎の早替りものの楽しさがようやくわかった気がいたしまする。

ニザさん(太平次)&時蔵さん(お松@持った亭主は16人♪)のこういうお役の組み合わせ、好き!
でもお松の最期はちょっぴり気の毒ね。

立場のばっちさ!!
歌舞伎のぼろ屋敷のばっちいセットはどうしてこんなに観てて楽しいのかしら。

錦之助さん(与兵衛)はこういうお役が本当にお似合い。

大詰は笑っていいところ、よね。真っ赤なでっかい閻魔さまの後ろからの堂々のご登場も、や否やあっさりやられちゃうのも。わざわざご自分から姿を現してさっくり倒されるラスボス大学之助様。マヌケすぎる・・・。

仁左衛門さんの切り口上、見応え&聞き応えがあって大好き!!!

Kさ~ん、ニザさんすごい熱演だったよ~。すごくお元気で渾身の一世一代だったよ~。
苦手な受かれ町人物のはずの神田祭を「すごくいい!」って言っていた彼女だもの。以前観て苦手と言っていたこの演目も、絶対に今回も観に行ったにちがいないと思うし、このニザさんを観たらきっと感動したと思う。そしてストーリーはやっぱりツッコミどころ満載って言ったと思う笑。でもそれは全部私の想像でしかないから。やっぱりいつもみたいに感想を話したかったよ。
ニザさんの一世一代、一等席で楽しんでいますか?
今回も花横の上手前方を思わず見てしまったよ。









 ――『絵本合法衢(えほんがっぽうがつじ)』には、町人の太平次と武士の左枝大学之助という二人の悪人が登場し、どちらも仁左衛門さんが演じられます。2役の違いをお教えください。

 太平次はフットワークが軽く、悪知恵が働き、目的のためには平気で人を殺します。それでいて、どこか愛嬌があります。太平次は、おりよ、お松、お道、お米、孫七を手にかけます。「倉狩峠一つ家」で、首筋の蚊を叩きつぶしますが、彼にとっては、蚊を殺すのも、人を殺すのも一緒。

 鶴屋南北の描いた町人の悪人でも『於染久松浮名読販(おそめひさまつうきなのよみうり)』の鬼門の喜兵衛は、どんとしていて物事に動じないし、『霊験亀山鉾(れいげんかめやまほこ)』の八郎兵衛は、太平次ほど機転はききませんが、女に惚れ、そのために努力もします。おそらく太平次は本当に女性に惚れたことがないでしょう。お道と夫婦になったのも便宜上で、太平次に惚れ込んだお松も利用したあげくに殺してしまいます。

 大学之助も冷酷無比ですが、大名の子で権力を持っています。南北作品に登場する悪人でも『霊験亀山鉾』の藤田水右衛門は浪人者。大学之助のほうがスケールが大きいです。

 ――平成4(1992)年、新橋演舞場で『絵本合法衢』を初演された際に、重視されたのはどんなことでしょうか。

 サブタイトルに「立場の太平次」と付くように、太平次にウエイトを置いて、前後をどうするかということですね。

 ――大学之助と太平次。どちらがお好きですか。

 それは太平次ですね。武張った役よりも、等身大の役のほうが演じていて楽しいですね。

 ――南北作品の魅力はどこにありますか。

 泥絵具で描いたような楽しさでしょうか。どろどろしているところです。

 ――今回は「一世一代」と銘打たれています。

 私が一世一代と言ったわけではないんですよ。大阪松竹座でやらせていただいたときに(平成27年7月)、このお芝居は2役で、出ずっぱりなものですから体力的につらく、これが最後かなと思いました。今回、どうしてもとお話をいただき、お受けしましたが、本当に、これで最後にしようと「もうこれっきりやらないからね」と申しましたら、松竹さんが「一世一代」と付けたということで…。

 俳優というのは、年を重ねれば重ねるほどよくなってくる部分と、体力的に衰えていく部分があります。その兼ね合いが難しいんです。時間を割いて劇場に来てくださるお客様の期待を裏切らないように、2役を25日間連続して勤めるのは、これが限界かなと思いました。

 ――最後にされる寂しさはありませんか。

 それはあります。まだまだ伸びしろが残っているお役ですからね。

 ――新橋演舞場、国立劇場、大阪松竹座で演じてこられ、歌舞伎座で締めくくることになりますね。

 歌舞伎座で最後というのは、歌舞伎俳優としてはうれしいです。もちろん、ほかの劇場も好きですよ。ですが、やはり歌舞伎座は歌舞伎の殿堂という思いがあります。

 ――今後、演じたいお役はありますか。

 どんなお役でもこれで完成というのはありませんし、体力があればまだまだ追求していきたい。ほかの役もこれからです。『吉田屋(廓文章)』にしても、父(十三世仁左衛門)の域には達していないですし、言い古された言葉ですが、死ぬまでが修業です。いろいろな役をやりたいですね。

ようこそ歌舞伎へ) 

「吉田屋(廓文章)にしても」

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三月大歌舞伎 夜の部(3月7日、24日) @歌舞伎座

2018-04-15 13:01:04 | 歌舞伎



ちょっぴりおひさしぶりです。
皆さま、お元気でいらっしゃいましたか。
私は3月の中旬に、ひとりの友人との別れがありました。3月も舞台は観に行っていたのだけれど、その感想を書こうとするとどうしても彼女に触れないわけにはいかなくて、それは私にとってとても難しいことで、また辛いことでもあったので(書くと彼女が本当にいなくなったことを認めてしまうような気がしたんです)、なかなかブログを書く気持ちになりませんでした。また、無理をして書こうとも思いませんでした。そんな風にして日が過ぎていくうちに、一方で、記憶が遠くならないうちに少しでも彼女との思い出を残しておきたいという気持ちも強くなってきて、ここに戻ってきました。といっても彼女についての話を書くつもりではなく、観た舞台から感じた感想をいつもと同じにできるだけそのままに書きたかっただけです。

というわけで、まずは3月の歌舞伎座の感想から。
7日と24日に、夜の部に行ってきました。7日は3A席、24日は3B席。
友人はたぶん、私の翌日の8日に行っていたはずです。急にチケットが取れたから今歌舞伎座にいる!ってお母様に嬉しそうなメールが入っていたそうです。二人で今月の感想を楽しく言い合ったのが12日。最後に彼女に会ったのが14日の午後。そして15日は彼女は出勤することなく、夜、この世界から旅立ってしまいました。43歳でした。

24日に行ったときは、まだ今月の公演は当たり前にやっているのに、写真を一緒に撮った桜だってまだ散っていないのに、彼女だけがこの世界にいないことがひどく不思議でした。もう絶対に歌舞伎座で会うことはないのだということが実感としてわかりませんでした(今も実感はありません)。彼女がもうお金を気にせず存分に座っていそうな一階席前方の花横の辺りを思わず探してしまいました。きっとこれからも、目に見えないだけで、最高席で存分に楽しんでいるに違いないと思っています。

以下は、いつもの調子で感想を。


【於染久松色読販(おそめひさまつうきなのよみうり)~小梅莨屋の場、瓦町油屋の場】
お二人の両役での顔合わせは、41年ぶりとのこと。

この凄み、この軽み。南北の空気~~~
 
昔松竹座で福助さんの絶品お六を別演目(杜若艶色紫)で観たことがあるけれど、お六って南北がよく使う悪婆の名前なのかしら?と調べてみたら、こんな記事が。ほほぅ、あちらも同じ「土手のお六」だったんですね。福助さんも玉三郎さんも、どちらのお六も素敵!これ以上望むべくもない最高さ!
とはいえこういうお役は例え福助さんのご復帰が難しかったとしても、きっと七之助や児太郎が跡を継いでくれるのではないかとも思う(花子もきっと誰かが継いでくれる。富姫様は……玉さまで封印するからいい…)。
それよりも立役でこういう仁左衛門さんの跡を継いでくれる役者はいるのだろうか…。凄みと軽みと愛嬌、に加えてスター歌舞伎役者の華やかな空気を併せ持つ役者。
そして、女形との相性。
もう本物の夫婦にしか見えない仁左衛門さん&玉三郎さんの喜兵衛&お六は、本当に奇跡のカップルであるなあ、とニザ玉コンビのその意味を改めて強く実感いたしました。
最後の花道のカゴを担いだお二人、なんてカワユイんでしょう!なんて楽しいんでしょう!なんという見応えでしょう!
もう手を合わせて拝みたいほどでございました。


【神田祭】
と思ったら、幕間の後にはさらなる超ド級が・・・

「完璧な世界」だった・・・・・・。

先月の『井伊大老』に続いて舞台の上が100%完成されていて不足するものが何もない凄みさえ感じて、先月と同じく、少し心配にもなってしまった。数年前なら「きゃ~玉さま~ニザさま~じゃらじゃら~」と無邪気に喜んでいたところだけれど、ここ数年お二人の共演が殆どなかったのに急に立て続けに共演されてるのは何故だろうとか、仁左さまが最近南北を演じまくっていらっしゃるのはなぜだろう、とか色々考えてしまい(でも四谷様やってくれないけど)。
お二人に限らず今のこの世代の役者さん達は殆どの舞台を一世一代のおつもりで演じておられるであろうことは想像に難くないけれども。
しかしほんっっっとうに美しいお二人・・・・・・・。杮落しの吉田屋でお二人がそれぞれお顔を見せたときに客席の照明が一瞬でぱあっと明るくなったあの錯覚を思い出しました。
あのときはふんわり上方ボンボンの仁左さまとふんわり儚げ花魁の玉さま。今回は粋なほろ酔い鳶頭の仁左さまとスッキリ芸者の玉さま。どちらも素敵すぎて辛い・・・・。
お二人が頬を寄せ合うじゃらじゃら最高潮な花道は、客席のすべての仁左玉ファンが心の中でありがたやありがたや…と手を合わせていたに違いない。ありがたいは有難い。滅多に現れないからこその奇跡のカップルと同時代に生きられた幸福をしっかりと心と目に焼き付けた夜でございました。


【滝の白糸】

鏡花作品には、『天守物語』、『夜叉ヶ池』、『海神別荘』、『高野聖』のような幻想的な異界が舞台の作品もあれば、『日本橋』、『婦系図』、そして『滝の白糸』のような花柳界など現実の世の中を背景にした、写実的な感覚の作品もありますが、どちらも、”純粋な魂の在り方”を描いていることは共通している、と思って演じてまいりました。…『滝の白糸』という作品も、とても耽美な作品ですが、滝の白糸と村越欣弥は、時間や距離を超え、それぞれの最善の方法で相手にひたむきに尽くし、最後には魂がともに昇華するのです。
(坂東玉三郎。今月の筋書きより)
 
ここで玉三郎さんが仰っていることは、私が鏡花作品を好きな、そして玉三郎さんが演出する鏡花作品が好きな一番の理由です。
今回の舞台、「救いがなさすぎる」という感想を見かけるけれど、鏡花はその正反対のことを言っているのだと私は思うのです。滝の白糸は心の清廉さを求める欣弥の言葉を受け入れ、正直な告白をした。そして村越欣弥は彼女が自分のために罪を犯したことを承知していて、彼女にその罪を認めさせた。彼ら二人が「純粋な魂」であり続けるには、二人ともが死ぬあのラスト以外にはないのだと思う。二人はそうすることで、この世界の誰よりも気高い場所にいられるのだと思います。それがこの物語で鏡花の描く「救い」の形なのだと思う。私達下界の視点から見ればそれは悲劇かもしれないけれど、鏡花の視点から見れば決して悲劇ではないのだと思います。あまりに純粋すぎる、極端すぎる、と多くの人は感じるであろうけれども、その極端なほどの純粋さが鏡花作品の魅力であり、私が(おそらく玉三郎さんも)鏡花に惹かれる理由です。

で、7日→24日で大きく進歩していたように感じられたのが、この『滝の白糸』。
7日はまだ演技や台詞にぎこちなさが感じられて、鏡花な空気って本当に難しいのね・・・と実感しちゃっておりました。皆さんまだ台詞を台詞としてしゃべっている感じ(歌六さんでさえも)で、観ていてちょっと疲れてしまった。壱太郎の声質にも私の耳が慣れず。台詞の言い方が玉さまぽいのに吃驚したけれど、歌舞伎役者さんはまずは完コピが基本のようなので、これはこれでよいのだと思います。そして
場面転換が多い上に幕間10分を2回挟むので、ひどく長く感じられてしまう(これは24日でもそう感じました)。そして思ったのが、この作品は夜の部の一部としてやるのではなく、新派のようにこの演目だけで出した方がいいのではないかな、と。あと、水芸はこれでいいの・・・?とか

が、24日はほんっとうに進歩していて、とてもよかったです。
全体の流れがスムーズになって演技や台詞が役者さんに馴染んでいたのに加え、なにより主役二人(松也壱太郎)がとってもよかった。夜の卯辰橋の場面の美しさと愛らしさと愛おしさよ。
今の時代(私は時代は関係ないと思っているのですが)の人達にとってはひどく唐突に感じられるであろう鏡花の主人公たちの行動に説得力を持たせるのは、役者にとって結構難しいことなのではないかと思うのです。でも24日の二人には、自然にその説得力がありました。私の大好きな『外科室』と同じく、世間一般の感覚では恋愛とさえ呼べないような僅かな触れ合い、接点しか持たない二人が、命を懸けるほどの強い何か(恋愛とかそういうものも超えた何か。魂の最も純粋な部分)で繋がっている。そのことを無理なく感じることが出来た、二人の演技でした。決してそれほど濃い演技をしているわけではないのに、不思議。二人の現代的+古風さが同居している空気も、瑞々しい鏡花でとてもよかった。

私は原作を読んだことがあったけれど、友人は読んだことがなかったとのことで、「(神田祭で)すごくいい!!ってなった後、あの演目で。あのラストには吃驚してしばらく呆然としちゃって、呆然としたまま家に帰って思い返して、『でもいい話だった気がする』と感じた」と言っていました。「裁判所の場面は、松也が「失礼します」と退場しちゃって、おいおい~自分の言いたいことだけ言って退場ですか~?と思っていたら、あの展開で。呆然としていたら幕が下りてきて、拍手していいのかどうなのか、と。もっと別の展開かと思っていたから吃驚した」と。私が「でもあれ以外のラストってどういうのだろう?」と聞くと、「悲劇というのは知っていたから、女との悲しい出来事を胸に男は立派な検事になる、とかそういう話かと」と。なるほど、原作を読んでいなければ普通はそういう展開を想像するよね笑。
「壱太郎がすごく上手になっていて、松也は最後に本当に涙を流してて渾身の演技で、若者がんばれ~!っておばちゃん目線で応援したくなっちゃった」って、少し興奮気味にとても楽しそうに話していました。それが12日です。
彼女は私などが足元にも及ばない仁左衛門さんの大ファンでした。それを知っていたご家族が筋書を棺に入れてあげたほど。10代の頃から30年近く仁左衛門さんの歌舞伎をおそらく殆ど欠かさず観てきた彼女が最後に観た仁左衛門さんがあんな素晴らしい仁左さんで、そして本当の最後に観た歌舞伎が若手の将来を応援したくなるような舞台で、よかったなあ、と今は思います。彼女はかっこいい仁左さんが大好きで(杮落しの盛綱陣屋に大感動していた)「お祭りのような浮かれ町人もの」(彼女の言葉笑)は好みではないはずだったのだけれど、3月の神田祭はやっぱり感動したようでした。あれは、すごかったものね。
そして『滝の白糸』を「いい話」と感じてくれる彼女と、これからももっともっと色んな話がしたかったな、と心の底から思います。
今日(15日)は、彼女の月命日です。この一か月、長かったような、あっという間のような。ほんの一か月前には彼女は元気に笑っていたのにな…。



24日の閉演後の客席。
彼女とは出会ってから今日まで、数え切れないほどの同じ舞台をここで観て(一緒に約束して観たわけではないのです。でも二人とも特に仁左衛門さんのファンだったから必然的に同じ演目を観ることが多かった)、数え切れないほどの感想を話してきました。24日の『滝の白糸』の裁判所場面の幕切れが近付いてきたとき、不意に「彼女と全く同じ舞台を観るのはこれが最後なのだな」と強く感じ、言葉にできない寂しさを覚えました。いつか同じ配役で再演があったとしても、それは今月の舞台とは違うものだから。
2013年の杮落しのときは私が開場3日目に行ったので、新しい客席からの舞台の見え具合を写真に撮って送ってあげたりして、楽しかったなあ。歌舞伎座の前で擦れ違ったこともありました。あのとき声をかければよかったな、とか、誘ってくれたときに一緒にお弁当を食べればよかったな、とか今更考えても仕方のないことを考えてしまったりしています。













※ようこそ歌舞伎へ:坂東玉三郎

※坂東玉三郎公式ホームページ 4月のコメントより抜粋

2月には私も仁左衛門さんと8年振りの「七段目」で「お軽」を務めさせていただきました。そして3月公演でも「於染七役」で「土手のお六」と「神田祭」の「芸者」で仁左衛門さんとご一緒させていただきました。「於染七役」での二人は、若い時からご一緒させて頂いておりましたので、お稽古をしなくても自然と台詞が出てくるのでした。二番目には「神田祭」を踊らせていただきましたが、これも20年ほど前に初演しまして、そのままの振り付けで上演させていただきました。公演最中にも仁左衛門さんと色々とお話しもしながら、色々なことを懐かしみながら、大変に嬉しい2月と3月の公演でございました。…
 思い返しますと、仁左衛門さんと初めてお目にかかりましたのは、私が玉三郎を襲名致しました14歳の時でございました。その後17歳の時に、御園座の山本富士子さんの公演で、「春夏秋冬」という舞踊の「春の巻き」で、二人で「男雛女雛」を踊らせていただきましたのが舞台の上では初めてでした。それから約50年間にわたりご一緒してまいりました。私が20代には、6月の花形歌舞伎や、南座での若手歌舞伎公演で、御先代の仁左衛門さん、そのご子息の片岡我當さん、秀太郎さん、仁左衛門さん(当時の孝夫さん)とご一緒に様々な役柄を勉強させて頂いたことで、現在を迎えられているという実感があるのでございます。30代にはアメリカ公演やパリ公演で「桜姫」をやらせていただいたり、パリでは「かさね」を上演させていただいたり、本当に言葉では尽くせないほの思い出がございます。お父様の時代から、現在に至るまで舞台上では家族のような間柄でございます。…

(坂東玉三郎)

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