電脳筆写『 心超臨界 』

天才とは忍耐するためのより卓越した才能に他ならない
( ルクレール・ビュフォン )

活眼 活学 《 石を描いて造化の永遠を見る――安岡正篤 》

2024-09-08 | 03-自己・信念・努力
電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■緊急拡散『2024年8月発表:トランプ前大統領「米国を再び偉大にするための核心的公約20」』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


石というものは生命の最も原始的形態、従って造化の永遠の相を最もよく象徴するものであります。それからだんだん植物になり動物になり、人間になるほど、造化というものから、見ようによっては派生してきているのである。従って、最も深く造化に徹しようとすれば、結局人間よりも竹石というようなものに趣味が及ぶのでありましょう。これらの点は、東洋の最も深い哲学及び芸術の問題であります。


『活眼 活学』
( 安岡正篤、PHP研究所 (1988/06)、p66 )
[1] 活眼・活学
4 日本人の心

◆石を描いて造化の永遠を見る

絵画などを見ましても、西洋の絵は、多く自然より人間を描いております。ルネッサンスの巨匠の作品を御覧になっても、やはりもっぱら人間を描いております。自然は単にその背景にとどまっております。また絵の習作をいたしましても、普通まず裸体画から始めます。あれが本当に描けるようになって参りますと、堂に入ったものであります。

ところが東洋の絵画、殊に文人画などを見ますと、人間を通じて自然を描いておる。自然というものの中に尊い個性を発見するというふうになっております。それで詩・書・画というものが文人画においては統一され、詩は詩、絵は絵、書は書というように分離しない。絵の稽古を始めますにも、まず石から描き始める。石が本当に描けると、これは一つの至れるものであります。

骨董でもそうであります。これは私の独断かも知れませんが、結局書画をいじる、骨董をいじるということは、石をいじるということになりますまいか。石を愛するということが、我々の至れる境地と言えないこともないと思います。詩などを見て参りましても、絵を見て参りましても、結局石を愛するというような心が詩の極致であり、絵の極致であるのではないか。

有名な清初の鄭板橋、花や竹は描いてよく人に与えておりますが、石はめったに描かない。描いても容易に人に与えておらない。彼の集を見ましても、自分に石の友達が三人ある。これらの人間でなければ、わしの石の絵は分からぬといって、石の絵を大事にしております。

石というものは生命の最も原始的形態、従って造化の永遠の相を最もよく象徴するものであります。それからだんだん植物になり動物になり、人間になるほど、造化というものから、見ようによっては派生してきているのである。従って、最も深く造化に徹しようとすれば、結局人間よりも竹石というようなものに趣味が及ぶのでありましょう。これらの点は、東洋の最も深い哲学及び芸術の問題であります。

それから、我々の使っておる文字です。文字を見ますのに、西洋の文字も東洋の文字も、その源にさかのぼって考えますと、同じ要求から発しております。子供が自由画を描きますように、原始人が自然にこれを生み出してきたものであります。

ところが西洋の文字は、その後だんだん、我々の思想伝達の符牒として、記号として発達して参りました。それに対して東洋の文字、殊に我々の使っておりまする漢字というようなものは、我々の絵画的趣味、我々の心境を表現しようとする要求、こういうものが複雑に働き統一含蓄されて、そこにああいうものができたのであります。

漢字の中でも、最もそういう性質の複雑なものである会意文字というものがあります。これが実に面白い。西洋人が概念的・理想的に展開するものを一字中に含蓄、黙示しておるものが、この会意文字であります。

例えば、人がおのずからにして言語を発することほど、やむにやまれぬことはない。我々の生命が延びてくる時に言語を発してくる。だから人偏(にんべん)に「言」を書いて、「まこと」「のぶ」――「信」という字ができておる。

ところが人間の口から出るものは、人が自然を失わない間は宜しいけれども、だんだん偽りが盛んになってくると、人間の口から出るもの必ずしも信じられない。ただ士の口、即ち身分教養のある人――このごろはそれもあてになりませんが、まず本来人格者の口から出るものはあてになる。そこで「士」という字と「口」とを合わせまして「吉」という字ができておる。

いつわり、「偽」という文字も面白い。これは「人が為す」と書いてつまり、「人為」を表わしておるわけであります。人為が過ぎると偽(うそ)になる。

人間を檻の中に入れると囚人です。原始的感情からいいますならば、まことに憎むべきで、殺してしまえばよいものを、それにも飯を食べさせてやる。即ち囚人の「囚」という字の下に「皿」という字をつけ、湯茶、水も飲ませてやる。即ち三水偏(さんずいへん)をつける。そうすると「温(*)」、あたたかいという文字になる。

  ブログ註(*):実際の文字では「日」ではなく「囚」。

そうして、その囚人に茶や食物を与えるだけでなく。何故こういう悪いことをし罪を犯したか、とその「温(*)かい心」からたずねてやる。そこでこの「温(*)」という字を「たずねる」と読む。「温(*)故知新」、「故(ふる)きを温(*)ねて新しきを知る」というように「たずぬ」と読む。即ちこの「温(*)」という一字が、犯罪とは何であるか、刑罰とは何であるか、何のために犯罪者に刑を課するかという刑法学の根本問題にふれておるわけであります。

「國」という字を例に引きましても、あの囲みの中の下の「一」は土地で、その上が即ち一区画、従ってそこに人間が入る。「戈」は力であり防衛であります。それで「國」という字の中の「或」の字だけで昔は「くに」と使っておったのであります。ところがそういう「或(くに)」がたくさんできてくる。従ってそこに国境が生まれる。そこで大きな枠をつけまして、今使っておる「國」という字ができたわけであります。我々が国法学や国家学を学びますと、国家とは何ぞやという定義にぶつかりますが、そうすると国家には三要素がある。土地と人民と主権者、権力服従関係であるなどとありますが、そういう国家の三要素は、この「國」という一字にちゃんと含まっておるわけであります。

武とは何であるか、「武」は「戈」という字と「止」という字から成っておる。「戈」というものは生命を断つものとして凶器といわれておる。戦争は一番の罪悪で生命を殺戮する。大きく言えば造化に反する。この宇宙人生は絶えざる生成化育である。その点から言って、殺生は一番根本的な罪悪である。これを止める。即ち人間を虐げるところの邪悪を止める努力、これが即ち「武」という文字になっておるのであります。

あるいは、人々が経験する通り、ものを明らかに見通そうと思うと、高い所に登らなければならない。「千里の目を窮めんと欲す、更に登る一層楼」という有名な句がありますが、その「高」という字の下に、人間が歩いておる格好であります前足をあげて後足を跳ねた文字をつけますと、「亮」という字ができます。「あきらか」という字、これは物を高いところからあきらかに見通すという文字でありまして、そこで初めて人の指導もできる。あっちへ行きなさい。こっちへ行ってはいけないと指導もできる。そこで「亮」――あきらかという字を「たすける」と読む。

こういうふうに文字を見て参りますと、東洋独特の含蓄、統一性ということをよく呑み込むことができましょう。それだけ漢字は難しい。難しいから不便である。文化を遅らす。何とかしなくてはならんということになって、このごろでは文字がだんだん表音の文字を尊ぶようになってきておるのでありますが、それはそれとして、文字、我々の使っておる漢字そのものを見ると、こういう非常な深い意味があります。

これから更にいろいろな実例を引きまして、東西の個性特質の相違を見ながら、少しく民族とか人生とかいうものを説明いたしましょう。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 論語 《 麻冕は礼なり。今や... | トップ | 人間学 《 「乱世の学」と「... »
最新の画像もっと見る

03-自己・信念・努力」カテゴリの最新記事