電脳筆写『 心超臨界 』

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知ることは何の価値もない
( アナトール・フランセ )

読む年表 明治~戦後 《 露・仏・独の三国干渉——渡部昇一 》

2024-06-30 | 04-歴史・文化・社会
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やむをえず日本が遼東半島を清に返還すると、ドイツは明治30年にさっそく膠州湾(こうしゅうわん)を占領し、翌年、青島(チンタオ)とともに租借(そしゃく=実質的な割譲)した。三国干渉には参加していなかったイギリスも威海衛(いかいえい)と九龍(クーロン)を租借し、そしてロシアは何と日本から返還させた遼東半島の旅順(りょじゅん)、大連(だいれん)を租借した。さらにその翌年、フランスが広州湾(こうしゅうわん)を租借することになったのである。「東洋平和」と言ったその舌の根も乾かぬうちに、フランス、ドイツ、イギリスはシナから植民地をむしり取った。


◆露・仏・独の三国干渉

『読む年表 日本の歴史』
( 渡部昇一、ワック (2015/1/22)、p198 )

1895(明治28年)
露・仏・独の三国干渉
西欧によるシナの“生体解剖”が始まり、満洲はロシアの一部となった

日清戦争の講和条件として、日本は朝鮮を完全な独立国として世界に認めさせ、また遼東半島と台湾を清国から割譲されることになった。

朝鮮半島に「大韓帝国」が生まれ、シナから独立したことは朝鮮にとっても日本にとっても慶賀すべきことであったが、清国が退いたと思ったら、今度はロシアが露骨な干渉をはじめた。ロシアの野心はアジア大陸南下にあり、その目標を満洲や朝鮮に定めている。日本が遼東半島を領有するというのは、ロシアにとっては認めがたいことであった。「そこは自分のものだ」というわけである。また清国も、日本との条約を無効にするためなら、ヨーロッパの国にはいかなる報酬を与えてもよいと言い出した。そこで、帝国主義に固まっていたドイツとフランスが「東洋平和」を名目に、ロシアと呼応して遼東半島を清国に返還せよと要求した。日清講和条約の正式調印から1週間もたっていなかった。これがいわゆる三国干渉である。

日本に選択肢はなかった。要求を拒否すれば、この三カ国と一戦を交えることになる。すでにロシアは東洋艦隊を南下させ、日本に圧力をかけていた。むろん、日本には勝ち目がない。

やむをえず日本が遼東半島を清に返還すると、ドイツは明治30年にさっそく膠州湾(こうしゅうわん)を占領し、翌年、青島(チンタオ)とともに租借(そしゃく=実質的な割譲)した。三国干渉には参加していなかったイギリスも威海衛(いかいえい)と九龍(クーロン)を租借し、そしてロシアは何と日本から返還させた遼東半島の旅順(りょじゅん)、大連(だいれん)を租借した。さらにその翌年、フランスが広州湾(こうしゅうわん)を租借することになったのである。「東洋平和」と言ったその舌の根も乾かぬうちに、フランス、ドイツ、イギリスはシナから植民地をむしり取った。そして、実質上、満洲はすべてロシアの領土になってしまった。清朝最後の皇帝溥儀(ふぎ=後の満州国皇帝)の家庭教師であったレジナルド・ジョンストンも、名著『紫禁城の黄昏』の中で「もうそれは、(ロシアの領土であるトルキスタン、キルギスタンのように)満洲スタンと言ってもいい状況であった」と書いている。

かくして三国干渉を契機にシナの“生体解剖”が始まった。やくざにものを頼んだのと同じく、シナは列強から「落とし前」をつけさせられたのだ。

この三国干渉は日本国民を激怒させ、国中が騒然とした。これをなだめるため、明治天皇は「遼東還附(かんぷ)の勅語(ちょくご)」を下して国民を諫められ、それによって日本国民は「ならぬ堪忍するが堪忍」と思い定めて静まったのであった。

詔勅(しょうちょく)は「百僚臣庶(ヒャクリョウシンショ)、其レ能(ヨ)ク朕(チン)カ意(イ)ヲ体(タイ)シ、深ク時勢(ジセイ)ノ大局(タイキョク)ヲ視(ミ)、微(ビ)ヲ慎(ツツシ)ミ漸(ゼン)ヲ戒(イマシ)メ、邦家(ホウカ)ノ大計(タイケイ)ヲ誤(アヤマ)ルコト勿(ナ)キヲ期(キ)セヨ」と結んでいる。今次大戦の終戦の詔勅に「堪(タ)エ難(ガタ)キヲ堪(タ)ヘ忍(シノ)ビ難(ガタ)キヲ忍(シノ)ビ」とあったのと通ずるものがあると言えるだろう。
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