電脳筆写『 心超臨界 』

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( マルセル・プルースト )

読む年表 古代~中世 《 源頼朝挙兵――渡部昇一 》

2024-07-17 | 04-歴史・文化・社会
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福原(ふくはら)の新都にいた平清盛は頼朝追討軍5千余騎の派遣を決め、9月22日、福原を出発せしめた。進軍の途中で兵を募り、駿河国(するがのくに)に着いたときにはおよそ5万の軍勢となっていた。頼朝はこれを迎え撃つべく、20万とも言われる大軍を率いて鎌倉を発した。駿河の黄瀬川(きせがわ)まで来たときに、奥州の藤原秀衡(ひでひら)の保護を受けていた弟の源義経が駆けつけて、有名な兄弟の対面を果たす。かくして頼朝の大軍と平維盛(これもり)率いる陛下の軍勢は、富士川で相まみえることになる。ところが、平家は一戦も交えずに逃げ出してしまった。


◆源頼朝挙兵

『読む年表 日本の歴史』
( 渡部昇一、ワック (2015/1/22)、p58 )

1180(治承4年)
源頼朝挙兵
「以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)」と「平家の夢の醒(さ)めはじめ」

平家に恨みを抱いていた源三位(げんさんみ)源頼政(みなもとのよりまさ)が、同じく平清盛の専横(せんおう)に不満を抱いた以仁王を担いで治承(じしょう)4年(1180)、平家追討の兵を挙げた。

時期尚早だったこともあって、以仁王も頼政も宇治で討たれ、平家打倒は失敗に終わった。しかし、このとき全国の源氏に以仁王の「平家追討の令旨」が発せられたことが諸国に雌伏する源氏の蜂起を促した。平家滅亡の端緒となった。

この以仁王の令旨を、源頼朝も、その従弟の源(木曾)義仲(よしなか)も受け取った。

頼朝はしばらく静観していたが、京都にいる三善康信(みよしのやすのぶ)から、「以仁王の令旨の件が京都で露見したから、奥州の藤原氏を頼って逃げるように」という手紙が届いた。しかし頼朝は逃げるよりも戦うことを選び、父義朝の時代から縁故のある関東の豪族たちに挙兵を呼びかけた。

頼朝はまず伊豆を支配している山木兼隆(やまきかねたか)を討つことに成功したが、相模国(さがみのくに)石橋山(現小田原市)の戦いで、大庭景親(おおばかげちか)率いる平家側の大軍に頼朝軍は大敗する。

頼朝は箱根から真鶴に出て、船で房総に逃れ、安房(あわ=現千葉県)であらためて源氏の兵を集めた。このとき、上総(かずさ)の平広常(たいらのひろつね)が2万の大軍を引き連れ、遅ればせながら参陣した。さぞかし頼朝が有難がるだろうと思っていたら、「なぜいまごろ来るのか」と、逆に広常は怒鳴りつけられた。石橋山の戦いで負けて逃げてきたにもかかわらず、大軍を連れてきた大将を叱りつける毅然とした態度に、場合によっては頼朝に背く気でいた広常も、「さすがに源氏の棟梁である。これは大物だ」と感じ入って、忠誠を誓うことになった。

この時期の動きを見ると、源氏の正統であることがいかに重要であったかがわかる。頼朝の身に備わった、源氏の棟梁としての資質と自然な威厳に大軍がついてきたのである。

福原(ふくはら)の新都にいた平清盛は頼朝追討軍5千余騎の派遣を決め、9月22日、福原を出発せしめた。進軍の途中で兵を募り、駿河国(するがのくに)に着いたときにはおよそ5万の軍勢となっていた。

頼朝はこれを迎え撃つべく、20万とも言われる大軍を率いて鎌倉を発した。駿河の黄瀬川(きせがわ)まで来たときに、奥州の藤原秀衡(ひでひら)の保護を受けていた弟の源義経が駆けつけて、有名な兄弟の対面を果たす。

かくして頼朝の大軍と平維盛(これもり)率いる陛下の軍勢は、富士川で相まみえることになる。ところが、平家は一戦も交えずに逃げ出してしまった。

富士川にいた多くの水鳥の羽音を夜中に聞いた維盛の軍勢は、源氏の大軍の総攻撃が始まったと思い込み、あわてふためいて武器も食料も放り出したまま、われ先に逃げてしまったのである。まさに、このときの敗戦が平家の栄華の夢の醒めはじめであった。
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