電脳筆写『 心超臨界 』

人間は環境の産物ではない
環境が人間の産物なのである
( ベンジャミン・ディズレーリ )

わしの人生は失敗の連続だった――大原孫三郎

2024-06-20 | 08-経済・企業・リーダーシップ
電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『世界政治の崩壊過程に蘇れ日本政治の根幹とは』
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散記事『榎本武揚建立「小樽龍宮神社」にて執り行う「土方歳三慰霊祭」と「特別御朱印」の告知』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


12月14日の新聞にクラレの全面広告が掲載されました。創業者の大原孫三郎の反抗の生涯と、40年の歴史を誇る製品であるクラリーノ開発の苦労とを重ね合わせた、ちょっといい話です。経営者も製品もどちらも社会的存在であること、社会的良心を持つことが出発点でありゴールであるとしてクラレは活動しています。失敗だったのかどうか、数十年後にまた振り返ってみたいと、広告は結んでいます。

期せずして翌日からの日経新聞「やさしい経済学」で、日本の企業家特集の一人として大原孫三郎が取り上げられています。


◆わしの人生は失敗の連続だった――大原孫三郎

「失敗。」クラリーノ――大原孫三郎DNA
( 2005.12.14 日経新聞 全面広告 )

どこのどなたかわかりませんが、この広告の長い文章を読んでみようと思われた方に、まず初めにお礼を申し上げます。ありがとうございます。

さて、今日は、「ひとりの経営者」と「ひとつの製品」の話をお伝えしようと思います。しかし、よくある経営者の製品開発物語ではありません。ただどちらも過去を振り返ってみると、よく似た足跡を残しています。それは、ひるむことを知らず「失敗」を積み重ねてきた生涯でした。

昔、ややこしい経営者がいました。事業を成功させ、まぶしいほどの人生を送りながら晩年「わしの人生は、失敗の連続だった」と意外な言葉をのこしたのです。彼が生まれたのは1879年。大地主の家で育ちました。地元の名門校に入りましたが生意気だという理由で上級生のイジメにあい東京に進学。その名の通り、ほとんど授業にも出ず放蕩無頼の生活に明け暮れ、やがて莫大な借金をこしらえ、郷里に連れ戻されました。そして父から大きな会社を引き継ぎました。26歳の時でした。そこから「生まれかわったように勤勉になり…」というのが普通の物語なのでしょうが、彼は相変わらずマイペースでした。書道、柔道、華道、狩猟にでかけ、料亭に通いつめる毎日。しかし肝心なところは行動的でした。資金調達力を高めるために銀行の初代頭取となり、さらに工場には電力が必要なことから電力会社の設立にも関わりました。事業家としてダイナミックな道を一途に歩み始めたかに見えた彼でしたが、実は会社を相続する以前に運命的な人と出会い、関係を深めていました。それは福祉などという言葉のない時代に孤児救済の運動をする人でした。強烈なヒューマニズムにうたれた彼は、会社経営のかたわらも、周囲の声に耳を貸さず、孤児救済に深く肩入れし、莫大な額の寄付を重ねていきました…。

ここで一方の「ひとつの製品」についてのお話をします。その製品はライフサイクルが短いと言われるこの時代、今年40年を迎えました。しかしその製品は決して「幸運」のつながりで生きてきたものではなく、むしろ失敗の連続でした。誕生からして実は失敗作から生まれたものでした。1963年、東京オリンピックを翌年に控え日本中が活気で渦巻く中、研究室では新製品の開発が進められていました。しかし研究はうまくいかず苦悩の日々がつづいていたある日、研究員がふとイタズラ心である実験を試みました。するとまったく偶然、皮みたいなものが生まれました。それがその製品のタマゴでした。1964年、実用の開発にあたり強度に対する品質を高めるために初めに一番難しいものから取り組みました。それは靴でした。さっそく研究員の靴屋への日参が始まりました。しかし街の靴屋さんが一片のサンプルを軽く引っ張ると、いとも簡単に破れてしまいました。研究員はその破れたサンプルを持って再び研究所に帰る。そんな日々がつづきました…。

経営者の話にもどります。彼は営業や技術は人任せにし、人事課長を自らかってでました。初等教育も十分にうけていない工員には工場内で勉強できるようにし、家庭らしい生活を願う工員たちのために寄宿舎を大部屋式の二階建てから余裕のある平屋建てに変えました。さらに、貧乏や労働、農業を理論的に研究する研究所や広く社会に開放し平等でアットホームな病院らしくない病院を立ち上げました。採算を悪化させるからという役員たちの猛反対はすさまじいものだったと聞いています。また今では有名な美術館の建設に着手します。きっかけは彼が奨学資金を出してヨーロッパへ留学させていた一人の画学生から「日本にいる大勢の画家仲間たちのために、本物の絵に触れさせてやりたい」という手紙でした。それから絵を買いつづけました。しかし当時日本では西洋美術は見向きもされず、来場者数ゼロの日もあったそうです…(後日談ですが太平洋戦争のさなか、海外にこの美術館の名が知られていたおかげでこの街は空襲をまぬがれたと言われています。ちなみに、それはあの大原美術館です)。

また製品の話のつづきです。その製品は当時、天然物が99%輸入であったことから「天然物を人工に置き換えることが国家のためにもなる」と信じて開発されていました。しかも模造品ではなく、天然の牛革よりすぐれたモノを目指していました。そしていよいよ1964年、パイロットプラントが稼動しました。しかしテストで機械から出てくる商品は「タオルをしぼったようなモノ」ばかりで生産ロスによる被害は進入社員の給料百人分にも達しました。しかし研究員たちはあきらめませんでした。サンプルはできたのだから工業生産できるはずだと。失敗を積み重ね、1966年ようやく本格生産にこぎつけました。しかし、いきなり一日に数百個の靴が返品されました。原因を追究するために夜中まで人の履いた靴を一つ一つ調べる毎日。犯人がわかりました。それは汗でした。しかもアルカリ性の汗をかく人の靴が割れていました。それは高分子の世界の出来事でした。品質改良を進めました。1970年工場を増設し、フル操業になりました。紳士靴をはじめ、ランドセル、ボール、ゴルフ手袋、アパレル、さらには半導体産業からディスク産業など目に見えない産業資材分野にもその用途が広がっていきました…。

経営者はこんな言葉も残しています。「わしの一生は、反抗の生涯だった」と。ただ最期まで構わず歩いた。右に左に、前に後ろにと、大揺れに揺れながらも、あえてそのまま歩き通した。

製品は今年40周年を迎えました。この製品から生まれ、日本の子供たちが使った延べ2千万個のランドセルのうち1万個がこの春、海を越えました。今アフガニスタンの子供たちが背負って学校に通っています。

経営者も製品もどちらも社会的存在であること、社会的良心を持つことが出発点でありゴールでした。失敗だたのかどうか、数十年後にまた振り返ってみたいと思います。

経営者の名は、大原孫三郎。

製品名は、クラリーノ。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 私もいつかこんな、ユーモア... | トップ | 人生の首途において逢うて訣... »
最新の画像もっと見る

08-経済・企業・リーダーシップ」カテゴリの最新記事