電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『世界政治の崩壊過程に蘇れ日本政治の根幹とは』
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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支那大陸東北部(満洲)における日本の特殊権益を認めることは、20世紀初頭の米国外交の基本だった。(中略)しかし、スチムソンは日米外交の「了解の歴史」に一切の配慮を見せなかった。ひたすら中国の主張に耳を傾け、日本の満洲政策を非難した。そこには彼自身の脳裏に、「中国は民主化の道を歩みつつある」という幻想があった。その結果、フーバー政権は満州国を承認しないと決めた。スチムソンには満州国は、「中国の民主化を妨げるファクター」に思えたのである。彼の外交(非承認政策)は「スチムソン・ドクトリン」と呼ばれた。
◆「日米開戦」のための「スチムソン・ドクトリン」
『真珠湾と原爆 日米戦争を望んだのは誰か』
( 渡辺惣樹、ワック (2020/8/4)、p105 )
ヘンリー・スチムソンは、米国の対日外交を歪(ゆが)めた政治家の筆頭である。彼は冒頭に書いたようにFDR政権で陸軍長官に任用されたが、ハーバート・フーバー前政権では政権ナンバーツーである国務長官を(1929年3月~1933年3月)を務めていた。満洲事変勃発(1931年9月)から満洲国成立(1932年3月)の時期に当たる。
支那大陸東北部(満洲)における日本の特殊権益を認めることは、20世紀初頭の米国外交の基本だった。日本の安全保障上、朝鮮あるいは満洲が日本の喉元に突き付けられた匕首(ひしゅ)のような存在であることを理解したセオドア・ルーズベルト大統領が進めた政策は、桂・タフト秘密協定(1905年)によって結実した。その後に続いた同協定を追認する高平・ルート協定(1908年)も石井・ランシング協定(1917年)も、日本の安全保障上における満洲の重要性をアメリカが理解し、実質的に日本の満洲進出を了解(容認)したものだった。従って、満州事変から満洲国建国までの日本外交は、この3つの日米合意の存在を前提に解釈されなくてはならない。
しかし、スチムソンは日米外交の「了解の歴史」に一切の配慮を見せなかった。ひたすら中国の主張に耳を傾け、日本の満洲政策を非難した。そこには彼自身の脳裏に、「中国は民主化の道を歩みつつある」という幻想があった。その結果、フーバー政権は満州国を承認しないと決めた。スチムソンには満州国は、「中国の民主化を妨げるファクター」に思えたのである。
彼の外交(非承認政策)は「スチムソン・ドクトリン」と呼ばれた。退任直前の1933年初めには、次期大統領に決定していたFDRの私邸を訪れスチムソン・ドクトリンの継続を訴え、それに成功した。
日米間には、「日本の対満洲(および朝鮮)政策」について「阿吽(あうん)の呼吸」による共通理解があった。その呼吸を乱し、日米戦争への道筋を立てた人物がスチムソンだったのである。
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『世界政治の崩壊過程に蘇れ日本政治の根幹とは』
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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支那大陸東北部(満洲)における日本の特殊権益を認めることは、20世紀初頭の米国外交の基本だった。(中略)しかし、スチムソンは日米外交の「了解の歴史」に一切の配慮を見せなかった。ひたすら中国の主張に耳を傾け、日本の満洲政策を非難した。そこには彼自身の脳裏に、「中国は民主化の道を歩みつつある」という幻想があった。その結果、フーバー政権は満州国を承認しないと決めた。スチムソンには満州国は、「中国の民主化を妨げるファクター」に思えたのである。彼の外交(非承認政策)は「スチムソン・ドクトリン」と呼ばれた。
◆「日米開戦」のための「スチムソン・ドクトリン」
『真珠湾と原爆 日米戦争を望んだのは誰か』
( 渡辺惣樹、ワック (2020/8/4)、p105 )
ヘンリー・スチムソンは、米国の対日外交を歪(ゆが)めた政治家の筆頭である。彼は冒頭に書いたようにFDR政権で陸軍長官に任用されたが、ハーバート・フーバー前政権では政権ナンバーツーである国務長官を(1929年3月~1933年3月)を務めていた。満洲事変勃発(1931年9月)から満洲国成立(1932年3月)の時期に当たる。
支那大陸東北部(満洲)における日本の特殊権益を認めることは、20世紀初頭の米国外交の基本だった。日本の安全保障上、朝鮮あるいは満洲が日本の喉元に突き付けられた匕首(ひしゅ)のような存在であることを理解したセオドア・ルーズベルト大統領が進めた政策は、桂・タフト秘密協定(1905年)によって結実した。その後に続いた同協定を追認する高平・ルート協定(1908年)も石井・ランシング協定(1917年)も、日本の安全保障上における満洲の重要性をアメリカが理解し、実質的に日本の満洲進出を了解(容認)したものだった。従って、満州事変から満洲国建国までの日本外交は、この3つの日米合意の存在を前提に解釈されなくてはならない。
しかし、スチムソンは日米外交の「了解の歴史」に一切の配慮を見せなかった。ひたすら中国の主張に耳を傾け、日本の満洲政策を非難した。そこには彼自身の脳裏に、「中国は民主化の道を歩みつつある」という幻想があった。その結果、フーバー政権は満州国を承認しないと決めた。スチムソンには満州国は、「中国の民主化を妨げるファクター」に思えたのである。
彼の外交(非承認政策)は「スチムソン・ドクトリン」と呼ばれた。退任直前の1933年初めには、次期大統領に決定していたFDRの私邸を訪れスチムソン・ドクトリンの継続を訴え、それに成功した。
日米間には、「日本の対満洲(および朝鮮)政策」について「阿吽(あうん)の呼吸」による共通理解があった。その呼吸を乱し、日米戦争への道筋を立てた人物がスチムソンだったのである。