電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散『2024年8月発表:トランプ前大統領「米国を再び偉大にするための核心的公約20」』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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次にあげるのは過去の遺物とも言うべきレッテルである。このうちのどれか一つでも自分に当てはまるとしたら、それを変えたいと思うだろう。どの分野でもよいが、まったく今のままの自分でいようとするのは、死にも等しい選択をすることになる。心にとめておいてほしいのは、ここでは、ただつまらないだけでなく、多くの楽しみと、ときめきを与えてくれる行動をとらせまいとする態度について、考察しているのだという点である。
『自分のための人生』〈原題:Your Erroneous Zone(錯信帯)〉
( ウエイン・W・ダイアー/渡部昇一・訳、三笠書房 (2011/7/21)、p131 )
過去の人生を頼りに自分と言う人間を語り、過去の世界をさまよう
のは幽霊だけである。生きている自分は、今現在の存在であって、
過去の存在ではない。
4章 「きのうの自分」を超える
3 “逃げ場”をつくる決まり文句
次にあげるのは過去の遺物とも言うべきレッテルである。このうちのどれか一つでも自分に当てはまるとしたら、それを変えたいと思うだろう。どの分野でもよいが、まったく今のままの自分でいようとするのは、死にも等しい選択をすることになる。
心にとめておいてほしいのは、ここでは、ただつまらないだけでなく、多くの楽しみと、ときめきを与えてくれる行動をとらせまいとする態度について、考察しているのだという点である。
1) 私は数学に弱い、文章がヘタ、語学が苦手である
この「私は……である」は、自分が今後変わっていくのに必要な努力は払わないということの保証となる。こういう分野に関して「私は……である」を使うのは、もともとむずかしいとか退屈だとか思っていた科目をマスターするといったような、たいへんな仕事をしないですまそうというのが目的である。自分には才能がないというレッテルを貼っているかぎり、それに取り組まずにいる理由になる。
2) 私は料理、スポーツ、編み物、図画など、技術を必要とする分野が苦手である
この「私は……である」によって、将来この分野に属することは一切しなくてもよくなるし、また過去のできごとに対しても申し訳が立つ。
「私はいつもそうだったし、そういう性分なんです」
こういう態度をとると、ますますものぐさになる。それよりも重要なのは、上手にできないならやるべきではないといった、ばかげた考えを抱くようになることである。世界チャンピオンででもない限り、ヘタにやるよりしないですますほうがよいというわけである。
3) 私は内気である、気むずかしい、神経質である、怖がりである
こういう「私は……である」の根拠となるのは遺伝である。こういう「私は……である」とそれを支える自己破壊的な考え方を、疑問視するよりも、今までの状態の言い訳に親を利用するのだ。要するに、原因は親にあることを理由に自分は変わろうとしないのである。
ここにあげた例は性格に関するものだが、このように自分を定義してしまえば、自分を変えるというやっかいな問題を避けることができる。自分の性格を、都合のよい「私は……である」という表現ではっきりさせるだけで、あとは自己喪失的な態度も自分にはコントロールできないものとして弁解することができるわけである。こうして、自分自身の性格は自分で選択できるという考えを否定し、その代わりに、自分の性格として認めたくないような特徴は全部、遺伝のせいだから仕方がないとしてかたづけるのである。
4) 私は無器用である、人と同じにはできない
子供のころに覚えたこの「私は……である」のおかげで、運動がうまくないといってばかにされるかもしれないと思い悩むのを避けることができる。もちろん、うまくできないのは、この「私は……である」をずっと信じてきて、運動そのものを避けてきたせいであって、生まれつき才能がなかったせいではない。練習すれば上達するが、やめてしまっては駄目である。
いつまでも「私は……である」と言い続け、サイドラインの外側から自分をああなりたいと思いながら他人を眺めては、でも本当はああいうことは好きじゃないんだというふりをし続けることになる。
5) 私は魅力的ではない、醜い、骨太である、身体が貧弱である
こういう肉体的な「私は……である」を使うと、異性との関係であえて危険を冒す必要もないし、自分のイメージの悪さと恋愛経験のなさを正当化することもできる。こんなふうに自分自身にレッテルを貼っている以上、恋愛関係に際して自分を危険にさらさないことの言い訳をいつも用意していると言えよう。
したがって、自分を魅力的に見せようという努力もしなくてよいわけである。鏡を見て、自分にチャンスがないのはこのせいだと正当化する。ただ一つの問題は、私たちはたとえ鏡の中でも自分が見ようと思うものを見るものだ、という点である。
6) 私は忘れっぽい、不注意である、無責任である、無感動である
この種の「私は……である」が特に役に立つと思われるのは、何かうまくいかない行為に対して自分の立場を正当化したい場合である。こういう「私は……である」のおかげで、記憶力とか不注意を何とかしようと思わずにいられるし、例の「私はそういう人間です」というレッテルを貼って弁解すればすむのだ。
前述のような態度に出るときに、「私は……である」を引き合いに出しているかぎり、変わろうとする必要はまったくないわけである。いつまでもものごとを忘れてばかりいて、こればかりはどうしようもないと自分に言い聞かせていると、この先ずっと忘れっぽいままでいることになる。
7) 私はもう年である、中年である、疲れている
この「私は……である」を使うと、年齢を理由にして冒険的で危険だと思われる行動をとらなくてすむ、たとえばスポーツ大会、つれあいに先立たれたあとでのデート、旅行などの活動に際して、ただ一言「年だから」と言っておけば、何か新しい成長をもたらすような試みに伴う危険を取り除く結果となる。
この年齢に関する「私は……である」には、年齢を考えるかぎり自分はもう完成した人間だという含みがある。しかし、人間は常に年をとっていくものなのだから、これでは成長も新しい経験も終わってしまったことになる。
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散『2024年8月発表:トランプ前大統領「米国を再び偉大にするための核心的公約20」』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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次にあげるのは過去の遺物とも言うべきレッテルである。このうちのどれか一つでも自分に当てはまるとしたら、それを変えたいと思うだろう。どの分野でもよいが、まったく今のままの自分でいようとするのは、死にも等しい選択をすることになる。心にとめておいてほしいのは、ここでは、ただつまらないだけでなく、多くの楽しみと、ときめきを与えてくれる行動をとらせまいとする態度について、考察しているのだという点である。
『自分のための人生』〈原題:Your Erroneous Zone(錯信帯)〉
( ウエイン・W・ダイアー/渡部昇一・訳、三笠書房 (2011/7/21)、p131 )
過去の人生を頼りに自分と言う人間を語り、過去の世界をさまよう
のは幽霊だけである。生きている自分は、今現在の存在であって、
過去の存在ではない。
4章 「きのうの自分」を超える
3 “逃げ場”をつくる決まり文句
次にあげるのは過去の遺物とも言うべきレッテルである。このうちのどれか一つでも自分に当てはまるとしたら、それを変えたいと思うだろう。どの分野でもよいが、まったく今のままの自分でいようとするのは、死にも等しい選択をすることになる。
心にとめておいてほしいのは、ここでは、ただつまらないだけでなく、多くの楽しみと、ときめきを与えてくれる行動をとらせまいとする態度について、考察しているのだという点である。
1) 私は数学に弱い、文章がヘタ、語学が苦手である
この「私は……である」は、自分が今後変わっていくのに必要な努力は払わないということの保証となる。こういう分野に関して「私は……である」を使うのは、もともとむずかしいとか退屈だとか思っていた科目をマスターするといったような、たいへんな仕事をしないですまそうというのが目的である。自分には才能がないというレッテルを貼っているかぎり、それに取り組まずにいる理由になる。
2) 私は料理、スポーツ、編み物、図画など、技術を必要とする分野が苦手である
この「私は……である」によって、将来この分野に属することは一切しなくてもよくなるし、また過去のできごとに対しても申し訳が立つ。
「私はいつもそうだったし、そういう性分なんです」
こういう態度をとると、ますますものぐさになる。それよりも重要なのは、上手にできないならやるべきではないといった、ばかげた考えを抱くようになることである。世界チャンピオンででもない限り、ヘタにやるよりしないですますほうがよいというわけである。
3) 私は内気である、気むずかしい、神経質である、怖がりである
こういう「私は……である」の根拠となるのは遺伝である。こういう「私は……である」とそれを支える自己破壊的な考え方を、疑問視するよりも、今までの状態の言い訳に親を利用するのだ。要するに、原因は親にあることを理由に自分は変わろうとしないのである。
ここにあげた例は性格に関するものだが、このように自分を定義してしまえば、自分を変えるというやっかいな問題を避けることができる。自分の性格を、都合のよい「私は……である」という表現ではっきりさせるだけで、あとは自己喪失的な態度も自分にはコントロールできないものとして弁解することができるわけである。こうして、自分自身の性格は自分で選択できるという考えを否定し、その代わりに、自分の性格として認めたくないような特徴は全部、遺伝のせいだから仕方がないとしてかたづけるのである。
4) 私は無器用である、人と同じにはできない
子供のころに覚えたこの「私は……である」のおかげで、運動がうまくないといってばかにされるかもしれないと思い悩むのを避けることができる。もちろん、うまくできないのは、この「私は……である」をずっと信じてきて、運動そのものを避けてきたせいであって、生まれつき才能がなかったせいではない。練習すれば上達するが、やめてしまっては駄目である。
いつまでも「私は……である」と言い続け、サイドラインの外側から自分をああなりたいと思いながら他人を眺めては、でも本当はああいうことは好きじゃないんだというふりをし続けることになる。
5) 私は魅力的ではない、醜い、骨太である、身体が貧弱である
こういう肉体的な「私は……である」を使うと、異性との関係であえて危険を冒す必要もないし、自分のイメージの悪さと恋愛経験のなさを正当化することもできる。こんなふうに自分自身にレッテルを貼っている以上、恋愛関係に際して自分を危険にさらさないことの言い訳をいつも用意していると言えよう。
したがって、自分を魅力的に見せようという努力もしなくてよいわけである。鏡を見て、自分にチャンスがないのはこのせいだと正当化する。ただ一つの問題は、私たちはたとえ鏡の中でも自分が見ようと思うものを見るものだ、という点である。
6) 私は忘れっぽい、不注意である、無責任である、無感動である
この種の「私は……である」が特に役に立つと思われるのは、何かうまくいかない行為に対して自分の立場を正当化したい場合である。こういう「私は……である」のおかげで、記憶力とか不注意を何とかしようと思わずにいられるし、例の「私はそういう人間です」というレッテルを貼って弁解すればすむのだ。
前述のような態度に出るときに、「私は……である」を引き合いに出しているかぎり、変わろうとする必要はまったくないわけである。いつまでもものごとを忘れてばかりいて、こればかりはどうしようもないと自分に言い聞かせていると、この先ずっと忘れっぽいままでいることになる。
7) 私はもう年である、中年である、疲れている
この「私は……である」を使うと、年齢を理由にして冒険的で危険だと思われる行動をとらなくてすむ、たとえばスポーツ大会、つれあいに先立たれたあとでのデート、旅行などの活動に際して、ただ一言「年だから」と言っておけば、何か新しい成長をもたらすような試みに伴う危険を取り除く結果となる。
この年齢に関する「私は……である」には、年齢を考えるかぎり自分はもう完成した人間だという含みがある。しかし、人間は常に年をとっていくものなのだから、これでは成長も新しい経験も終わってしまったことになる。