電脳筆写『 心超臨界 』

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( アナトール・フランセ )

読む年表 明治~戦後 《 日清戦争——渡部昇一 》

2024-06-30 | 04-歴史・文化・社会
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日清戦争における日本と清国の宣戦布告文書を比較してみれば、その戦争の意義は明々白々である。「朝鮮は独立した一国であるのに、清国はつねに朝鮮を自分の属国として内政に干渉しつづけている」という日本側の主張に対し、清国側の主張は「朝鮮はわが大清国の藩属(はんぞく)たること2百年、毎年朝貢している国である」というものであった。


◆日清戦争

『読む年表 日本の歴史』
( 渡部昇一、ワック (2015/1/22)、p192 )

1894(明治27年) 日清戦争
朝鮮の独立近代国家をめざした「日清戦争の義」

朝鮮が独立した近代国家になることは、日本の悲願とも言ってよかった。朝鮮半島が欧米、ことにロシアの手に落ちて植民地化すれば、日本の将来はない。朝鮮は明治政府との直接交渉を拒絶し、かえって排日(はいにち)・侮日(ぶにち)の気勢を上げるありさまだったが、明治政府の熱心な近代化への働きかけが初めて実を結んだのは明治9年(1876)に締結された日朝修好条規であった。

この条約は、第一条で「朝鮮は自主独立の国であり、日本と平等な権利を有する」ということを謳(うた)った点で、まさに画期的なものであった。この後、朝鮮政府内部でも開国派が影響力を強めるようになり、日本にとっても喜ぶべき状況が生まれたのである。ところが、朝鮮の宗主国・清国が日本に圧力をかけはじめた。清国の言い分は、朝鮮は2百年来、清国の属国であり、日本ごときが今さら口を出す筋合いのものではない、という主旨であった。

明治15年(1882)、李朝内における攘夷派の大院君(国王の実父)がクーデター(壬午(じんご)政変)を起こし、大院君の兵士が日本公使館を襲い、館員7人が殺害されるという事件が起きた。さらに、大院君は朝鮮の政策を清国寄りに戻そうとしたにもかかわらず、清国は暴動を口実に軍を派遣して大院君を逮捕し、朝鮮を支配下に置いた。

それから2年後の明治17年(1884)、今度は開国派の金玉均(きんぎょくきん)や朴泳孝(ぼくえいこう)らが、クーデターを起こす。いわゆる甲申(こうしん)政変であるが、これも千5百人の清軍が武力介入したため失敗に終わった。しかも、このとき清国の軍隊は日本国大使館を焼き、多数の日本人を惨殺した。日本人がつくづく分かったのは、「朝鮮を独立させようと思えば、結局、シナ(清)との対決は避けられない」という事実であった。

それでも日本は国力充実を優先させ、ひたすら穏健な態度をとりつづけた。そうしたなかで、明治19年(1886年)に清国水兵暴行事件が起きた。清国の北洋艦隊の主力艦である定遠(ていえん)、鎮遠(ちんえん)、威遠(いえん)、済遠(さいえん)が、丁汝昌(ていじょしょう)提督に率いられて長崎港に入港した。日本に対する威圧であるのは言うまでもない。「これ以上、朝鮮に対して日本が干渉するならば、一戦も辞さない」というわけである。さらに、長崎に上陸した清国水兵の一部が暴行を働いたことをきっかけに、清国水兵と日本の警察が衝突して市街戦となり、双方に死傷者が出たのである。死者は日本の巡査2人、清国の水兵5人、負傷者は日清合わせて75人であった。

この事件に対しても話し合いによる解決を目指し、「弱腰外交」と非難された日本政府が日清戦争に踏み切ることになったきっかけは、明治27年に起きた「東学党の乱」であった。

李朝打倒、外国排撃をスローガンにする新興宗教「東学」の信者を中心にして、朝鮮各地で農民が反乱を起こしたのを好機と見た清国は朝鮮に出兵した。朝鮮政府は完全に当事者能力を失っていた。その時、日本に出兵を通告した清国の文章の中には「属邦(ぞくほう)保護」のためと記してあったから、清国が朝鮮を完全に保護国化しようとしているのは目に見えていた。

外務大臣陸奥宗光(むつむねみつ)は朝鮮が清国の属邦であることを認めず、「日清両国が協力して朝鮮の内政改革に当たろうではないか」という提案を清国に出した。だが、清国がこれを拒絶したので、やむなく開戦ということになったのである。

日清戦争における日本と清国の宣戦布告文書を比較してみれば、その戦争の意義は明々白々である。「朝鮮は独立した一国であるのに、清国はつねに朝鮮を自分の属国として内政に干渉しつづけている」という日本側の主張に対し、清国側の主張は「朝鮮はわが大清国の藩属(はんぞく)たること2百年、毎年朝貢している国である」というものであった。

日本の世論は挙げて、この開戦を「朝鮮の独立を助ける義戦」と歓迎した。クリスチャン内村鑑三も「朝鮮を保護国化しようとするシナを挫(くじ)くために日本は戦うのだ」ということを世界に伝えようと、英文で「日清戦争の義」という文章を発表している。

日本にしてみれば、ずいぶん長い間、我慢した戦争であったが、いざ始まってみると、意外なほど簡単に決着がついた。世界最初の汽走(きそう)艦隊の海戦とされた黄海海戦などは、まさに完全勝利で、清が世界に誇っていた北洋艦隊が5隻を失ったのに対して、日本側の損害は軽微であった。さらに、日本の艦隊は威海衛(いかいえい)に逃げこんだ残存艦隊を攻撃し、北洋艦隊を潰滅させた。

かくして「眠れる獅子」と恐れられた清国も、日本と講和せざるをえなくなったのである。
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