20年に及ぶブログ活動の集大成 → <a href=https://blog.goo.ne.jp/chorinkai/e/3d8eb22fad45ce7b19d6a60e8a70b7e7" target="_blank">★仏様の指
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『選択的夫婦別姓は戸籍廃止を策した反日勢力の亡国法案です』【「水間条項」国益最前線ブログ】
■超拡散記事『上限の無い特定技能外国人(移民)に認めるバス運転手・鉄道運転手に貴方の命を預けられますか!』
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尊氏が九州から攻め上って以来というもの、一時の間、北畠顕家(あきいえ)が有利だっただけで、12年間というもの、南朝側は負けっぱなしであるし、この間にその中心である後醍醐帝は没し、南軍の名のある名将もほとんど戦死している。いわば勝負があったように見える。学習参考書もこの辺で終わっているのが常である。ところが、これからまったく奇妙なことが起きるのである。
『日本史から見た日本人 鎌倉編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p149 )
2章 南北朝――正統とは何か=日本的「中華思想」によって起きた国家統合の戦争
(4) 正統論からの脱却――楠木正儀(まさのり)の現実主義
◆なぜ、優勢な尊氏が南朝に降伏したのか
足利尊氏が九州から攻め上り、楠木正成が戦死し、その後、新田義貞が戦死したあとの話は、普通の日本史の本にはあまり書いてない。もちろん、この時代を詳しく扱った本や専門書には書いてあるが、それは多くの人が読む種類のものではない。
最近の大学入試用の日本史の参考書は詳細を極めているものもあるが、南朝と北朝が再び合併するまでのプロセスは、ほとんど省略されているのが常である。
実際、フォロー・アップしにくいのであるが、そこを我慢して見ていくと、実に驚くべきことがいくつか目に着く。
延元元年(1336)、楠木正成戦死、名和長年(なわながとし)戦死。
延元2年(1337)、金崎城落城。尊良(たかなが)親王、新田義顕自害。
延元3年(1338)、北畠顕家(あきいえ)戦死、新田義貞戦死。
延元4年(1339)、後醍醐天皇、吉野に没す。
正平3年(1348)、楠木正行(まさつら)戦死。吉野の宮廷焼かれる。
このように年代を追っていくと、「南風競(キソ)ワズ」で、もう南朝側は駄目になったかのような印象を受ける。実に尊氏が九州から攻め上って以来というもの、一時の間、北畠顕家(あきいえ)が有利だっただけで、12年間というもの、南朝側は負けっぱなしであるし、この間にその中心である後醍醐帝は没し、南軍の名のある名将もほとんど戦死している。いわば勝負があったように見える。学習参考書もこの辺で終わっているのが常である。
ところが、これからまったく奇妙なことが起きるのである。
まず第一に楠木正行(まさつら)が戦死して、南軍のほうがいよいよ最後と思われたときに、尊氏の弟で、最も機略に富み、その住居の地名から三条殿(さんじょうどの)と言われた例の足利直義(ただよし)が南朝に降伏するという椿事(ちんじ)が起きるのだ。これは直義と高師直の勢力争いということによるものだが、とにかく、これで一挙に南軍が有利になったのである。そして高師直一族は完全に亡んだ。
その後、対立は尊氏と直義の兄弟間のものとなった。すると、さらに珍妙なことが起こったのである。
何と今度は尊氏が南朝に降参してきたのだ。何のことはない、北朝を建てた足利兄弟が、軍事上、政治上の理由から南朝に降伏しようと競争しているように見えるのだから、まことにおかしい。
そして北朝の存在は否定され、北朝第三代の崇光(すこう)天皇と皇太子直仁(なおひと)親王は廃止され、この二人に加えて光厳院(こうごんいん)(北朝第一代)、光明(こうみょう)院(北朝第二代)の4人は、天下安全のためという理由で、京都から八幡(やわた)(京都府八幡市)に移されてしまった。
もちろん、尊氏が降伏したのは弟の直義を討つ都合のためであり、そのことが片付けば、再び敵対関係になることは両者とも覚悟していたし、また実際にそうなった。
しかし、ともかく南朝が一時的にせよ、京都を再び支配したことは確かである。この計略は、『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』の著者の北畠親房(ちかふさ)(南朝方)によるところが多いと言われる。史論を書いたインテリが、最高の政治家であった、という注目すべき例であろう。
京都は結局、再び足利方、つまり北朝方の手にもどるが、このように南朝軍が一時的にせよ、京都を占領するということは、その後、3回もあった。南朝軍による最後の京都占領は、尊氏の死後3年目のことであるから、彼は事態にケリをつけないで死んだことになる。
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尊氏が九州から攻め上って以来というもの、一時の間、北畠顕家(あきいえ)が有利だっただけで、12年間というもの、南朝側は負けっぱなしであるし、この間にその中心である後醍醐帝は没し、南軍の名のある名将もほとんど戦死している。いわば勝負があったように見える。学習参考書もこの辺で終わっているのが常である。ところが、これからまったく奇妙なことが起きるのである。
『日本史から見た日本人 鎌倉編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p149 )
2章 南北朝――正統とは何か=日本的「中華思想」によって起きた国家統合の戦争
(4) 正統論からの脱却――楠木正儀(まさのり)の現実主義
◆なぜ、優勢な尊氏が南朝に降伏したのか
足利尊氏が九州から攻め上り、楠木正成が戦死し、その後、新田義貞が戦死したあとの話は、普通の日本史の本にはあまり書いてない。もちろん、この時代を詳しく扱った本や専門書には書いてあるが、それは多くの人が読む種類のものではない。
最近の大学入試用の日本史の参考書は詳細を極めているものもあるが、南朝と北朝が再び合併するまでのプロセスは、ほとんど省略されているのが常である。
実際、フォロー・アップしにくいのであるが、そこを我慢して見ていくと、実に驚くべきことがいくつか目に着く。
延元元年(1336)、楠木正成戦死、名和長年(なわながとし)戦死。
延元2年(1337)、金崎城落城。尊良(たかなが)親王、新田義顕自害。
延元3年(1338)、北畠顕家(あきいえ)戦死、新田義貞戦死。
延元4年(1339)、後醍醐天皇、吉野に没す。
正平3年(1348)、楠木正行(まさつら)戦死。吉野の宮廷焼かれる。
このように年代を追っていくと、「南風競(キソ)ワズ」で、もう南朝側は駄目になったかのような印象を受ける。実に尊氏が九州から攻め上って以来というもの、一時の間、北畠顕家(あきいえ)が有利だっただけで、12年間というもの、南朝側は負けっぱなしであるし、この間にその中心である後醍醐帝は没し、南軍の名のある名将もほとんど戦死している。いわば勝負があったように見える。学習参考書もこの辺で終わっているのが常である。
ところが、これからまったく奇妙なことが起きるのである。
まず第一に楠木正行(まさつら)が戦死して、南軍のほうがいよいよ最後と思われたときに、尊氏の弟で、最も機略に富み、その住居の地名から三条殿(さんじょうどの)と言われた例の足利直義(ただよし)が南朝に降伏するという椿事(ちんじ)が起きるのだ。これは直義と高師直の勢力争いということによるものだが、とにかく、これで一挙に南軍が有利になったのである。そして高師直一族は完全に亡んだ。
その後、対立は尊氏と直義の兄弟間のものとなった。すると、さらに珍妙なことが起こったのである。
何と今度は尊氏が南朝に降参してきたのだ。何のことはない、北朝を建てた足利兄弟が、軍事上、政治上の理由から南朝に降伏しようと競争しているように見えるのだから、まことにおかしい。
そして北朝の存在は否定され、北朝第三代の崇光(すこう)天皇と皇太子直仁(なおひと)親王は廃止され、この二人に加えて光厳院(こうごんいん)(北朝第一代)、光明(こうみょう)院(北朝第二代)の4人は、天下安全のためという理由で、京都から八幡(やわた)(京都府八幡市)に移されてしまった。
もちろん、尊氏が降伏したのは弟の直義を討つ都合のためであり、そのことが片付けば、再び敵対関係になることは両者とも覚悟していたし、また実際にそうなった。
しかし、ともかく南朝が一時的にせよ、京都を再び支配したことは確かである。この計略は、『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』の著者の北畠親房(ちかふさ)(南朝方)によるところが多いと言われる。史論を書いたインテリが、最高の政治家であった、という注目すべき例であろう。
京都は結局、再び足利方、つまり北朝方の手にもどるが、このように南朝軍が一時的にせよ、京都を占領するということは、その後、3回もあった。南朝軍による最後の京都占領は、尊氏の死後3年目のことであるから、彼は事態にケリをつけないで死んだことになる。