風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

孤独さえも至福な時も最初から一人じゃ知ることもなく

2009-03-30 19:50:59 | 日々いろいろ

夜明けのない夜はない、といいますが。
どちらかというと私が好きなのは、夜明け前が一番暗い、の方です。
まあ、それはさておき。

最近、人間がそれほど嫌いじゃなくなりました。
って、どれだけ人嫌いだったんだって感じですが。
人間一般っていう意味では、特別嫌いでもないけれど、あんまり好きじゃなかったんです、今まで(個人レベルではもちろん違いますよ)。
少なくとも学生時代のアルバイトの面接で「人と接するのが好きです」とか言っていたのは、まるででまかせだったことはまあ事実です。

人とは、もちろん自分も他人も両方のことですが。
(ここで「人」に自分を含めなくなったら、太宰君とお友達になれます)

朝こう考えたかと思うと、夜には全然違っていたり。
自分を守るために嘘をついたり。
無神経なことをしたり、言ったり。
後悔したり、しなかったり。
誰かを傷つけたり、傷ついたり。
弱くて。
過ちから学べばいいのに、同じ過ちを何度も繰り返して。
過ちであることも気付かないこともしょっちゅうで。
他人よりも自分のことを考えたり、自分よりも他人のことを考えたり。
でも、どの人も例外なく生まれてから死ぬまで大変なことが沢山あって。


面倒くさい生き物だな、と思うことも多いんだけど。
でも、最近はそんなに嫌いじゃないです。
人って、その人一人じゃなくて、他人と触れ合う中でどうにでも変っていくものなのだと、わかったから。
そんな風に思わせてくれた人たちに、本当に感謝です。


しかし最近つくづく思うけど、私は本当に友達にめぐまれている。
よく私なんかとこんなに長く友達やってくれてるなぁと不思議で仕方がないのだけれど。
私はみんなに何かを返せているのだろうか。

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「祈る」

2009-03-25 14:12:30 | その他音楽


祈りたい事がある 一つだけ
叶わない願いだと 知りながら
残された痛みさえ 愛おしい

誰に?どこに?神様 ねぇ いるの?
私の太陽は明日も昇りますか?
夜明けの音は 生きようと 確かに
目覚めの時を 待ってたはずよ

(KOKIA 「私の太陽」)




「祈る」という言葉が、好きです。



わかれゆく季節をかぞえながら
わかれゆく命をかぞえながら
祈りながら 嘆きながら とおに愛を知っている
忘れない言葉は誰でもひとつ
たとえサヨナラでも 愛してる意味

Remember 生まれたとき誰でも言われた筈
耳をすまして思い出して 最初に聞いた Welcome

(中島みゆき 「誕生」)



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芥川龍之介 『或日の大石内蔵助』

2009-03-24 01:45:29 | 

彼としては、実際彼等の変心を遺憾とも不快とも思っていた。が、彼はそれらの不忠の侍をも、憐みこそすれ、憎いとは思っていない。人情の向背も、世故の転変も、つぶさに味って来た彼の眼から見れば、彼等の変心の多くは、自然すぎるほど自然であった。もし真率と云う語が許されるとすれば、気の毒なくらい真率であった。従って、彼は彼等に対しても、終始寛容の態度を改めなかった。まして、復讐の事の成った今になって見れば、彼等に与う可きものは、ただ憫笑が残っているだけである。それを世間は、殺しても猶飽き足らないように、思っているらしい。何故我々を忠義の士とするためには、彼等を人畜生としなければならないのであろう。我々と彼等との差は、存外大きなものではない。

(中略)

彼はそれを聞いている中に、自らな一味の哀情が、徐に彼をつつんで来るのを意識した。このかすかな梅の匂につれて、冴返る心の底へしみ透って来る寂しさは、この云いようのない寂しさは、一体どこから来るのであろう。

(芥川龍之介 『或日の大石内蔵助』)


ご無沙汰しておりました。
お元気でしたか?
春、ですねぇ^^
なのに今日の言葉がこれ、というのもどうかと思いましたが。
まあある意味タイムリーなので、いいかなと。

どうして忠臣蔵かと言いますと、先日友達と一緒に歌舞伎座へ『元禄忠臣蔵』を観にいったからです。そのときに友達が芥川の小説でとてもいいのがあるよと教えてくれたので、帰宅してから早速読みました。
これ、ほんとにとてもいい。
ご興味のある方は上のリンクからぜひぜひ。
「忠臣蔵」は面白いエピソードの宝庫なのに、その中からこういう部分に焦点を当てるところが、芥川だなあと思います。
精緻な心理描写が、すばらしいですね。

さて、忠臣蔵といえば判官贔屓。
判官贔屓というのは最も外国人には理解できないものの一つだとよく言われます。
特に西洋人にとっては判官(の立場)は負け犬以外の何物でもないそうで。
しかし昨今は日本人の気質もだいぶ西洋化し、判官贔屓的なお話に涙する人も減っているようです。
それも寂しい気がしますが、判官贔屓が一概にいいとも言いきれないですし、これも一つの時代の流れなのかな、とも思います。
と、ここまで書いて思ったけれど、判官贔屓が廃れつつある理由は西洋化だけじゃなく、今の日本には判官贔屓したくなるほどの強烈な魅力のある人物がいなくなった、というのもあるのかもしれませんね。

まあそれはいいとして、何が言いたいのかといいますと、元禄の時代から今日に至るまで300年間も変わらず愛されてきた「忠臣蔵」がそのような状況に陥っている現代ですら、「芥川の忠臣蔵」(「元禄赤穂事件を扱った短編」といった方がいいのかもしれませんが)には現代でも十分に通じる普遍的価値があると思うのですよ。
それって、すごいことなんじゃないかな、と思うのです。

さて。
判官贔屓のほかに、よく言われる忠臣蔵の魅力として、ここぞという場面に「雪・月・花」が全て含まれている、というのがありますね。
雪月花は日本人が最も愛するといわれる自然の美。
浅野内匠頭の切腹が新暦の4月21日夜(by wiki)ですから、ここで桜と月。
四十七士による吉良邸討入が新暦の1月30日深夜ですから、ここで雪と月。
浪士達の切腹が3月20日ですから、ここでも桜。それより前の場面には、芥川のように梅を出すこともできます(元禄忠臣蔵では切腹当日でも梅の花がありました)。
たとえ日本人の心から判官贔屓がなくなるとしても、こういう雪月花を愛でる心はいつまでも残ってほしいなと思います。

ところで歌舞伎に話を戻しますが、銀座の歌舞伎座……どうして!どうして取り壊しなんですか!!!?あんなに歴史的価値ある素敵な建物なのに…。
老朽化のためというけれど、友達とも話していたのですが、今の建築技術をすれば維持することが無理なはずがないと思うのです。それをしないのは、単に、維持費をかけるよりも、取り壊したほうが安価だからなのではないのでしょうか。

ナショナルトラストの活動が徹底しているイギリスから戻って、日本人の歴史的文化遺産に対する意識の低さに悲しくなります……。
東京中央郵便局にしてもそうです。
なにより悲しかったのは、横浜の第百銀行。なんと、その上にタワーマンションを建てちゃったんですよ!あんな、あんな醜悪な……(T T)

先日のゆずり葉の詩じゃないけれど、美しいもの、価値あるものを未来へ残すのは私たちの義務だと思うのです。それは新しく作ることだけじゃないはずです。過去から時をかけて受け継がれてきたものなら、その義務は一層大きくなるのではないでしょうか。私達の時代でその連鎖を断ち切るということがどういうことなのか、その重大さに無頓着な人がこの国には多すぎると思うのです……。
物質的にはこんなに豊かな国になったはずなのに、何かがおかしいと思えてなりません。


なんか頭に浮かんだことをそのまま書いてしまいました。
ストレスがたまってるので(笑)
私はというと、時間的にも精神的にも(金銭的にも)余裕のない日々がまだまだ続いています。
歌舞伎はとてもいい息抜きになりましたが、はぁ、、、ほんと、はやく落ち着きたい。。。
派遣や契約社員の職はあるけれど、正社員がほんとない…。
まあ職種にもよるのでしょうが…。

ではでは、また^^
いい季節。
楽しいことや嬉しいことが皆様にいっぱい訪れますように!

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「ゆずり葉」

2009-03-11 00:03:02 | 





ゆずり葉     河井酔茗


子供たちよ。
これはゆずり葉の木です。
このゆずり葉は
新しい葉が出来ると
入れ代わってふるい葉が落ちてしまうのです。

こんなに厚い葉
こんなに大きい葉でも
新しい葉が出来ると無造作に落ちる
新しい葉にいのちをゆずって――。

子供たちよ
お前たちは何をほしがらないでも
すべてのものがお前たちにゆずられるのです。
太陽のめぐるかぎり
ゆずられるものは絶えません。

かがやける大都会も
そっくりお前たちがゆずり受けるのです。
読みきれないほどの書物も
みんなお前たちの手に受け取るのです。
幸福なる子供たちよ
お前たちの手はまだ小さいけれど――。

世のお父さん、お母さんたちは
何一つ持ってゆかない。
みんなお前たちにゆずってゆくために
いのちあるもの、よいもの、美しいものを、
一生懸命に造っています。

今、お前たちは気が付かないけれど
ひとりでにいのちは延びる。
鳥のようにうたい、花のように笑っている間に
気が付いてきます。

そしたら子供たちよ。
もう一度ゆずり葉の木の下に立って
ゆずり葉を見る時が来るでしよう。


(『光村 国語 六年下』)




卒業シーズンによせて(^_^)
小学6年生の頃の国語教科書より。

じつはこの詩、当時はあまり好きじゃありませんでした。
理由はよく覚えていませんが。
なんでだったかなあ。
「幸福なる子供たちよ」ってあたりが、ちょっと押しつけがましく感じたのかもしれません。
子供は子供なりの悩みをもちながら頑張って生きてますからね。

大人になった今は、この詩が好きです。
大きくて温かい、"大人の詩"だと思います。
大人になっても大人になりきれない人たちが増える昨今。
私も自分のことで精いっぱい気味なので人のことは全然言えないのだけれど。
こういう"大人"でありたいな、と思います。
また義務でもあると思う。

写真は近所の道に咲いていたゆずり葉、ではなく桜。
携帯から送ったので画質がわるくてスミマセン。
なんの種類でしょう。すごくきれいでした。
気に入っていて、今の携帯待ち受け画面です^^
うぅ、泣きたいかも・・・と思っても、これ見てがんばってるのです。

そう、泣きたいんですよ、ほんと。。
ひさしぶりの更新でしたが、私の方はまだまだまだまだ落ち着けません。
予想以上です、就職難。。
就活仲間のオトナのみなさん、めげずに一緒にがんばりましょー!
なんとかなります!大丈夫^^!

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