電脳筆写『 心超臨界 』

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( ブリガム・ヤング )

日本史 鎌倉編 《 なぜ、倭寇は植民地を作らなかったか――渡部昇一 》

2024-06-19 | 04-歴史・文化・社会
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こうした倭寇の活躍にも拘わらず、ヴァイキングと決定的に異なるところがある。それは侵略した国に植民地を作ったり、自分たちの王国を作らなかったことである。財宝・人間を奪って帰国するのである。これは戦前の日本の移民の特徴としても指摘されたことであった。つまり外地で成功すれば帰ってくるのが常であった。


『日本史から見た日本人 鎌倉編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p212 )
3章 室町幕府――日本的美意識の成立
――政治的天才・義満(よしみつ)と政治的孤立者・義政(よしまさ)
  の遺(のこ)したもの
(2) 倭寇(わこう)――海外進出の基本的“行動様式”

◆なぜ、倭寇は植民地を作らなかったか

李朝になっても倭寇は止(や)まなかった。

それで応永(おうえい)26年(1419)、朝鮮軍は倭寇の策源地(根拠地)と考えられていた対馬に攻撃をしかけてきた。このときの九州探題(たんだい)(九州統制のための職)は渋川義俊(しぶかわよしとし)であったが、宗貞茂(そうさだしげ)と協力してこれを撃退した。これが「応永の外寇(がいこう)」である。

この後、朝鮮は倭寇と武力で争っても無駄であることを悟ったらしく、むしろ話し合いで貿易の利益を倭寇に与えようとしたようである。そして倭寇の船に朝鮮王から認可状みたいなものを出し、時期を決めてくるようにして、それぞれに応じて物資をあたえたのである。これによってある程度の平和が現出したようである。

このこともまた、ヴァイキングと武力抗争することを断念したアングロ・サクソン王がヴァイキングに納める一種の税金デインゲルトをはじめたのと似ている。

「応永の外寇」の4年後に、朝鮮王が幕府に、銭数万貫と『大蔵経(だいぞうきょう)』を贈与しているのは、やはり倭寇との関係での、賄賂の一種と考えてよいであろう。

朝鮮との関係が一応収まると、倭寇はそのエネルギーの多くをシナ大陸に向けはじめる。

当時は、明の太祖がすぐれた帝国を建設し、周囲の国々を併合したときであるのに、倭寇にだけは、甚だしく手を焼いた。

明の太祖の遺訓の中にも、「日本は海の彼方(かなた)のすみっこにある小国であって、これを征服しても何も得るものはなく、またその人民を使役することもできない。だから日本討伐の遠征を起こしてはならず、遠ざけるがよい」という趣旨のことを言っている。

明の太祖にしてみれば、元寇の失敗を知り、倭寇の手ごわさを知って、子孫には日本と事を構えても、ろくなことはないと誡(いまし)めたのである。

当時の明人から見た倭寇の特徴は、身軽なことであった。重い鎧を着ていないのだから、防御の弱さを速さで補ったのであろう。伏兵が上手で、明軍の後ろにまわって挟み撃ちし、毎度、少数の軍で大軍を破った。まだ戦闘がはじまらないうちは、三々五々に分散しているが、一人が扇を開いて合図すると、いたるところから伏兵が出てきて統制ある行動に移る。これを蝴蝶(こちょう)軍という、と書いてある。

これと戦って、明の地方長官の何人かは戦死し、莫大な財宝が奪われ、多数の人間が殺され、また掠奪された。「倭寇が来る」と言えば、明では子どもも泣くのを止めた、という。

このため山東省を防ぐためには安東(あんとう)、霊山(れいざん)、鰲山(ごうざん)、成山(せいざん)、咸海(かんかい)、寧海(ねいかい)、大嵩(たいこう)の七要塞都市を作り、福建省を防ぐために1万6000人を動員して16の城を築き、浙江省沿岸には5万8000人以上を動員して69の城を築いた。上海なども、元来は小さい漁村にすぎないのだが、倭寇が揚子江をさかのぼって、南京その他の重要都市を掠奪するので、それを抑えるために城を築いたのが、そもそもの都市化のはじまりなのである。

この海防のための城塞群は、北の万里の長城に匹敵すると言われたほどの規模のものであるが、そのために明の国力は、甚だしく蕩尽(とうじん)(使い果たすこと)されたのであった。学者の中には明の滅亡は北の満州族と南の倭寇によるものであると言う人もいる。

しかし、このような防御にも拘わらず、揚子江を遠くさかのぼって南京に到り、4000人以上を殺傷して、一人の死者もなく引き揚げたと言われる倭寇の一隊もあった。

こうした倭寇の活躍にも拘わらず、ヴァイキングと決定的に異なるところがある。それは侵略した国に植民地を作ったり、自分たちの王国を作らなかったことである。財宝・人間を奪って帰国するのである。これは戦前の日本の移民の特徴としても指摘されたことであった。つまり外地で成功すれば帰ってくるのが常であった。

これは、おそらく日本人にとっては、この日本列島がいかに住みよい国であるかの証明となるものである。これはまた、今日の日本に問題がほとんどないことにも関係があるであろう。
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