電脳筆写『 心超臨界 』

人の心はいかなる限界にも閉じ込められるものではない
( ゲーテ )

活眼 活学 《 義命と全節、隠居入道——安岡正篤 》

2024-09-29 | 03-自己・信念・努力
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名節の人間におけるは、金品ではない富であり、地位や身分とは別の貴である。人物にして名節のないのは女の不貞と同じ。いかなる暴災がつきまとってもやむを得ない。他の美があっても贖(つぐな)うに足りぬ。だから先輩は言うている。爵禄は得やすく、名節は保ち難いと(風節)。


『活眼 活学』
( 安岡正篤、PHP研究所 (1988/06)、p123 )
[2] 人生心得5 出処進退

◆義命と全節、隠居入道

中国が元の征服を蒙って惨禍に陥った時、身を挺して民衆の救済に当たり、その職に殉じた烈士の張養浩に『三事忠告』という優れた遺著がある。

一は大臣を対象とした廟堂忠告、二は司法官警察官たちを対象とした風憲忠告、三は地方官を対象とした牧民忠告で、最後のものは山鹿素行も訳刊している。

私は昭和13年の春、日本の中国進出に際して、深憂のあまり全篇を訳註して軍部や政府官僚に頒ち、後になって中日両国の思わぬ有志の人々から深甚な謝意を表されて、いささか自ら慰めたことがある。

その廟堂忠告、即ち大臣心得に退休の一章があり、風憲忠告も、節を全くすること――全節を以て結んでおり、牧民忠告も終わりの方に、進退と義命と、進を己に求むることと、風節ということを論じている。

それらの中に、近世の人々は惟(た)だ進むに狃(な)れ、退けばとんとぼんやり(惛然)して一向何もできない。地位だの名誉だのといものは、偶然に来るものと個人が説いている(荘子・繕性)。

そんなものがあっても自分自身に何の加うるところがあるか。そんなものがなくなっても、何の損するところがあるか。大切なことは、自分自身がいかなる人間かというところにあることを思わずに、地位だ名誉だ財産だと徒らに物によって自己を軽重するなどは、人品の卑下なること明らかである(進退皆有為)と論じ、君子は義を以て命に処し、命を以て義を害しない。

即ち世に処していかなることに遭遇しようが(命)、良心の判断(義)を以て当たり、禍福利害のために良心を害(そこな)うことをしない。良心の判明するところ、進むべき場合は進む。退くべき場合は退く。命というて自らごまかさない。良心的に楽しければ行くし、憂うる場合は之を去る。命だなどと逃げ口上を言おうか。世間の富貴利達の境に沈んで、そこから出ることのできないものは、ともすれば命ということにかこつけて、そして自ら誣(し)うるものである。それで、いつも我から禍にかかっていって、卒(つい)に悟ることができない(以義処命)。

志ある者は進を己に求むべきで、人に求めてはならない。その進を己に求むということは、道業学術の精にほかならず、進を人に求むとは富貴利達の栄に過ぎぬ。富貴利達は結局我が外にある問題で、自ら求めて必ずしも得られるかどうか分からぬことであるが、道業学術は自分に内在する。自ら啓発せねばならぬものである。古人も元来富貴利達などは問題にしておらない。

それなら何故従仕するかといえば、それによって道を行なうことができるからである。道行なわれず、我が理念するところが行なわれないで、しかも富貴利達であることは、古人はこれを恥として、栄としない(求進於己)。

名節の人間におけるは、金品ではない富であり、地位や身分とは別の貴である。人物にして名節のないのは女の不貞と同じ。いかなる暴災がつきまとってもやむを得ない。他の美があっても贖(つぐな)うに足りぬ。だから先輩は言うている。爵禄は得やすく、名節は保ち難いと(風節)。

古今賢者の言っていることは皆同じで、例えば私の銘記している一例を挙げると、明治大正の読書人が多く愛読したスイスのアミエルも、人間の真価を直接に表すものは、その人の所持するものではなく、その人の為すことでもなく、ただその人が有するところのものである。――偉大な人物とは真実な人のことである。自然がその人の中にその志を成し遂げた人のことである。彼らは異常ではない。唯、真実の楷梯を踏んでいるのであると、その有名な日記の中に記している。近代経済学の大家で、特に最近の日本に喧伝されたケインズも、その後の著作、『我が若き日の信念』の中に、我々はいかに善を為すか how to do good より、いかに善であるか how to be good の方が要義 much more important であると断じている。

つまらぬ人格の者でも、寄附をしたり、出世したりすることはできる。しかし、いくら寄附をしたり出世したりしても、つまらぬ人間はつまらぬ人間で、却って富貴によってますます人間を堕落させ、大害をなしかねない。貧富貴賤順境逆境、何に処しても変わらぬ自分というものが真実なのである。

封建時代には隠居入道ということが愛された。隠居と入道とは離されぬ一連の問題で、世俗の生活、名聞利達の生活というものは自己の真実・人生の真義を失い易いので、さっさとそんな現世的なものは後継者に譲って、自己と人生の真実に生きようとすることである。そこで武田晴信も機山信玄となり、上杉輝虎も不識庵謙信となった。

その所行は別として、志は我々解するところがなければならぬ。平清盛が浄(静)海入道となっても、法衣の下から鎧の金具がちらついて、最後まで修羅の妄執に悩んだのは悲惨であるが、その入道の苦悩は、やはり人間の真実を味わわせるものと言わねばならぬ。このごろは、人も世も何と真実の失せたことであろう。
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