オリオン村(跡地)

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ボーダーレスな対馬 史跡巡り篇 柳川、久留米の巻

2012-08-27 05:35:46 | 日本史

 

最終日もやや曇りがちではありましたが、雨の心配がないだけでも心が晴れました。
どうにも天候を気にせずに毎月のように旅立っていただけに、こういう旅もたまにはいいだろうと思ってしまいます。
さすがにANAマイレージも尽きかけてきましたので今後は通常モードの夏休みでの旅ですから、台風にでもぶつからない限りは空模様の心配はしないで済みそうです。

まずは柳川城跡です。
蒲池治久が築いたものを孫の鑑盛が改修をして本格的な城郭としたのがこの柳川城で、難攻不落の名城として知られています。
鑑盛の子の鎮漣は龍造寺隆信と対立をしたことで攻められましたが、猛将の隆信をしても落とすことが出来ませんでした。
しかし鎮漣は和睦の後に隆信に謀殺をされてしまい、その後は立花氏の居城として立花宗茂が入ります。
そして宗茂が関ヶ原の合戦で改易をされたことで田中吉政が入り、田中氏が断絶をしたことで再び宗茂が立花城主として戻りました。
現在の城跡は中学校の片隅にあり、僅かな石垣が遺されているだけです。

福厳寺は立花氏の菩提寺で、立花の梅岳寺養孝院を移して改称したものです。
立花氏の墓所があり、歴代の藩主が眠っています。
墓は覆屋で風雨から守られており、あまり広くはありませんが整然とした雰囲気には圧倒をされました。

柳川藩の藩祖と呼んでいいのかどうかは微妙ですが、立花道雪の墓です。
ここでは初代に数えられており、しかしやはり立花の梅岳寺養孝院にあるそれが本墓なのでしょう。
この福厳寺は宗茂が建立をしたものですが、寺名が道雪の戒名からきていることからしてその目的が分かります。

柳川藩の初代藩主は道雪の養子で高橋紹運の長男である宗茂ですが、ここでは道雪を初代とした数え方とします。
猛将で知られる宗茂は関ヶ原の合戦で改易をされますが、その真っ直ぐな性格が愛されて西軍の敗将としては唯一の復活を遂げます。
子がなかったために跡は弟の直次の四男である忠茂が継いで3代藩主となり、宗茂は76歳で大往生しました。
写真は左が宗茂、右が忠茂です。

忠茂の四男が4代藩主の鑑虎で、5代藩主はその次男の鑑任が継ぎましたが子がないままに39歳で没したために、父の庶兄で立花帯刀家の茂虎の孫である貞俶が6代藩主となり、その次男の貞則が7代藩主、三男の鑑通が8代藩主、鑑通の五男の鑑寿が9代藩主、その父の兄で鑑通の四男である鑑一の子の鑑賢が10代藩主、その長男の鑑広が11代藩主、次男の鑑備が12代藩主を継ぎ、鑑寿の孫である鑑寛のときに幕末を迎えました。
鑑通の嫡子である鑑門、鑑一が続けて早世をしたり、鑑広が17歳で没したために弟の鑑備が身代わりとなってみたりと何度か危機はありましたが、立花氏の男系は続いています。
写真は上段左から貞俶、貞則、鑑通、鑑賢、鑑広、鑑備、鑑門、鑑一です。

そうなると鑑虎、鑑任、鑑寛の墓が見当たらないのですが、最後の藩主である鑑寛は東京で没しましたのでそちらにあるのかもしれませんが、鑑虎と鑑任には違和感があります。
なぜか説明の立て札だけはありましたので、何か理由があるのかもしれません。
また鑑を通字としていることも不思議な感じがあり、立花道雪の戸次鑑連からきているのかもしれませんが、やはり茂を通字として欲しかったとは個人的な感慨です。

関ヶ原の合戦で石田三成を捕らえた田中吉政が論功行賞で柳川に封じられましたが、その吉政の墓の上に建てられたのが真勝寺です。
つまりは本堂そのものが吉政の廟所とも言えますし、床下に藩祖の墓があるとは恐れ多いことでもあります。
田中氏は吉政の四男の忠政が2代藩主となるものの子がないままに39歳で死したため、無嗣断絶となり改易をされてしまいました。
継ぐべき一族は多くいたはずですが、これも外様大名の悲哀なのでしょう。

吉政の墓は本堂の下ですので、当たり前ですが勝手に入ることはできません。
お寺の方に声をかければ、気さくに入口の鍵を開けてくれます。
その通り道は高さが1メートルもないぐらいで屈んで進まなければなりませんので、閉所恐怖症の方にはちょっと無理な相談でしょう。

こちらがその田中吉政の墓です。
高さは30センチほどでかなり小さく、逆にそれが当時ものと思わせるのは立花道雪のそれと似たような思いです。
吉政は近江出身で、豊臣秀次の筆頭家老となりましたが秀次が失脚をした後は秀吉の直臣となり三河岡崎の城主に、そして関ヶ原の合戦では東軍について仲が良かったとも言われている三成を捕縛したことで筑後柳川32万石に大出世をするのですから皮肉としか言いようがありません。
そんな栄華がまさか2代で終わるとは思ってもいなかったでしょうが、豊臣系の大名の典型的な末路とも言えます。

そして痛恨の立花家資料館です。
立花氏の資料が展示をされており、宗茂の甲胄などもあってやや興奮気味に見て回ったのですが、悲劇はその後にやってきました。
記念スタンプを押したはいいのですが、ここで買った冊子をしまうなどしてソファーで店を開いたときに色紙と記念スタンプ用の用紙を入れたケースを置き忘れてしまったようです。
気がついたのは柳川から久留米に向かう途中の大牟田駅でスタンプを押そうとしたときで、もう目の前が真っ暗になりました。
電話をしたのですが見つからず、100キロの走行でも折れなかった心があっさりと折れた悔やんでも悔やみきれない一事でした。

そんなことが起こっているとは露知らずに向かったのが天叟寺で、高橋紹運の菩提寺です。
孫にあたる3代藩主の忠茂が建立をしたもので、紹運の墓もありました。
かなり立派な五輪塔ではあるのですが岩屋城跡で墳墓のごとき墓所を見ただけに、ちょっと落ちる感は否めません。

崇久寺は蒲池氏の菩提寺で、蒲池氏の墓所があります。
蒲池氏は筑後の名族で、戦国期には蒲池鑑盛が筑後の旗頭として大友氏に忠節を尽くしました。
その鑑盛が耳川の戦いで壮絶な討ち死にを遂げたことで大友氏の筑後支配に暗雲が漂い始めて、その零落に拍車がかかることになります。

墓所とは言いながらもどれが鑑盛の墓かも分からず、墓石もかなり風化をして辛うじて梵字ぐらいしか読み取れませんので手も足も出ません。
鑑盛は肥前を追われた龍造寺家兼や隆信を保護してその復帰の後押しをしましたが、その子の鎮漣が隆信に謀殺をされたことで隆信の暴虐さが語り継がれています。
斜陽の大友氏を支えた義将、仁将としての評価は立花道雪や高橋紹運にも肩を並べると評されており、その墓がどれかが分からないのが悲しくてなりません。

柳川の最後は三柱神社です。
10代藩主の鑑賢が創建をしたもので、立花道雪と宗茂、そして道雪の娘で宗茂の正室の千代が祭神です。
何がどうというものでもないのですが、ちょっと寄ってみましたといった感じです。

久留米の最初は有馬氏の菩提寺である梅林寺で、初代藩主の有馬豊氏の創建です。
寺名は父の則頼の戒名から名付けられました。
久留米藩の歴代藩主の墓所があり、墓フリークとしては見逃す手はありません。

やはり藩祖や初代藩主は別格なのか、覆堂に囲われた廟所となっています。
写真は左が則頼、右が豊氏、忠頼、頼旨です。
忠頼は豊氏の嫡男で2代藩主なので分からないでもないのですが、なぜに5代藩主の頼旨が同じ廟所となっているのかは分かりません。
豊氏は徳川家康の養女を正室としたことで破格の出世をしますが、家康が見込んだのですから武将としての資質は高かったのでしょう。
その婚姻は関ヶ原の合戦の直前だったため、豊臣系の大名の懐柔の意味合いもあったのかもしれません。

3代藩主は忠頼の長男の頼利ですが、その就封にはありがちな話が伝えられています。
忠頼には長く子に恵まれなかったために小出氏から豊祐を養子に迎えますが、豊祐の母は豊氏の娘ですから忠頼には甥にあたります。
しかし実子の頼利が生まれたために豊祐は廃嫡をされて松崎藩を立藩しますが、親族の騒動に連座して改易をされる不憫な一生となりました。

頼利が17歳で早世をしたために弟の頼元が4代藩主となり、その長男の頼旨が件の5代藩主ですがこれまた子が無いままに22歳で没したために則頼の女系である石野氏から則維を養子に迎えて6代藩主としたことで有馬氏の男系は途絶えてしまいました。
継ぐべき一門はいくらでもいたと思うのですが、このあたりの流れと言いますか意図はよく分かりません。
四男の頼童が7代藩主、その子の頼貴が8代藩主、頼貴の嫡孫である頼徳が9代藩主となり、その四男の頼永が10代藩主、七男の頼咸が11代藩主として幕末を迎えました。
女系でも則頼の血脈が続いていることを喜ぶべきか、何とも悩ましい感じです。
写真は上段左から頼元、則維、頼童、頼貴、頼徳、頼永で、頼咸の墓は黒田長政と同じ東京の祥雲寺にあります。
また頼童の童は正しくはぎょうにんべんが付くのですが、文字化けをして表示ができませんのでご容赦ください。

日輪寺には久留米城の乾門が移築をされましたが1989年に老朽化を理由に解体をされてしまい、現在のものは復元をされたものとなります。
かなり小ぶりの門で久留米城ではどういった役割を担っていったのかが気になりますが、そもそもが往時のままかどうかも分かりません。
このあたりの文化財に手を入れることを行政が管理をしなければ、経済的な事情なども含めてどんどんと消えていくことになるでしょう。

久留米城は有馬氏の居城で、豊氏が大改修をして近世の城郭に生まれ変わりました。
天守閣の代わりに御殿が本丸にあり、多くの櫓のあるかなりの規模を誇っていたようです。
しかし今は石垣のみが遺されており、トップの写真からしてもその偉容が容易に想像がつきます。
豊臣系の外様でありながらも徳川氏に上手く取り入った、と言ってしまうとイヤらしい表現になりますが、その結果がこの久留米城なのでしょう。
本丸跡には豊氏らを祀る篠山神社がありました。

この旅の最後は有馬氏の資料が展示をされている、有馬記念館です。
さほどの広さはありませんが、何種類ものビデオを上映するなどかなり積極的な感じがあります。
それが理由か建築物がない城にはあまり多くはない記念スタンプがあり、しかしそれを押すための色紙はありません。
これで完全に意気消沈をしてしまい、この後に草野氏の史跡を巡る予定をしていたのですが早々に切り上げてしまいました。
忘却は罪だと、そう痛感をした失態でした。


【2012年7月 福岡の旅】
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