電脳筆写『 心超臨界 』

今日あなたはあなた自身である
それは真実を超えた真実
あなた以上にあなた自身である者などいない
ドクター・スース

「無神論者」でなくて、「無信論者」と思うことにしている――森毅

2022-09-03 | 03-自己・信念・努力
電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく次世代へつなぎたいと願っております。
その願いを実現するために有効と思われる記事を書きためてきました。
本ブログは19年に及ぶ私の記憶データを収納した貯蔵庫(ラヤ)です。
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ユングが唱えた「集合的無意識」を顕在化できるかもしれません。

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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き本来の日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する。
( 心が臨界質量を超えるとは → http://tinyurl.com/5kr6f
( 東京裁判史観とは → https://tinyurl.com/ugz9qah
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《 注目の論点 》
ミッドウェー海戦――渡部昇一
マッカーサー証言――渡部昇一
世界を共産化しようという勢力――馬淵睦夫
同胞に石を投げるな――田中正明
盧溝橋事件「停戦協定」の真実――藤岡信勝
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政党に肩入れせずに、それでも政治に関心があるというのは、このごろ流行の無党派。宗教に関心があっても無宗派というのと似ている。どの教団にも帰属せずに、関心だけ持つというのは、つまりは不信心ということで、神も仏も拝んだ記憶がないが、「無神論者」でなくて、「無信論者」と思うことにしている。考えてみれば、〈信〉というのが、苦手な性格なのだろう。


「心の時代を生きる」
( 文藝春秋SPECIAL、p120 )

◆無神論者にとっての宗教
 森毅 評論家・京都大学名誉教授

湯川秀樹さんに言われたことがある。

「森君は、輪廻転生(りんねてんしょう)を信じへんやろ。そら楽観論やで。死んだらブタに生まれ変わるかもわからん」

もっとも、その話を柄谷行人にしたら、そのころ奥さんの冥王まさ子さんは占星術にはまっていて、彼女の説では湯川さんはブタにはならん星にあるそうだったけれど。

転生論を否定するのではない。中学校で一年下にいた手塚治虫の漫画では、ミジンコに転生したりするが、ミジンコならまだしも、ノロウィルスになったりしたら、ウィルスの意識なんて、見当もつかぬ。それでも、ウィルスに意識があったら、地球生命をどう考えているかと空想するのが、転生説のよいところ。どうも仏教的ですかな。

もっとも、死ぬということは、定義として永遠に意識がなくなることだから(肉体の脳死か心臓死かはともかく)、ぼくは意識死論者だ。意識とはなにかと問われるとこまるけれど、死者の意識は認めないことにしている。孔子さんにあやかっているようだが、お釈迦さん本人もいくらかそんなところがある。それより、せっかく死があるのに、霊がそのまま残っていたら霊界がこみあって困る。どんどん生まれるためには死んだら消えることにしたほうがつりあいがとれる。

生きているときだって、意識というものが、昨日と今日でつながっているか、あやしい。少なくとも、その間の眠っているときは意識がないし、貧血を起すぐらいでも意識はなくなるが、それでも生きている。昨年から、数字を埋めるパズル(「数独」とか「ナンプレ」とか呼ばれているもの)に少しばかりはまっていて、六つ星ぐらいなら解けるが、七つ星はてこずることが多い。そのうち眠くなって寝てしまって、朝起きると簡単に解けたりする。眠りながら考えたはずもないし、神様が教えてくれたのかもしれぬ。数学でも、よくある話。

フランス映画好きの若者だったころは、ルイ・ジューヴェやフェルナンデルの神父さんにはまっていた。ミステリーを読みあさっていたころは、神父やラビが主人公の物語が好きだった。彼らがどう考えているか気になるので、アキナスやアウグスティヌスを読んだ。思想史のセクトがようわからんので、せめてヘルメット学生のセクト程度に判別したいと思ったが、どちらもまだわからん。

生身でつきあう人では、日本にいるから、お坊さんと話をするのが好きだ。文化講演をたのまれて、比叡山とか東大寺とか、大きなお寺に行くときはお坊さんと話をするのがたのしみ。京都にいるので、醍醐寺とか大覚寺とか高台寺とか天龍寺とか、いろいろ行った。楽しんだけれど、宗派はさっぱりわからん。

教団というのが苦手なんでしょうな。それで宗教がひろがるのだから、しかたないけれど。厳粛な儀式というものも苦手で、子どものときから、なぜか笑いたくなるのが不思議だった。『薔薇の名前』の気分。

それでいて、古いお寺や神社(明治になって仏教と神道を分離したので不便)で、心を休めるのが好きだ。学生のころも、下宿の近くの法然院へよく出かけた。お詣(まい)りのほうはパスしているのだから、不信心なのだが、つまりは、その場所と、そこにいる人が好きなのだと思う。

政治家にも宗教家にもなろうとは思わぬが、彼らとつきあうのは好きだ。政党に入るともっと政治がわかろうが、自民党員で同時に共産党員であったりすると、スパイと弾劾されるのが困る。それと同じで、仏教の僧侶で同時にカトリックの神父にはなれない。

キリスト教史とかの本も、つい、買ってしまう。政党に肩入れせずに、それでも政治に関心があるというのは、このごろ流行の無党派。宗教に関心があっても無宗派というのと似ている。

どの教団にも帰属せずに、関心だけ持つというのは、つまりは不信心ということで、神も仏も拝んだ記憶がないが、「無神論者」でなくて、「無信論者」と思うことにしている。考えてみれば、〈信〉というのが、苦手な性格なのだろう。

たぶん、なにかを信じたがる人のほうが多いと思う。それが水や石であってもそのおかげでお寺がある。信心ぶかい人にも、信心が苦手な人にも、好ましい人柄の人がいるから、それは別なのだと思う。なによりも、信者のおかげで、心やすまる場所を楽しみ、そこに住む人の人柄に触れることができる。

信心を持たずに信者の作ってくれた結果だけを楽しむのはタダノリと非難されるかもしれぬが、宗派的中立を維持するためには、非難を甘受するよりない。なんだか政治的中立を維持しようとしている日本の国際的立場に近いけれど、これだってタダノリという非難を覚悟するよりあるまい。

ついでに、お祭りや縁日も大好きだ。これだってタダノリだろう。エンターテインメントとしての宗教。楽しくなくっちゃ、宗教じゃない。
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