電脳筆写『 心超臨界 』

人間は環境の産物ではない
環境が人間の産物なのである
( ベンジャミン・ディズレーリ )

日産の仕事は丁度植木屋家業と似通っている――鮎川義介

2024-06-20 | 08-経済・企業・リーダーシップ
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日経新聞「やさしい経済学」で日本の企業家を特集しています。一人8回のシリーズで、作家や大学教授が紹介文を担当します。今回の企業家は鮎川義介。紹介者は東京大学教授の岡崎哲二さん。以下に、8回シリーズのダイジェストを記します。

日産グループ創始者の鮎川義介は、血縁中心主義(仲間内資本主義)から大衆株主重視へ舵をきり、さらにはM&A(企業の合併・買収)を多用して企業再生ビジネスの開拓者となった。鮎川が目指した持ち株会社と資本市場を中心とする企業・金融システムは、30年代の日本で機能し始めたところで、結局は挫折する。しかし、鮎川が戦前日本で目指し、実現させつつあった資本市場型の企業・金融システムは、戦後60年を経て再び姿を現しはじめている。岡崎さんは、彼の示唆に改めて光をあてるときである、と評価する。

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岡崎哲二(おかざき・てつじ)
58年生まれ。東京大卒、同経済学博士。専門は経済史
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年表・鮎川義介
1880 山口県に生まれる
1903 東京帝国大学工科大機械卒、芝浦製作所(現東芝)へ
1905 米国に渡る
1910 戸畑鋳物(現日立金属)を創設
1928 久原鉱業の社長に就任。社名を日本産業(日産財閥の持ち株会社)に改称
1933 日本産業と戸畑鋳物の共同出資で自動車製造(その後日産自動車に改称)発足、社長に
1937 日産を旧満州(中国北東部)に移す。社名は満州重工業開発に
1945 終戦に伴い戦犯容疑で拘留(47年まで)
1953 参院議員に(59年に辞職)
1967 死去

[1] 制度変化を象徴 2005.11.08
日産グループ創始者の鮎川義介は、血縁中心主義(仲間内資本主義)から大衆株主重視へ舵をきり、さらにはM&A(企業の合併・買収)を多用して企業再生ビジネスの開拓者となるなど、ある意味で、戦前の日本の資本主義発展を象徴する企業家であった。

鮎川は旧山口藩士の子として生まれ、母親が後に元老となる井上馨の姪であったことが、鮎川家を一躍名門の地位に押し上げた。義介は兄弟姉妹の姻戚関係を通じ財界に有力なネットワークを形成した。特に重要だったのは、藤田小太郎、久原房之助および貝島太市との関係である。小太郎は秋田・小阪鉱山を経営する藤田組トップの藤田伝三郎の甥で、義介の弟がその養子となっていた。房之助も伝三郎の甥で、日立鉱山を足がかりに第一次大戦期に久原財閥をつくり上げた。房之助には義介の妹が嫁いでいる。太市は九州の有力な炭坑をもつ企業家、貝島太助の子で、やはり義介の妹と結婚している。

鮎川は若いころ影響を受けた書物に、米鉄鋼王カーネギーの『実業の帝国』を挙げている。部下の素質を見抜き、生かすことこそ経営者の使命というその主張から、彼は企業における経営者の決定的な重みを学び、それを実践していったように思われる。

[2] 血縁ネットワーク 2005.11.09
芝浦製作所(現東芝)での約2年間の工員生活の後、さらに米国の鋳物工場でも工員として働いた鮎川義介は、帰国後、日本で鋳物会社を設立することを計画。井上馨のあっせんにより、藤田、貝島、久原と三井の出資(計30万円)を仰いで、1910(明治43)年に戸畑鋳物(現日立金属)を設立した。三井以外の出資者は、いずれも鮎川の親戚である。井上を含め血縁的なネットワークが企業設立と投資を支えていた(仲間内資本主義)。

日本経済は、日露戦争の後の好況期にあった。しかし、その後第一次大戦が勃発する14年までやや長い不況を経験する。この不況下で創業直後の戸畑鋳物は深刻な経営危機に直面した。同社の主要製品である可鍛鋳鉄が、きわめて早い時期の試みだったため、販路の開拓が容易ではなかった。

一方で、資金需要は大きかった。60万円に増資したが、それでも資金が不足し、一時は賃金の支払いにも事欠いた。このときは貝島、久原、三井といった出資者も追加出資を断ったが、藤田家(小太郎の未亡人)がその要請に応じでくれたため、戸畑鋳物は倒産を免れた。この時期、鮎川はまだまだ血縁頼みだったのである。

[3] 再生ビジネス発見 2005.11.10
第一次大戦(1914-18年)は、戸畑鋳物に発展の機会を与えた。注文が急増し、大戦期に創立(10年)以来の繰り越し損失が解消された。その後も製品の名声が確立した戸畑鋳物は順調に業績を伸ばした。一方、多くの企業は戦後不況のなかで経営危機に直面した。そしてこの状況が、企業家・鮎川に、いわゆる事業再生ビジネスを発見させる機会を与えることになる。

22年に鮎川は共立企業という持ち株会社を設立した。目的は、戸畑鋳物における人事の停滞をさけるため、同社で昇進させることができない社員の受け皿となる企業を探して、傘下に持つこと。結局、買収は東亜電機(電話機)と安来製鋼所(和鋼)の2社にとどまったが、持ち株会社による買収を通じた事業再生という、のちの日本産業(日産)グループのビジネスモデルの原型は、ここにでき上がった。

鮎川の義弟の久原房之助は、伯父の藤田伝三郎から藤田家が所有する秋田・小坂鉱山の経営を委ねられて成功し、それをバネに茨城・日立鉱山などを買収して12年に久原鉱業を設立した。久原鉱業は第一次大戦期の銅価格上昇による収益を利用し急速に事業を多角化した。商業・貿易(久原商事)、海運(日本汽船)、造船(大阪鉄工所)、化学肥料(合同肥料)、鉄鋼(戸畑製鉄=東洋製鉄と合併)などである。しかし大戦後に銅価格が下落すると、本体の久原鉱業の経営が悪化しただけでなく、久原財閥全体が経営危機に陥った。そして鮎川はこの再生に乗り出していく。

[4] 大衆株主に照準 2005.11.11
政友会総裁でその後首相となる田中義一らの依頼をうけ、義介は26年、久原財閥の再生に乗り出した。久原鉱業の配当資金が不足していたため、鮎川はまず、親族の藤田家から担保物件の提供を受け、これによって借り入れた資金で配当支払いを切り抜ける。

しかし当時、久原鉱業の累積損失は2千5百万円(資本金は7千5百万円)。その処理のため鮎川は、まず義弟の貝島太市に資金提供を要請した。貝島家は、過去の井上馨や鮎川の恩義に報いるとの趣旨で、土地や有価証券、現金など計千4百万円の資産を提供した。さらに鮎川は、久原鉱業の役員に応分の負担を求めた。彼自身を含めたその負担分(計670万円)と財閥トップの久原房之助の提供分(骨董類約500万円)も加え2千5百万円の損失処理が完了する。

28年、久原鉱業社長に就任した鮎川は、久原財閥の再生策として、新規資金を多数の「大衆株主」から調達することにした。さらに、同社を現業部門を持たない純粋な持ち株会社に改組するとともに、その株式を公開し社名を「日本産業」(日産=現日産自動車などのかつての親会社)と決定した。鮎川は、大衆株主を基盤とすることによって血縁ネットワークの限界を超えた企業成長を構想したのである。

29年には、鉱業を中心とする日産の現業部門が、日本鉱業として切り離される。この現業機能と持ち株会社機能の分離を通じ、日産財閥の骨格が形づくられた。

[5] 活発なM&A 2005.11.14
鮎川の日本産業(日産)グループは30年代前半、M&A(企業の合併・買収)などを通じ急成長していく。その原動力は、分離した日本鉱業の株式。31年末の金輸出再禁止の結果、金価格が急騰し金鉱をもつ日本鉱業の業績が著しく向上した。日本鉱業の好業績は持ち株会社日産の業績にも反映し、日産は二度の増資を実施する。増資直後の36年度上期末に日産の株主数は3万3千人以上に膨らみ、鮎川が構想した通り、日産は株式市場の多数の投資家から多額の資金を調達することに成功したのである。

日産は37年6月時点で鉱山、自動車、電力、水産、化学など20以上の産業にわたって、18の子会社と約130の孫会社からなる大規模な企業グループを形成した(和田日出吉『日産コンツェルン』)。

事業拡大は主に、既存企業の買収を通じて行われた。日本蓄音器商会(現コロンビアミュージックエンタテインメント)と日本ビクター蓄音器(現日本ビクター)の両社が傘下に加わっている。

系列の石炭企業、日本炭鉱は、買収ではなく、34年に日産が設立した企業であったが、それにあたっては筑豊地域の中止炭鉱から主要な鉱区が買収された。日本炭鉱はさらに、日本の化学肥料会社の草分け大日本人造肥料と合併し、日産化学工業が生まれる。

さらに日産は、共同漁業を傘下に収め水産事業に進出して。同社はいくつかの企業を買収したうえ、37年に水産事業および水産加工事業を統合して日本水産となった。

[6] 草木花を育てる 2005.11.15
日本産業(日産)グループの成長過程は前回述べたように既存企業の買収を多数手掛けた点に特徴がある。鮎川は日産の機能を説明する際に、植木屋の比喩を用いている。

「日産の仕事は、丁度植木屋家業と似通っている。色々の種子や苗を仕入れてきて、適当に日光を与え、水を遣(や)り、肥料を施しなどして育て上げ、その草木に、花が咲き、果実が実るやうになれば、花や果実を株主に配当する。また枯れかかった珍木や、日陰で伸びない佳草が見つかれば、これを安価に仕入れて、土を変え、手入れを施して培養することもあり、更に桃の木の台に接木して、梅の花を咲かせる術も心得ている。また配当として、花や果実(子会社の配当金収入に基く親会社配当の意)を差し出すばかりでなく、美花や良果を得るに到った卉木(きぼく)そのものを根こそぎ売り放つ場合(プレミアム稼ぎのこと)もある」(鮎川義介『物の見方考え方』1937年)

この文章は日産のビジネスモデルを明示している。業績が低迷している企業を探し出して低価格で買収し、その経営再建を通じて配当収入やキャピタルゲイン(売却益)を得るのが日産の役割であり、収益源であるとされている。

さらに、企業買収と追加投資のための資金調達も必要である。日産はこれらの点に関連して、鮎川をサポートする内部組織を備えていた。日産は34年の組織改革で業務、監理、企業関係の三部を設置した。企業関係部は新規投資先の企画・選定。監理部はすでに傘下に入った企業のガバナンス。そして業務部が日産の資金調達を所管した(宇田川勝『新興財閥』84年)。

[7] 活躍の舞台 2005.11.16
36年以降の日本の軍事化は、日産の経営に深刻な影響を及ぼした。

37年に入って林内閣のもとで税制改正が行われた。次いで日中戦争が勃発(37年7月)すると、近衛内閣のもと、「北支事件特別法」として、法人所得税の再見直しに加えて、利益配当特別税(配当率7%の部分について、10%の金額を徴収)が新設された。特に利益配当特別税は持ち株会社である日産に大きな打撃となった。戦時税制は持ち株会社を用いるビジネスモデル自体に否定的な影響を与えたといえる。

日産の経営が困難に直面していたとき鮎川は、「満州国」を事実上支配していた関東軍から「満州第二期経済建設」計画を実施するにあたり協力を得たいという打診を受ける。建国をうけ始まった第一期経済建設が十分な成果をあげていない状況を踏まえて、関東軍と満州国政府が経済運営方式の改革を検討していたことがその背景にあった。短期間に大規模な企業グループを築いた鮎川の手腕に期待がかけられたのである。

打診に対し鮎川は満州の重工業および資源開発関連の企業を統合した会社をつくり、そこに経営資源を集中するとともに、外資を導入するという開発方式を提案、これが受け入れられる。満州国政府から税制上の優遇を保証された鮎川は、37年末、日産本店を新京(長春)に移転。日産は満州国の法人となり、社名を満州重工業開発と改め彼はその総裁に就いた。

同社は既存の日産子会社や南満州鉄道(満鉄)のもとにあった諸企業を傘下に統合した。しかし、旧満鉄子会社は特殊会社として政府との関係を維持し、満州重工業の意図通りに動こうとはしなかった。鮎川は構想を実現できないまま、失意のなかで42年に満州重工業総裁を辞任する。

[8] 市場型システム 2005.11.18
鮎川義介は20世紀日本経済の変化を象徴する企業家であった。その点を以下にまとめる。

鮎川が若くして財界人として登場し得たのは、血縁的ネットワークのお陰といえる。彼の最初の事業、戸畑鋳物の出資者のうち三井を除く三者は鮎川の親戚である。また、財界に対する大叔父の井上馨の存在が大きかった。

しかし、家族的な企業は、モラルハザード(倫理の欠如)を起こすことがある。1990年代末のアジア経済危機と同じく、20年代日本の金融危機の主因もここにあった。第一次大戦期に株式の支配的家族以外への分散が進むとともに、銀行についても、預金銀行化が伸展していったからである。

久原財閥の再生・日本産業(日産)への改組によって鮎川が取り組んだのは、仲間内資本主義によるモラルハザードの克服であった。さらに彼は企業買収を通じ多数の企業に顕在的・潜在的な規律(資本市場の信頼向上のための)を与えた。日産の成長はその規律付け機能を通じ資本市場の拡大を支えたのである。日産は無数の分散的な投資家に代わって、企業を評価し、必要に応じて経営に介入する役割を担った。

しかし、37年の日中戦争開始前後の増税は、日産のビジネスモデルに深刻な打撃を与え、鮎川は税制上の優遇を保証された旧満州(中国北東部)に日産を移した。しかしそれも、軍部と政府のより強い介入で頓挫する。こうした動きは、30年代日本で機能し始めた持ち株会社と資本市場を中心とする金融・企業システムの挫折を象徴する。しかし、鮎川が戦前日本で目指し、実現させつつあった資本市場型の企業・金融システムは、戦後60年を経て再び姿を現しはじめている。彼の示唆に改めて光をあてるときである。
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2 コメント

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日本炭鉱は--??? (手習 始)
2006-01-11 13:29:36
『系列の石炭企業、日本炭鉱は、買収ではなく、34年に日産が設立した企業であったが』----日本鉱業の説明と、混同があるようですね・・・・
返信する
日本炭鉱 (chorinkai)
2006-01-11 20:20:16
手習 始 様



はじめまして。コメントをありがとうございます。



調べましたところ、日本鉱業と日本炭鉱は全く別の企業であり、記述に間違いのないことを確認致しましたので、ご連絡致します。
返信する

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