電脳筆写『 心超臨界 』

人間は環境の産物ではない
環境が人間の産物なのである
( ベンジャミン・ディズレーリ )

日本史 鎌倉編 《 世阿弥に見る早期教育の是非——渡部昇一 》

2024-06-20 | 04-歴史・文化・社会
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幼児は本来、プライヴェイトに、家庭で育てられるのが常識なのであろう。6歳ごろまでは、特に緊張感を持つことなく、母や祖母を相手に、昔話を聞いたり、自分の家や庭先で一人遊びをしたりすることを中心にし、時に近所の遊び仲間と一緒になるぐらいのところがよいのかもしれない。遊び仲間と遊ぶのに飽きたり、喧嘩(けんか)をしたりしたら、いつでもさっさと母なり祖母の膝(ひざ)もとにもどれるという状態が好ましいのである。


『日本史から見た日本人 鎌倉編』( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p216 )
3章 室町幕府――日本的美意識の成立
――政治的天才・義満(よしみつ)と政治的孤立者・義政(よしまさ)
  の遺(のこ)したもの
(3) 『風姿花伝(ふうしかでん)』――世界に冠たる教育論の誕生

◆世阿弥(ぜあみ)に見る早期教育の是非

世阿弥の『風姿花伝』の一部を最初に読んだのは高等学校の国語の時間であった。その後、時々その本のことを思い出しながらも、読み返すことなく20年以上経ってしまった。

ところが最近、新潮社日本古典集成の一巻として、田中裕(たなかひろし)氏の校注で『世阿弥芸術論集』が出たので買ってみたところ、ひじょうに読みやすく出来ているので、ついつい全部読むことになってしまった。この論集の中には、能の細かいことに触れているのもあるが、「風姿花伝第一」の「年来稽古条々(ねんらいけいこのじょうじょう)」は、すぐれた学問論にもなっているので、いまさらながら驚いた次第(しだい)である。学問論あるいは教育論として見れば、本居宣長(もとおりののりなが)の『うひ山ぶみ』と並び立つものではないかとも思われてならない。

世阿弥の取り扱っているテーマは、もちろん能のことである。しかし能の大成者である彼の発言は、一芸に達したものは万般に通ずるものであることを、いまさらながら実感させる。そして修業の方法が今で言うライフ・サイクルになっているのだ。

まず能の場合の稽古は、たいてい7歳ごろからはじめると言っているが、当時の年齢の数え方は「数(かぞ)え」であろうから、今の6歳である。今の小学校も6歳からはじまるが、昔の人の観察も近代教育者の結論も同じであるのは面白い。

「小学校の前には幼稚園があるではないか」という意見もあるが、幼稚園教育のプラス・マイナスについては、専門家でも意見の分かれるところである。だから「幼稚園を義務化に」という声が強いにも拘(かか)わらず、政府が踏み切れない一つの理由はそこにあるのだと思う。

うちにも三人の子どもがいて、二人は1年保育の幼稚園に通(かよ)い、一人は3年保育の幼稚園に通った。それぞれの子どもの個性があるのだから、あまり一般的な判断は下(くだ)せないのだろうが、幼稚園に3年通った子がほかの二人とは目だって違うのである。どう違うかと言えば、楽天的で、物事を深刻に考えずに、叱(しか)られてもすぐ機嫌をなおす、という点などはよいのだが、一人で考えて何かをやりぬく、という根気に比較的とぼしい。つまり気が散りやすいのである。

幼稚園そのものは雰囲気(ふんいき)もよく、先生方も親切で、本人も大いに喜んで通っていたのであるから、私としてはむしろ感謝しているのだが、親の教育の仕方としては失敗だったと思っている。さらに言えば、1年保育ですらも、子どもによってはプラスのほうが少ないことがあるかもしれないと思う。

幼児は本来、プライヴェイトに、家庭で育てられるのが常識なのであろう。6歳ごろまでは、特に緊張感を持つことなく、母や祖母を相手に、昔話を聞いたり、自分の家や庭先で一人遊びをしたりすることを中心にし、時に近所の遊び仲間と一緒になるぐらいのところがよいのかもしれない。遊び仲間と遊ぶのに飽きたり、喧嘩(けんか)をしたりしたら、いつでもさっさと母なり祖母の膝(ひざ)もとにもどれるという状態が好ましいのである。

あとになってからきいたことだが、ピアノやヴァイオリンで順調に伸びていた子どもも、幼稚園に行くと気が散って、駄目(だめ)になるケースが多いそうである。

今では学校という集団生活に入る準備として1年保育ぐらいを適当とする意見が多いようであるが、集団生活の適応が、個性の伸びるのを抑える方向に向かうことにならなければ幸いである。
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