電脳筆写『 心超臨界 』

偶然は用意の出来ている人間しか助けない
( ルイ・パスツール )

生きるための杖ことば 《 一口吸尽西江水――松原泰道 》

2024-07-07 | 03-自己・信念・努力
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禅師は答える。「なんじが一口に西江の水を吸尽せんを待って、すなわちいわん――龐(ほう)さんよ、君があの西江の水を一口に飲みほしたら教えてあげよう」と。この答えで龐居士はさとったという。西江の水という固有名詞に意味があるのではない。自然・人生すべて自分と相対する存在と一枚に溶けこんだ心の境地を象徴する。絶対といっても相対に対する絶対なら、やはり「侶(とも)」関係だ。侶関係の相対絶対をひっくるめた絶対の孤独の「一」である。


◆一口吸尽西江水
 一口(いっく)に吸尽(きゅうじん)す西江(せいごう)の水――碧眼録(へきがんろく)

『生きるための杖ことば』
( 松原泰道、全国青少年教化協議会 (2001/04)、p186 )
  
龐居士(ほうこじ)は、8世紀の中国における在家の禅の巨人である。儒教のすぐれた学者であったが、のちに禅門に入る。禅思想史上でもインドの維摩(ゆいま)、中国の龐とならび称された。この龐居士が馬祖道一(ばそどういつ)禅師に、「万法(まんぽう)を侶(とも)たらざる、これ什麼人(なんびと)ぞ」と問う。

万法とは、すべての存在や現象のこと。侶は、一つの存在や現象があると、必ず対蹠(たいしょ)的に考えられる存在を指す。例えば自然界では花には鳥、山には川、人間の社会なら、男に対する女、善人に対する悪人が相対的存在だ。形而上の美と醜、楽と苦などいずれにも対立的に想起される。こうした存在が「侶」である。

おもうに、人間の苦悩は、こうした相対関係のどちらか一方に偏向し執着するところから生じる。したがって、私たちが本当に心の安らぎを得るには、相対しあう二元的関係を超えた絶対「一」の存在が必要となる。そういう人格が一体あるのか無いのか。すなわち「万法と侶たらざる、これ什麼人ぞ」との問いとなる。

禅師は答える。「なんじが一口に西江の水を吸尽せんを待って、すなわちいわん――龐さんよ、君があの西江の水を一口に飲みほしたら教えてあげよう」と。この答えで龐居士はさとったという。

西江の水という固有名詞に意味があるのではない。自然・人生すべて自分と相対する存在と一枚に溶けこんだ心の境地を象徴する。絶対といっても相対に対する絶対なら、やはり「侶」関係だ。侶関係の相対絶対をひっくるめた絶対の孤独の「一」である。

千利休(1591年没)は、大徳寺の古渓和尚に参禅して、この「一口に吸尽す西江の水」の語でさとりを開いたという。西江の水をつめて「西江水(せんごうすい)」と読むこともある。「たたえたる茶の色のみか一口に空のみどりも海のみどりも」の緑一色に、茶・空・海の「侶」関係が止揚されている。
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