
最終日は五島です。
前日の夜から雨が降っていたようでホテルを出たときに路面が濡れていて焦ったのですが、しかし長崎まで出てフェリー乗り場に着くまでに雨に降られることはありませんでした。
ところがフェリーが出航をしてすぐに大雨となり、海が荒れていることから徐行航行となるとのアナウンスで空を見上げれば真っ暗で、長崎には大雨洪水警報の発令です。
フェリーのダイヤの都合で五島には3時間ちょっとの滞在予定だったために航行が遅れれば大変なことになると頭を抱えたものの、幸いなことに15分ほどで雨が弱まり五島があるあたりの空は明るかったので何とかなるのではないかと気を取り直し、結果的にはかなり雲が厚かったものの無事に島巡りを終えることができました。
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福江港を出て数分も歩けば石垣や堀、そして城郭風の建物が見えてきますが、これは五島観光歴史資料館です。
五島藩の資料や民俗資料が展示をされており、例によっていろいろと話を聞かせていただきお世話になりました。
もう少し時間に余裕があればじっくりと見て回りたかったのですが、天気の心配もあり先を急いだのがちょっともったいなかったです。
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石田城とも呼ばれる福江城は五島氏の居城ですが、しかし歴史はかなり浅いです。
完成は1863年ですから幕末も幕末で、明治維新により1872年に解体が始まりましたので僅か9年の命でした。
当時の建物の遺構は蹴出門のみで、しかし野面積みの石垣はきれいに遺されています。
内側からもっとぐるっと回りたかったのですが城跡には五島高校があるため、残念ながら外から眺めるしかできませんでした。
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同じく城跡には福江藩の10代藩主である五島盛成が造った五島氏庭園があり、国の名勝に指定をされています。
入園料は500円もしますしその手のもにはさして興味がないために寄るつもりもなかったのですが、しかし休園であることを知ると不思議と悔しくもなります。
城郭内にこういった日本庭園があるのは珍しいらしく、それが名勝に指定をされた理由との説明板でした。
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城跡から10分ほどのところには武家屋敷が建ち並んでいますが、実際にはそのほとんどが門のみです。
敷地内は荒れ放題だったりアパートが建っていたりと武家屋敷通りといった趣きは感じられず、むしろ悲しげですらありました。
レンタサイクルがこの近くの史料館らしきところでの貸し出しだったために寄ったのですが、あまり見たくはない現実です。
その武家屋敷の石垣塀の上に、あまり見たことのない石積みがありました。
これは「こぼれ石」と呼ばれるもので、全国的にも類を見ないものだと評価をされているそうです。
塀を乗り越えようとした際に石がこぼれて音が鳴ることで外部からの侵入を知らせたり、いざというときには武器にもなるためにこういった石垣塀になったそうなのですが、しかし今はガッチリと固められていてこぼれることはないでしょうし、武器として使えば塀の高さが低くなって侵入を許しやすくなるのではないかと、そんなことを思ったりもしました。
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大円寺は五島氏の菩提寺で、五島氏の墓所があります。
五島氏は元は宇久氏であり、その17代の盛定が開基となります。
しかし説明板に「荒廃のままに」と書かれているようにまさに荒廃状態で、お寺の方も好きに見てくださいと突き放したような感じでした。
ここには16代の宇久囲から25代の五島盛暢までの墓があるはずなのですが、戒名などから特定ができたのは僅かに四基です。
五島盛利は22代で、福江藩の2代藩主です。
17代の盛定の曾孫にあたり、父は宇久盛長で、その父の従兄弟にあたる初代藩主の玄雅の養子となりました。
この盛利のときに居城だった江川城が焼失をしてしまい、幕末に福江城を築くまでは石田陣屋で藩政を執り行っていたとのことです。
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盛利の長男が3代藩主の盛次で、しかし病弱であったことから38歳で早世をします。
盛次の長男の盛勝が4代藩主、盛勝の長男の盛暢が5代藩主と直系が続いたものの、これまた34歳、30歳での若死にです。
そのため若年での襲封が続いたために一族の有力者が後見をすることとなり、1万5千石だった福江藩は盛勝の叔父である盛清に3千石を分知したために1万2千石となりました。
写真は左から盛次、盛勝、盛暢です。
五島氏の墓所は、大円寺の前を流れる川を挟んだ反対側にもう一箇所あります。
こちらには26代の盛佳から34代の盛輝までの墓があります。
大円寺の境内にあるそれと比べればまだ整備がされており、その違いの理由はよく分かりません。
説明板にはどの墓が誰のものかの案内までされている丁寧ぶりで、しかし微妙に間違っていたと言いますか右左の解釈が難しい案内ではありました。
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6代藩主は盛暢の長男の盛佳で、久しぶりに48歳と長命とは言わずともまずまずの寿命を保ちました。
その盛佳の長男の盛道が7代藩主で、これは正真正銘の長命で70歳と長生きをしたことでやや風向きが変わってきます。
盛道の次男の盛運が8代藩主で57歳、盛運の次男の盛繁が9代藩主で75歳、盛繁の長男の盛成が10代藩主で75歳と、藩政初期の苦労が嘘のようです。
しかし盛成の長男の盛徳が11代藩主となるも病弱で、明治維新後に36歳で病没をしました。
写真は上段左から盛佳、盛道、盛運、盛繁、盛成、盛徳ですが、そのうち盛道の写真の三基のうち右端が盛道で、左端は33代の盛光、中央は34代の盛輝です。
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五島の最後は常灯鼻です。
福江城を築く際の防波堤と灯台の役割のために築かれたもので、築城にあたった石工集団の手によるものです。
150年以上も経った今でも波風に耐えて往時の姿を遺しており、それだけ石工の技術が秀でていたということなのでしょう。
【2012年9月 佐賀、長崎の旅】
仕上げの西九州
仕上げの西九州 旅程篇
仕上げの西九州 旅情篇
仕上げの西九州 史跡巡り篇 佐賀の巻
仕上げの西九州 史跡巡り篇 名護屋、唐津の巻
仕上げの西九州 史跡巡り篇 平戸の巻
仕上げの西九州 史跡巡り篇 島原、大村の巻
仕上げの西九州 グルメ篇
仕上げの西九州 スイーツ篇
仕上げの西九州 おみやげ篇
石田城や武家屋敷通り、常夜鼻などは小学の時の学習遠足で行きました。当時は石田城内の件の庭園も見ることができました。”心”という字をかたどっていると教えられた名勝の池ですが、当時はどこがどうなって”心”なのか全然判らなかった覚えがあります。城の近くには倭寇の史跡だったり、古い天井絵が残る明星院もあったのですが残念ながら今回は触れる機会がなかったようですね。
ところで石田城ですが、これは「黒船から守るために作られた」と説明を受けた覚えがあります。この城が海防としての効果が本当にあったのかはいまだに疑問ですが。
また、城内の本丸に建つ五島高校の生徒役で沢口靖子は映画デビューしました。武田鉄也の刑事物語だったと思います。エンディングは私の町の近くにある高浜というきれいな砂浜でした。
きれいな写真で昔のことをいろいろ思い出しました。懐かしいですね。ありがとうございました。
何をどう間違えたのか五島氏の菩提寺を明星院だと勘違いをして旅程に書き込んでしまい、お寺の方に「それは大円寺です」と失礼なことをしてしまいました・・・
そういった天井絵があることを知っていたら、見せていただいたのにとは後の祭りです。
それなりに離れたところまで行ったのですが、こんなこともあります。
沢口靖子のエピソードみたいな案内には巡り会いませんでした。
さすがに年数が経ちすぎですかね(笑)
ちなみに武家屋敷通りで借りたレンタサイクルは鍵も付いていないのどかなもので、しかも平成10年の五島高校のスタンプが貼ってありました。
旅情篇で紹介をしようかとも思ったのですが、誰の自転車かが分かる人には分かってしまうかなと思ってやめた次第です。
五島って自転車に鍵をかけなくても持っていかれない・・・のでしょうね、きっと。
借りる方からすれば盗まれたらどうしよう、とビクビクものでした。
ちょっとだけ町な福江はともかく、私の生まれ故郷の町では犯罪みたいなものはほとんどありませんでしたね。なので家に鍵をかけたこともありませんでした。もちろん町には駐在さんもいたんですが、もっぱら小学生に剣道を教える先生役でした。小学のころには駐在さんが来て横断歩道のわたり方など交通安全の授業もあったのですが、そのルールを守るにも町には信号機はなかったし・・・ ただ、小学生が自転車に乗るには免許が必要でして、駐在さん立会いの下に8の字や一本橋、手信号などの実技試験がありました。合格したら証紙と小さなベニヤ板のナンバープレートをもらえまして、自転車にそのナンバーをつけるのがステータスでした。最近の無灯火走行や乱暴な自転車乗りを見るにつけ免許制にしやがれ、と思う次第です。
エコブーム、ブームなんて言ってはまずいのでしょうが、今ひとつ街中でも電気自動車を見かけることがありません。
やはり走行距離と充電時間の問題がもう少し改善をされなければ、なかなかに普及に拍車がかかるといったところまではいかないのでしょう。
それにしても自宅に鍵をかけずですか、それもまた凄い。
まあ昔はきっとそんな生活が普通だったのでしょうが、今はちょっと考えられない世界です。
鍵をかけていても泥棒は入ってくるのに・・・
駐在さんという響きもなんかいいですね、ちょっと羨ましくなります。
そんな時代があったとは思えない現実が眼前に・・・
コンビニの傘立てに傘も立てられませんからね、困ったものです。
でも平戸で自転車のサドルの上にカーナビを置いたまま松浦歴史資料館に行って、抹茶を飲んだりして一時間ほど過ごしたのですが、盗られることなく無事でした。
船橋でそんなことをやったら、きっと無くなっていたでしょう。
まだまだ捨てたものじゃない・・・かしら。
このたびはご参加いただきありがとうございました。
皆様が泣いて喜ぶ 素敵な記事&写真で今後とも末永いご愛顧をよろしくお願いいたします。
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「日本史同好会」管理人:住兵衛
よろしくお願いします。
本題は高濱ではなく(笑)、大円寺の五島家墓所です。こちらの記事を読んでいたので恐らく墓それぞれの特定は難しいだろうと資料館から事前に墓所の配置図を送っていただいていたので五島純玄の墓は特定できましたが、五島玄雅の墓は墓所が草茫々の山城状態で全体像が全く見えず配置図と照らし合わせて「これだろう」と撮影してきたものは違ったという大失態。実は玄雅の墓が最大の撮影目的だったので中途半端な訪問となってしまいました。
あと同じ福江の清浄寺(武家屋敷から5分ほどの場所)にも宇久氏の墓が累代墓になってはいますが、五輪塔が一基あります。
以上、長文で失礼いたしました。また史跡巡りの参考にさせていただきます^^
大抵はお寺の方に教えていただくのですが、大円寺では記事のとおり管理もきちんとされていないようで・・・
純玄を特定できたとのこと、羨ましいです。
きっともう五島に行くこともないんだろうなぁ。
この夏に行った山口では大内氏の当主の墓を満足できる探索でしたので、もし興味があれば、年内に記事にできるかどうかは微妙かもしれませんが。