電脳筆写『 心超臨界 』

嘘と作り話の上に自己を築くことほど
この世で恥ずべきものはない
( ゲーテ )

日本史 鎌倉編 《 「父の道」を改めつづけた歴代の将軍たち――渡部昇一 》

2024-09-08 | 04-歴史・文化・社会
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義満は、甚だしく公家化したのであるが、その次の将軍足利義持(よしもち)は、その反対のことをした。義満の望んでいた大上法皇(だいじょうほうおう)の尊号が、朝廷よりわざわざ下されたとき、義持はそれを辞退し、義満夫人(後小松(ごこまつ)天皇の准母(じゅんぼ))の葬式も簡略にし、義満自慢の北山第(きたやまてい)も、大部分、取り壊したことはすでに述べたとおりである。つまり、武士の棟梁(とうりょう)としての足利将軍に戻(もど)ろうとしたわけである。


『日本史から見た日本人 鎌倉編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p216 )
3章 室町幕府――日本的美意識の成立
――政治的天才・義満(よしみつ)と政治的孤立者・義政(よしまさ)
  の遺(のこ)したもの
(4) “美”のクリエイター・足利義政(よしまさ)の天才

◆「父の道」を改めつづけた歴代の将軍たち

子が父のやり方を尊敬せず、父の父、すなわち祖父のやり方を真似(まね)するということが繰り返して出てきたのは足利幕府である。

孔子は親孝行というものの具体的なあり方を示して次のように言った。

「父在(イマ)セバ、その志(ココロザシ)ヲ観(ミ)、父没(ボッ)スレバ、ソノ行(オコナイ)ヲ観ル。三年、父ノ道ヲ改ムルコトナキハ、孝ト謂(イ)ウベシ」(『論語』学而(がくじ)第一)と。

孔子の考えによれば、人の子たるものは、自分の父親が生きている間は、その親の志をよく観察して、その志に合うように行なうべきで、これが孝行である。

また父が死んだあとは、父の事業をよく観察して、それを発展させるようでなければならない。もし、父のやったことに多少不都合なことがあったとしても、3年の喪(も)の間は、亡き父に対する思慕(しぼ)の情から、そのやり方をすぐに改変しないというのが孝行というものだ、というのである。

もし、こういうのを「孝」とするならば、歴代の足利将軍は不孝者だらけであったということになる。

義満は、甚だしく公家化したのであるが、その次の将軍足利義持(よしもち)は、その反対のことをした。義満の望んでいた大上法皇(だいじょうほうおう)の尊号が、朝廷よりわざわざ下されたとき、義持はそれを辞退し、義満夫人(後小松(ごこまつ)天皇の准母(じゅんぼ))の葬式も簡略にし、義満自慢の北山第(きたやまてい)も、大部分、取り壊したことはすでに述べたとおりである。つまり、武士の棟梁(とうりょう)としての足利将軍に戻(もど)ろうとしたわけである。

さらに、義満の開いた明(みん)との外交も屈辱外交と考えた。義満の死は、翌年、朝鮮を通じて明に至ったらしく、応永(おうえい)16年(1409)7月5日、明の施設の周全瑜(しゅうぜんゆ)という者が来朝して、義満の喪を弔(とむら)い、祭文(さいもん)・諡号(しごう)などとともに、「新将軍の義持を日本国王とす」という明の皇帝の文書をとどけた。明のほうからすれば当然のことで、いわば本領安堵(ほんりょうあんど)(所有権の承認)をしてくれたことになるが、義持はこれを喜ばず応答しなかった。

これは父の義満の外交政策を根本的に否定したことで、3年どころか死後1年にして「父の道を改」めてしまったことになる。

その後も明に対する義持の態度は強硬であった。応永18年(1411)にやって来た、明使の王進(おうしん)という者を兵庫(ひょうご)の港から帰してしまい、入洛(じゅらく)させなかったし、この後も、日本と明の間の交流はよくなかった。

それは、一つには「応永の外寇」というものがあったからである。

すなわち、応永26年(1419)6月20日、朝鮮の将軍柳廷顕(りゅうていけん)、李従母(りじゅうも)らは、蒙古兵とともに(この蒙古兵は誤認だろうという説が強い)、兵船1300余艘(そう)を率(ひき)いて対馬に襲来したのである。かくして菊池兼朝(きくちかねとも)、大友親著(おおともちかあき)、宗貞茂(そうさだしげ)など、九州と対馬の諸豪族たちとの間に激烈な戦闘が起こった。これは日本軍の大勝利に終わり、この後、朝鮮は日本を攻めることをまったく断念するに至ったのである。
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