電脳筆写『 心超臨界 』

天才とは忍耐するためのより卓越した才能に他ならない
( ルクレール・ビュフォン )

般若心経 《 仏教経典を理解するために――松原泰道 》

2024-09-10 | 03-自己・信念・努力
電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■緊急拡散『2024年8月発表:トランプ前大統領「米国を再び偉大にするための核心的公約20」』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


岡本かの子さんに「仏教の経典は、ドラマです。ドラマを読むつもりで読まないと経典の意味はつかめません」という名言があります。現に心経を読んでも、釈尊(釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ))の名は見あたりません。歴史的実在者ではない、いわばフィクションの存在である観自在菩薩(かんじざいぼさつ=観音さま)が、釈尊の高弟で実在の人物である舎利子(しゃりし=舎利弗(しゃりほつ))に空(くう)の思想を説くという構成の、規模広大な短編ドラマです。


『わたしの般若心経』
( 松原泰道、祥伝社 (1991/07)、p46 )
1章 自らを光とせよ――般若心経を本当に理解するカギとは

◆仏教経典を理解するために

心経もまた他の多くの経典と同じに、信仰個条のドグマ(教義)がありません。明治・大正・昭和の三時代にかけて、作家・詩人として知られた岡本かの子(1939年没)は、風刺漫画で知られた夫の岡本一平(1948年没)とともに、仏教思想の造詣も深く、経典の解説書も少なくありません(現代の芸術家の岡本太郎氏の両親にあたります)。

その岡本かの子さんに「仏教の経典は、ドラマです。ドラマを読むつもりで読まないと経典の意味はつかめません」という名言があります。

現に心経を読んでも、釈尊(釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ))の名は見あたりません。歴史的実在者ではない、いわばフィクションの存在である観自在菩薩(かんじざいぼさつ=観音さま)が、釈尊の高弟で実在の人物である舎利子(しゃりし=舎利弗(しゃりほつ))に空(くう)の思想を説くという構成の、規模広大な短編ドラマです。

こうした点が、すべてを論理的に理解しようとする実証主義に慣らされた現代人には理解しにくいことを、あらかじめ念頭に置く必要があります。岡本かの子が「ドラマを読むように」と注意するところです。ドラマに限りません。俳句でも同じです。

たとえば、

  風ふいて せんたくものが手をつなぐ  (『ちいさな一茶たち』グラフ社刊所蔵)

という句があります。この句は、当時、三重県新居小学校2年生の、よこおひろ子さんの作品です。実証的には「洗たく物が乾いたところを、風が吹いたので接触した」だけのことで、洗たく物が握手などするわけがありません。しかし、文字を追って読むのではなく、ドラマ風に象徴的に味わうと、さまざまなことが教えられます。

現に私が講演で、よこおひろ子さんのこの句を紹介したときのことでした。数日後に、A子さんという若い主婦から電話をもらいました。それによると、彼女がその朝、夫婦げんかをして、腹立ちまぎれに外出して、あてもなく街をぶらついているときです。たまたま私の講演会案内の立札(たてふだ)を見かけて、なにげなく会場へ入ったとたん、はからずも、よこおひろ子さんの俳句を耳にしたのだそうです。

A子さんも、その朝、洗たく物を干したことを思い出し、家出に近い気分だったはずなのに、そろそろ乾いただろうかと、つまらない連想に、ひそかに苦笑したそうです。同じ棹に夫の長袖のシャツと自分のワンピースとを並べて袖を通したことも思い出しました。今日は風が強いから乾燥するのも早いかもしれない。風に吹かれて二人の洗たく物が近寄るさまが、「風ふいてせんたくものが手をつなぐ」の幼い句にずばりと吟(よ)まれているのにびっくり。A子さんは心中に深く合点するものがあったようです。

「講演が終わると、急いで帰宅しました。そして和(なご)やかな心で夕食の仕度をし、主人の帰りを待ちました。そんな気持ちになれたのも、よこおひろ子さんの『風ふいてせんたくものが手をつなぐ』の俳句のおかげです。ありがとうございました」と、お礼の言葉でA子さんの電話は切れました。

俳句も、文字の意味だけを追って実証的に解釈したら、このように潤(うるおい)のある受けとめ方はできないでしょう。

心経の受けとめ方もまた同じです。比喩的な方法でなければ、とても表現できない深い真理が仏教思想に隠されているのですから、別の読書眼を持つ必要があります。といって、むずかしい話ではありません。経の文字や語句(言句(ごんく)という)を字の表だけでなく、よく耕(たがや)して味わうことです。不思議なことに、広い意味での詩(ポエム=和歌・俳句・漢詩など)に関心のある人は、経典の理解が早いようです。詩情(ポエジー)は実証できるものではなく、感性による体験であるところに、宗教情緒の体験と通じ合うものがあるからでしょう。私が、仏教経典を理解する一助として文学作品、とくに詩を学ぶようにすすめるゆえんです。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 生きるための杖ことば 《 聴... | トップ | セレンディビティの予感 《 ... »
最新の画像もっと見る

03-自己・信念・努力」カテゴリの最新記事