電脳筆写『 心超臨界 』

一般に外交では紛争は解決しない
戦争が終るのは平和のプロセスとしてではなく
一方が降伏するからである
D・パイプス

日本史 鎌倉編 《 四代将軍義持は、なぜ武家の原理に戻ったか――渡部昇一 》

2024-09-09 | 04-歴史・文化・社会
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真相は当時の倭寇(わこう)の朝鮮沿岸に対する略奪の激しさに閉口した朝鮮の太宗(たいそう)が、この海賊を一掃するため、その根拠地と思われていた対馬を攻撃したことなのであって、元寇のときのように日本を征服しようなどという意図はまったくなかった。しかし、そんなことは九州の武士にも足利将軍にもわからないから、元寇の再来と思ったのである。古来、外国からの攻撃ほど国家意識を昂揚させるものはない。元来が父のやり方に反対だった義持は、父の対明追従(ついしょう)外交を憎んだ。


『日本史から見た日本人 鎌倉編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p237 )
3章 室町幕府――日本的美意識の成立
――政治的天才・義満(よしみつ)と政治的孤立者・義政(よしまさ)
  の遺(のこ)したもの
(4) “美”のクリエイター・足利義政(よしまさ)の天才

◆四代将軍義持(よしもち)は、なぜ武家の原理に戻ったか

しかし、この戦いは足利幕府を震撼せしめた。北条時宗のときに、元の大軍が襲来したのと同じように受け取られたらしいのである。つまり幕府は、文永(ぶんえい)・弘安(こうあん)の両役のときと同じように国難が来たと思ったのだった。義持も岩清水八幡宮に参籠(さんろう)して無事を祈ったが、そのとき、風もないのに八幡若宮の鳥居が倒れ義持を仰天させたという。

しかし、これは誤解から起こったことなのである。前にも述べたように、真相は当時の倭寇(わこう)の朝鮮沿岸に対する略奪の激しさに閉口した朝鮮の太宗(たいそう)が、この海賊を一掃するため、その根拠地と思われていた対馬を攻撃したことなのであって、元寇のときのように日本を征服しようなどという意図はまったくなかった。

しかし、そんなことは九州の武士にも足利将軍にもわからないから、元寇の再来と思ったのである。古来、外国からの攻撃ほど国家意識を昂揚させるものはない。元来が父のやり方に反対だった義持は、父の対明追従(ついしょう)外交を憎んだ。

明のほうではこんなことは知らなかったであろう。対馬に対する朝鮮軍の出撃は、明と相談したうえのものでなかったのだから。だから「応永の外寇」から2、3週間しか経たないときに明から呂淵(りょえん)が使いとして国交を求めてやって来たりしたのである。

そのとき、幕府は「ひとつの国に攻撃をしかけながら何をいまさら白々しくもずうずうしい」と思ったらしい。それで呂淵に僧西堂を遣(つか)わして、明とは国交を断念する旨を伝えさせ、同趣旨の国書を与えて帰国せしめた。

このときの義持の国書の一部は、次のようなものである。

「明国の使臣が両国往来の利をしきりに説いているのに、義持がこれを受けないのは、先君義満が病に斃(たお)れた時卜(うらな)わせたところ、諸神の祟(たた)りであることが明らかになったからだ。わが国は古来外国に向かって臣と称したことはないのに、義満は暦と印を受けた。わが誤(あやま)ちを認めた義満は、その死に臨んで永く外国との通交を絶つことを誓った。自分は神明の意にしたがい、先君の命を奉ずるのみである。昔元(げん)兵100万攻め寄せてきたが、神兵の援(たす)けによりこれを海の藻屑とした。今わが態度を怒り、攻め寄せるなら、迎え打って戦わん」(二木謙一(ふたきけんいち)「第四代足利義持」秋田書店刊『足利将軍列伝』140ページに所収)

この国書が書かれた応永26年(1419)は、明の成祖永楽(せいそえいらく)帝の17年に当たるが、これをもらった明帝は、何のことやらよくわからなかったのではないだろうか。

ここにも情報ギャップから起こった悲劇があるわけだが、第二の元寇の当事者になったと思いこんでいた義持にしてみれば、つきつめた気持ちであったのであろう。

彼はよく神社に参詣している。源氏の氏神である岩清水八幡宮には一生の間に約30回も参詣しているし、伊勢神宮にもほとんど毎年のように参宮している。

これは義満のときのような南朝対策の一環として行なったのではなく、むしろ敬虔な日本人として行なったようである。進歩的にして国際的な父に対して、保守的にして国粋的な息子といえるであろう。
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