オリオン村(跡地)

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仕上げの西九州 史跡巡り篇 島原、大村の巻

2012-10-25 01:25:46 | 日本史

 

四日目は島原半島をぐるっと回りたかったのですが島原鉄道の島原外港駅から加津佐駅の路線が2008年に廃止となってしまったため、原城跡や日野江城跡を候補に挙げながらもバスの便が今ひとつ上手く計画立てられなかったので断念せざるをえず、ここは次回の楽しみに置いておくことにしました。
その代わりと言うわけでもないのですが諫早を追加して大村と合わせてちょっと駆け足にもなりましたが、この日もまずまず天気に恵まれましたので大助かりです。
この旅での最後の日本100名城である島原城に墓フリーク炸裂で、充実をした一日となりました。

その島原城は島原駅を背にして5分も歩けば行き着きますので、島原観光の中心です。
残念ながら建物は全て明治以降に取り壊されてしまいましたので、現在の天守閣や櫓は昭和に入ってからの再建です。
こちらの巽櫓は1972年の再建で、長崎平和祈念像で有名な北村西望が今の南島原市の出身なために中は西望記念館になっていました。

時計回りに歩いて行くと、次に見えてくるのが西櫓です。
1960年の再建で、中には日本全国の城の写真などありがちな展示がされていました。
他の櫓と同じく三層三階となっており、しかし当時のままに復元をされたかどうかの説明はありませんでした。

丑寅櫓は1980年の再建で、中は民具資料館になっています。
その手のものには興味がないので軽く覗いただけで時間をかけなかったため、搦手門であった諫早門の門扉が展示をされていることに気がつかなかったのが痛手でした。
この丑寅櫓と先の巽櫓がどっちがどっちかが実は曖昧で、旅のメモにはこちらが巽櫓と書いてあったのですが、民具資料館は丑寅櫓とのことですのでそちらに従うことにしました。

そして天守閣です。
1964年に鉄筋コンクリートで再建をされたもので、見上げるぐらいの巨大さに圧倒をされました。
島原城は有馬氏が日向延岡に転封となった代わりに入った松倉重政が江戸期に入ってから築いた城で、往時は四層四階の天守閣に49もの櫓が建ち並んでおり、4万石の小大名にしては過分な城郭の築城に苦しんだ領民の不平不満も島原の乱の原因の一つとされています。
重政の子である2代藩主の勝家は、その責任を取らされて大名には珍しく斬首をされたそうです。

城内にはその島原の乱の首謀者の一人である天草四郎と、若き日の織田信長の像がありました。
天草四郎は分かるのですが織田信長と島原との関係が分からず、同じものを岐阜城で見た記憶があるのですが、どうやら両方ともに北村西望の作品のようです。
中が西望記念館の巽櫓の前にありましたので、そういうことなのでしょう。

時鐘楼は松倉氏の跡に島原藩に入った深溝松平氏の忠房が建てたもので、「おかみの鐘」として親しまれてきました。
しかし太平洋戦争の際に供出をされてしまい、今のものは1980年の再建です。
鐘の銘文模様はこれまた北村西望によるもので、余程に地元の名士として敬愛をされていたのでしょう。

本光寺はその深溝松平氏の菩提寺です。
当たり前ですが以前は三河深溝にあったものが、当主の移封とともに武蔵忍、三河吉田、そしてこの肥前島原と転地を繰り返してきました。
現在の本光寺は明治に入ってから末寺の浄林寺を合併し、この山門は初代の忠房が生母を弔うために建立をしたその浄林寺のものです。

ここには深溝松平氏の墓所があります。
深溝松平氏は十八松平氏の一つで、宗家の三代信光の七男でやはり十八松平氏の一つである五井松平氏の祖である忠景の次男の忠定が興しました。
この墓所は島原氏の砦であった丸尾城があったところで、その遺構を利用しています。

島原藩主としての深溝松平氏は初代が忠房で、長男の好房が21歳で早世、次男の忠倫が愚昧にして廃嫡をされたために、2代藩主には分家から忠雄が入ります。
その忠雄も実子の忠英が早世をしたために同じく分家から忠俔を養子にとって3代藩主とし、4代藩主は旗本から入った忠刻、5代藩主がその子の忠祇で、この忠祇のときに下野宇都宮に転封となって入れ替わりで宇都宮からの戸田氏が島原藩主となりました。
しかし忠祇の跡を継いだ弟の忠恕のときに再び戸田氏との入れ替わりで島原に復帰をして、何をやりたかったのかはよく分かりません。
写真は左が忠雄、右が忠英です。

江東寺は松倉重政の菩提寺で、しかし有名なのは涅槃像のようです。
幅は8メートル、高さは2メートルで、鉄筋コンクリート造りの涅槃像としては日本最大のものとは、例によって説明板の受け売りです。
入寂をするまで説法をした釈尊の最後の姿を表したものとのことですが、宗教には疎いのでよく分かりません。

松倉重政は筒井氏に仕えて島清興とともに「右近左近」と呼ばれた重信の嫡男で、筒井氏が大和から伊賀に転封となった際に致仕して豊臣氏の直臣となります。
その後は徳川氏に近づいて関ヶ原の戦いでの功で大和五条1万石から肥前日野江4万3千石に加封をされて、そして一国一城令に従って原城と日野江城を廃して島原城を築いたとは先に書いたとおりですが、陪臣からここまでのし上がったのですからそれなりに秀でた武将だったのでしょう。
中央の墓は1828年の再建で、右側にある上部が欠けた墓が1792年の普賢岳の噴火、群発地震により眉山が崩落をした際に流されてしまい、後に発見をされた当初のものです。

板倉重昌は京都所司代を務めた勝重の次男で、兄はやはり京都所司代の重宗です。
島原の乱に際して鎮圧の上使として赴くも官吏であり1万5千石の小身であることから各大名を統制しきれず、業を煮やした幕府が知恵伊豆こと松平信綱を派遣したことを聞くや焦って無謀な突撃を行い、銃弾に撃ち抜かれて討ち死にをしてしまいました。
やはり眉山崩落の際に江東寺が埋没をしてしまい墓が流されてしまったため、一門の依頼で一族である深溝松平氏の老臣の板倉勝彪が再建をしたのが左の大きめの墓で、そして右の小さめの墓がその後に井戸を掘った際に見つかった当初のものです。
島原の乱の遠因を作った重政と、その鎮圧の際に討ち死にをした重昌の墓が並んでいるのは皮肉と言えば皮肉です。

こちらは沖田畷古戦場跡、龍造寺隆信供養塔です。
龍造寺隆信は有馬氏を攻めるための出陣をして、沖田畷にて有馬・島津連合軍と戦って討ち死にをしました。
ここがその場所であるというわけではありませんが、地元の有志がこの付近にあった129もの祠を一箇所にまとめたものがぱっと見は墓にも見える供養塔です。
戦国の梟雄の最期の地にしては寂しさがありますが、田楽狭間の今川義元も似たようなものでしたので、あるだけでも恵まれているのかもしれません。

諫早では天祐寺で、諫早氏の菩提寺です。
ここには諫早氏の初代から18代までの墓が整然と並んでおり、これだけのために諫早に足を運びました。
諫早氏は佐賀の巻でご紹介をした系図のとおり、龍造寺隆信の又従兄弟にあたる家晴を祖としています。
鍋島氏の肥前継承を容認して龍造寺四家の一つとして、佐賀藩の家老を輩出するなど中枢に位置する存在となりました。
ちなみに龍造寺四家は家晴の諫早氏の他には、隆信の次弟である信周の須古鍋島氏、隆信の三弟である長信の多久氏、隆信の三男である家信の武雄鍋島氏となります。

初代の龍造寺家晴は鑑兼の子で、祖父の家門が隆信の祖父の家純の弟になります。
少弐氏に龍造寺氏が討伐をされた際に家門も謀殺をされましたが、鑑兼は生き延びて一時は家臣に担がれて隆信を筑後に追いやったこともあります。
そういった経緯もあったのでしょうが家晴は隆信とは微妙な距離を置いていたようで、それが隆信の死後に鍋島氏に近づいた理由の一つかもしれません。
家晴の子で2代の直孝が諫早氏を称し、これは藩主のかつての主君であった龍造寺氏を名乗ることをはばかってのことだと思います。
写真は左が家晴、右が直孝です。

3代は直孝の子の茂敬で、4代は茂敬の子の茂真、茂真の子の茂門が5代を、茂元が6代を継ぎましたが、7代には白石鍋島氏から茂晴が入ったことで家晴の男系が断たれました。
8代は茂晴の子の茂行で、茂行の子の行孝が9代、茂成が10代、茂図が11代と横滑りをした跡は、茂図の嫡孫の茂洪が12代、茂洪の子の茂喬が13代、茂孫が14代、茂孫の跡は甥で茂喬の子である武春が15代、16代の一学は茂喬、茂孫の弟で武春の叔父にあたり、17代の家崇は茂孫の子ですから一学の甥、武春の従兄弟で、このあたりはかなり複雑です。
ようやくに家崇の子の家興が18代を継いだことで直系が続きましたが、いずれにせよ龍造寺氏の血ではありませんので嗜好としては残念です。
写真は上段左から茂敬、茂真、茂門、茂元、茂晴、茂行、行孝、茂成、茂図、茂洪、茂喬、茂孫、武春、一学、家崇、家興です。

この日の最後は大村です。
まずは大村氏の居城であった玖島城跡で、大村藩の初代藩主である喜前の手によるものです。
連郭式の平山城で、しかし例によって明治維新後に建物の全てが取り壊されてしまいました。
本丸跡にはありがちな神社があり、大村氏を祀っている大村神社です。

同じく本丸跡には、12代藩主の純熈の像があります。
その洋装からも分かるとおり大村藩の最後の藩主で、しかしこれといった事績はありません。
あるいは一般的には知られていない功績があってこその像のモデルなのかもしれませんが定かではなく、特に説明板などもありませんでした。

玖島城跡の唯一の建物が板敷櫓で、1992年の再建です。
二層二階の櫓があるのも嬉しいのですが、その櫓台の石垣の扇勾配の曲線美が際立っています。
築城の際に喜前と親しかった加藤清正に指導を受けたとの話もあるようで、それであればなるほどといった感じです。

大村藩お船蔵は4代藩主の純長が造ったもので、御座船などの藩の船が格納をされた場所です。
玖島城は大村湾に突き出す形で築かれていますので、船は重要な交通手段だったのでしょう。
また五教館御成門は通称黒門と呼ばれており、藩校である五教館に藩主が訪れたときの専用門でした。
現在は大村小学校で入学式と卒業式のときに開かれて、入学生と卒業生がくぐる栄誉を受けるとの説明板でした。

そして大村氏の菩提寺である、日蓮宗の本経寺です。
ここには大村氏の墓所があり、外からもこれ見よがしに見える大きな墓が有名です。
初代藩主の喜前の父である純忠は日本最初のキリシタン大名で、しかし徳川の世になりキリスト教が禁じられたことでやはりキリシタンだった喜前は棄教して日蓮宗に改宗し、幕府からつけ込まれないよう日蓮宗に帰依していることをアピールするためのものと言われています。

ここ大村氏墓所には、大村藩の歴代藩主の墓があります。
また初代藩主の喜前の系図上の祖父である純伊の墓があり、別格なのか他の墓とは違って立派な覆屋の中にありました。
純伊は有馬氏に追われて一時は放浪をしたものの、後に反抗して領地を回復した中興の祖と言われています。
しかし子の純前のときに再び有馬氏の圧迫を受けて、純前は実子がありながらも有馬氏から純忠を養子に迎え入れます。
よって純忠からの大村氏は血脈としては有馬氏で、よって純伊と喜前に男系としての血縁関係はありません。

喜前は家を守るためか改宗の後はキリスト教徒に厳しい弾圧を加えて、その恨みを買って毒殺をされたとの逸話も残されています。
大村氏で一番にメジャーなのは天正遣欧少年使節で有名な純忠ですが、しかしその墓がどこにあるかは分かっていません。
かつての居城だった三城城に葬られたものの、キリスト教の弾圧の中で掘り起こされてどこぞに捨てられたなんて話もあるようです。
喜前にとっては父よりは家、だったのかもしれません。
写真は左が喜前、右が純伊です。

巨大さもそうですが、墓石に刻まれた「南無妙法蓮華経」の文字がかなり露骨です。
中期以降はもう大丈夫だとでも思ったのか位牌のような小さなものに変わっていきますが、それでも大ぶりな石霊屋に覆われていました。
2代藩主の純頼は喜前の長男で、以降の藩主は大村氏の通字である「純」を受け継いでいきます。
純頼の長男が3代藩主の純信ですが、子が無いままに33歳で没したために正室の兄である純長が伊丹氏から入って4代藩主となったことで有馬系大村氏もここで男系が断たれたものの、その正室が有馬氏だったことで5代藩主の純尹は辛うじて女系で続いたことになります。
しかしその跡を異母弟の純庸が6代藩主を継いだことで女系も断たれてしまい、7代藩主はその子の純富、8代藩主はその子の純保、9代藩主はその子の純鎮、10代藩主はその子の純昌、11代藩主はその子の純顕、12代藩主はその弟の純熈で幕末を迎えましたが、この順調な継承も男女系ともに有馬氏、大村氏ではないために興味が薄れました。
写真は上段左から純頼、純信、純長、純尹、純庸、純富、純保、純鎮、純昌、純顕です。

そんな墓の行方も不明な藩祖とも言うべき純忠ではありますが、その晩年に住した居館の跡が史跡公園として遺されています。
隠居をした純忠はキリシタンの信仰に明けくれる余生を過ごしていましたが、豊臣秀吉のバテレン追放令の1ヶ月前に病死をしました。
まさか秀吉も純忠の死を待って発令をしたわけでもないでしょうが、純忠にとっては表現は微妙ながらもいいタイミングでの死ではなかったかと思います。

史跡公園ではありながらも、そう言われなければただの公園です。
むしろ裏手にある石垣とおぼしきものの方が、史跡といった感じがあります。
元は重臣の屋敷で坂口館と呼ばれており、純忠はここで晩年の二年間を過ごしました。

その純忠が居城としていたのが、この自らが築いた三城城です。
しかしこれといった遺構は見当たらず、忠霊塔のようなものが建設中なのか改修中なのか、そんなものしかありませんでした。
子の喜前がほど近いところに玖島城を築いたことで僅か35年での大村氏の居城としての役目を終えて、その後に完全に破却をされて今は城跡の面影はほとんどありません。

最後は大村市立史料館です。
一階は図書館で平日の夕方ながらも新聞や雑誌を読む人で満席に近く、そして二階が展示室となっています。
さして広くはないのですがキリシタン関係の資料や大村市の史跡が紹介をされており、なかなかの充実ぶりでした。


【2012年9月 佐賀、長崎の旅】
仕上げの西九州
仕上げの西九州 旅程篇
仕上げの西九州 旅情篇
仕上げの西九州 史跡巡り篇 佐賀の巻
仕上げの西九州 史跡巡り篇 名護屋、唐津の巻
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仕上げの西九州 史跡巡り篇 五島の巻
仕上げの西九州 グルメ篇
仕上げの西九州 スイーツ篇
仕上げの西九州 おみやげ篇

 

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2 コメント

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○○ の 城 (iina)
2012-11-16 20:55:56
入り上げたかなり詳細に充ちた島原城等々です。
iinaの神奈川に近い千葉からお出かけでしたか。レンタカーを借りて、熊本を拠点にフェリーで日帰りした島原・雲仙でした。

お城をアップした今日にも奇しくも「のぼうの城」を観てきました。野村萬斎の「のぼうさま」は適任と思えました。
どんな奇策が展開されるのかと目をしっかり明けて観ましたが、萬斎の踊りは双方を楽しくさせるに十分な舞でした。

城アップにつき、明日は熊本城を3日間取り上げます。m(_ _)m
のぼうの城でなく、ぎんなん城と呼ばれるようですね。
お返事 (オリオン)
2012-11-17 00:18:32
あ、実家は神奈川です。
のぼうの城、早く観たいですが、下巻を読み終わってからですので来週末ぐらいでしょうか。
熊本城も今年の2月に行きましたので、日本史のカテゴリをチェックしていただければ幸いです。