電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
《自民党議員/党員必見!》『自民党総裁選候補者の人物評を西川京子前九州国際大学学長・元文科副大臣に訊く;水間政憲』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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法華経の第二十五章の「普門品(ふもんぼん=通称・観音経)」に見るアヴァローキテシュヴァラという菩薩の名を、5世紀の名翻訳者の鳩摩羅什(くまらじゅう)は「観世音菩薩」と訳しました。一方、玄奘(げんじょう)は同じ原語のアヴァローキテシュヴァラを「観自在菩薩」と訳しました。
『わたしの般若心経』
( 松原泰道、祥伝社 (1991/07)、p90 )
3章 「心のカメラ・アイ」を持て――観自在菩薩が教える妙観察智の智慧
観自在菩薩
(1) 音を感じる智慧
◆観自在菩薩と観世音菩薩
さて、心経の真っ先に登場する観自在菩薩は、観世音(かんぜおん)菩薩の別名で、一般に“観音さま”と親しまれる菩薩の名であると、はじめに申しました。では、なぜ同じ菩薩に別名があるのでしょうか。
法華経の第二十五章の「普門品(ふもんぼん=通称・観音経)」に見るアヴァローキテシュヴァラという菩薩の名を、5世紀の名翻訳者の鳩摩羅什(くまらじゅう)は「観世音菩薩」と訳しました。一方、玄奘(げんじょう)は同じ原語のアヴァローキテシュヴァラを「観自在菩薩」と訳しました。
同一原語に翻訳者によって異なる訳名がつけられた理由は、いろいろと詮索できますが、ただここで考えておくべきことは、鳩摩羅什も玄奘も単なる翻訳者ではなく、いずれも大思想家であることです。先にも述べたとおり、原語や原文を逐次訳するのではなく、経典の内容を完全に咀嚼(そしゃく)して、経典のこころを深く理解しているのです。
たとえば、原点にない字句を訳文に挿入したり、逆に原典にある字句を省略したり取り除いたりしています。しかも原典の内容を少しも害(そこ)なわないどころか、かえって趣意が鮮明になるので「名翻訳者」といわれるのです。つまり、逐語訳の直訳でもなく、意味を知るだけの意訳でもなく、経典の文字の底にある仏教思想を、鳩摩羅什も玄奘も、自分自身の豊な学識と宗教観に基づいて汲み取っているのです。
鳩摩羅什が、「普門品」の一節に「さまざまな苦悩を受けたとき、この菩薩の名を聞いて、一心にその名を称(とな)えるなら、菩薩は、すぐにその音声を聞きわけて、みんなを解脱(げだつ)させてくださるであろう」とあるところから「観世音」と訳した(中村元・紀野一義訳注『般若心経・金剛般若心経』岩波文庫)といわれるのも、その一例です。
一般に「観世音」というときは慈悲を、「観自在」というときは智慧を象徴するための訳出と受けとめていいでしょう。ただ、心経にあっては「観自在」の訳語が、その内容にぴたりといたします。
先に挙げた無難(ぶなん)は、年老いた尼僧に
「観自在菩薩(は)、見(観)レバ我(自)ニ有(在ル)ボサツ也」
と教えています。
楽しい教えではありませんか。「遠くや他所(よそ)を探したり求めたりせずに、自分の中をよく観察してごらん。観音さまとは、自分に具わっている菩薩さまだよ――」と。玄奘の訳語が生き生きと脈動しているようです。
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
《自民党議員/党員必見!》『自民党総裁選候補者の人物評を西川京子前九州国際大学学長・元文科副大臣に訊く;水間政憲』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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法華経の第二十五章の「普門品(ふもんぼん=通称・観音経)」に見るアヴァローキテシュヴァラという菩薩の名を、5世紀の名翻訳者の鳩摩羅什(くまらじゅう)は「観世音菩薩」と訳しました。一方、玄奘(げんじょう)は同じ原語のアヴァローキテシュヴァラを「観自在菩薩」と訳しました。
『わたしの般若心経』
( 松原泰道、祥伝社 (1991/07)、p90 )
3章 「心のカメラ・アイ」を持て――観自在菩薩が教える妙観察智の智慧
観自在菩薩
(1) 音を感じる智慧
◆観自在菩薩と観世音菩薩
さて、心経の真っ先に登場する観自在菩薩は、観世音(かんぜおん)菩薩の別名で、一般に“観音さま”と親しまれる菩薩の名であると、はじめに申しました。では、なぜ同じ菩薩に別名があるのでしょうか。
法華経の第二十五章の「普門品(ふもんぼん=通称・観音経)」に見るアヴァローキテシュヴァラという菩薩の名を、5世紀の名翻訳者の鳩摩羅什(くまらじゅう)は「観世音菩薩」と訳しました。一方、玄奘(げんじょう)は同じ原語のアヴァローキテシュヴァラを「観自在菩薩」と訳しました。
同一原語に翻訳者によって異なる訳名がつけられた理由は、いろいろと詮索できますが、ただここで考えておくべきことは、鳩摩羅什も玄奘も単なる翻訳者ではなく、いずれも大思想家であることです。先にも述べたとおり、原語や原文を逐次訳するのではなく、経典の内容を完全に咀嚼(そしゃく)して、経典のこころを深く理解しているのです。
たとえば、原点にない字句を訳文に挿入したり、逆に原典にある字句を省略したり取り除いたりしています。しかも原典の内容を少しも害(そこ)なわないどころか、かえって趣意が鮮明になるので「名翻訳者」といわれるのです。つまり、逐語訳の直訳でもなく、意味を知るだけの意訳でもなく、経典の文字の底にある仏教思想を、鳩摩羅什も玄奘も、自分自身の豊な学識と宗教観に基づいて汲み取っているのです。
鳩摩羅什が、「普門品」の一節に「さまざまな苦悩を受けたとき、この菩薩の名を聞いて、一心にその名を称(とな)えるなら、菩薩は、すぐにその音声を聞きわけて、みんなを解脱(げだつ)させてくださるであろう」とあるところから「観世音」と訳した(中村元・紀野一義訳注『般若心経・金剛般若心経』岩波文庫)といわれるのも、その一例です。
一般に「観世音」というときは慈悲を、「観自在」というときは智慧を象徴するための訳出と受けとめていいでしょう。ただ、心経にあっては「観自在」の訳語が、その内容にぴたりといたします。
先に挙げた無難(ぶなん)は、年老いた尼僧に
「観自在菩薩(は)、見(観)レバ我(自)ニ有(在ル)ボサツ也」
と教えています。
楽しい教えではありませんか。「遠くや他所(よそ)を探したり求めたりせずに、自分の中をよく観察してごらん。観音さまとは、自分に具わっている菩薩さまだよ――」と。玄奘の訳語が生き生きと脈動しているようです。