電脳筆写『 心超臨界 』

真実はつねに刺激的 だから真実を語れ
真実のない人生では退屈である
( パール・バック )

セレンディビティの予感 《 歴史というものは虹のようなもの――オーウェン・バーフィールド 》

2024-08-16 | 04-歴史・文化・社会
電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
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生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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  セレンディピティ(英語: serendipity)とは、素敵な偶然に出会ったり、
  予想外のものを発見すること。また、何かを探しているときに、探して
  いるものとは別の価値があるものを偶然見つけること。平たく言うと、
  ふとした偶然をきっかけに、幸運をつかみ取ることである。
  [ ウィキペディア ]


自分がいま生きている時代は
歴史としてながめることはできない
( ジョン・W・ガードナー )
History never looks like History
when you are living through it.
( John W. Gardner, American author, 1912-2002 )


◆歴史とは虹のようなもの

『渡部昇一の 日本史快読!』
( 渡部昇一 ワック出版、p16 )

だいぶ昔のことになるが、ロンドンの大英博物館の近くにある小さな古書店で、オーウェン・バーフィールドという言語学者の書いた一冊のペーパーバックを偶然に見つけた。

(中略)

その最初のほうに、こういう趣旨のことが書いてあった。

「歴史というものは虹のようなものである。それは近くに寄って、くわしく見れば見えるというものではない。近くに寄れば、その正体は水玉にすぎない」

この文章にぶつかった時、私はそれまで歴史というものに関してなんとなくモヤモヤしていたものが一挙に整理され、分かったような気がした。

たしかに、虹というものはふつうの存在とは違う別種のものである。誰もが虹をみたことがあり、それが存在するという事実を知らない人はいない。しかし、その正体を調べようとすれば、分からなくなってしまうのが虹なのである。遠くから見えてはいても、近づいて検証しようとすれば、そこには単なる水玉しか存在しない。これはいったい、どういうことであろうか。

バーフィールドは、文豪ゲーテの『色彩論』(1810年)のほうが、ニュートンの「光学』(1704年)よりも虹の現象をよく説明するとしている。

ニュートンが光を客観的物理現象としてのみ分析したのに対して、優れた自然研究家でもあるゲーテは、「色彩は、その色を見る人間があってはじめて成立する」という視点を導入し、天然色を扱う現代の光学の基礎を作った。

これを歴史に例えてみると、なるほどと思い当たることが多い。

虹は、見る人から一定の距離と角度を置いた時に初めて、明瞭に見える。逆に言えば、その距離と角度が適当でなければ虹は見えない、ということである。同じ時間に空を見ていながら虹を見なかった人は、いた場所が悪かったか、あるいは虹に近すぎたからに外(ほか)ならない。

それでは、歴史における水玉というのは、個々の歴史資料や個々の歴史的事実と言ったものであろう。だが、こういった歴史的事実を集めてみても、その観察者の立っている場所が悪ければ、歴史の実像はいっこうに見えてはこないのである。

見る側の人間がいなければ、虹と同様で「歴史」は存在しない。いわゆる客観的なものは個々の「史実」だけであり、それはあくまでも虹における水滴のごときものである。たとえば、この前の戦争、すなわち第二次世界大戦の歴史を考えてみれば分かるであろう。


◆ジョルジュ・スーラの点描

『日本開国』
( 渡辺惣樹、草思社 (2016/6/2)、p253 )

歴史とは何か。多くの資料を探索し文章に落とす作業を続けながら、この疑問が脳裏から離れたことはありませんでした。確かに諸事件の関連を考察し、未来を見つめる鑑(かがみ)となるものが歴史です。しかし、その事件を記録した資料は事実を語っているのだろうか。

同様に文字に残されなかった出来事も歴史のはずです。それをどう扱ったらよいのかも厄介な問題です。江戸中期、貨幣改鋳でその流通量を経済の発展に見合って増やしデフレを防いだ萩原重秀(しげひで)。商業を重視し、輸出増加に腐心し、また北方の国防にも関心の高かった田沼意次(おきつぐ)。どちらも多くを語らないまま失脚していきました。彼らの実像はその後、権力を握った新井白石や松平定信(さだのぶ)の文章で相当に歪められているはずです。

語られたことも、全てが正しくはなく、語られなかったことにも、たくさんの真実があるらしい。タウンゼント・ハリスの孤独をテーマに資料収集し精読するなかで、いつまでも続く悩みでした。そんなときにふと思い出したのがジョルジュ・スーラの点描でした。

スーラは後期印象派に属するフランスの画家です。点描表現を得意としています。彼の作品でもっとも有名な「グランド・ジャット島の日曜日の午後」はシカゴ美術館に所蔵されています。この作品は一般にもよく知られています。実際に美術館に足を運んで実物に接すると、その作品の大きさに圧倒されます。教科書などに収まったグラビア印刷からはおよそ想像がつかないパワーが、見る者を圧倒します。縦2メートル、横3メートルのキャンパスに丹念に落とされたカラフルな点の数々。のんびりしたセーヌ河畔の日曜日を豊潤に表現しています。

この大作に向かい合うには、画面にかぶりついたら負けてしまいます。作品と十分に距離をおかなければなりません。ゆっくりと後ずさりしていくと、カメラの焦点が合うように最適な立ち位置がわかってきます。近すぎると無機質な無数の点が目にざらついてしまいます。歴史を書くという行為の難しさに打ちのめされそうになったとき、この作品にピントを合わせたときの記憶が蘇りました。
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1 コメント

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歴史はいい加減 (養老の滝)
2006-09-12 17:11:01
私は歴史なんてまったく信じていません。

広島に行き原爆資料館等は見ましたが、本当に原爆が落ちたのか否かは私は知らない。なぜなら、落ちた瞬間その場にいませんでしたし、死んだ人も見ていませんから。

人間が言葉にすると結構いい加減なもんですよ。

イラク戦争にしてもなぜ起きたのか、はっきり分かりませんし。原因が分かっていると思う人は、勝手にそう思い込んでいるだけですね。情報が発達している現在でもよく分からないのに、さらに過去の出来事になると、もっといい加減になる。

歴史において重要で最も知りたいと思うのは、なぜ「ユダヤ人は大量虐殺されなければならなかったのか」なぜ「中国人は日本人に殺されなければならなかったのか」、なぜ「フランスの移民はフランス人によって差別されるのか」などですね。

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