電脳筆写『 心超臨界 』

もっとも残酷な嘘の多くは沈黙の中で語られる
( ロバート・ルイス・スティーブンソン )

悟りとは大いなるうなずき―松原泰道禅師

2024-08-09 | 03-自己・信念・努力
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仏教に「縁覚(えんがく)」という言葉があります。これは何かが縁(契機)となって、目覚めること、「ああ、そうだったのか」と深くうなずくことです。箒で庭を掃いていた香巌は、小石が竹に当たる音を縁として、心の深いところで、大きくうなずき、何かを感じたのです。私は、これを「静かなる心の爆発」と申します。そういう心の爆発を、香巌はそのとき経験したのです。


『人生をささえる言葉』
( 松原泰道、主婦の友社 (2001/05)、p108 )

29 香巌撃竹(きょうげんげきちく)――『景徳伝燈録(けいとくでんとうろく)』
  悟りとは大いなるうなずき

中国唐代の香巌智閑(きょうげんちかん)和尚は、経典も深く研究した聡明博識な僧でした。その香巌が、あるとき、師の偽山(いざん)和尚から、「父母未生以前(ふぼみしょういぜん)の一句を言ってみよ」と問われ、ついにこれに答えることができませんでした。

「父母未生以前の一句」とは、父母が生まれる前の一句、ということですが、この「父母」は両親ということではなく、禅では「二見(にけん)」といって、物事を二つにわける考え方、相対的な考え方のことをいいます。善悪、白黒、美醜、といった考え方です。ですから「父母未生以前の一句を言え」とは、二見以前の一句、ということで、善悪や是非にとらわれない、その根源的な心を言ってみよ、という難解な問いです。

たびたび申し上げていますが、禅では二見に分けることを非常に嫌います。物事を二つに分けて見ると、必ずどちらかが好きで、どちらかが嫌いだという好悪の感情が出てきます。好悪の感情が出てきますと、それに執着してとらわれてしまい、正しい判断ができません。こういう意味で、二見に分ける考え方を嫌うのです。

西洋哲学が、アウフヘーベン(止揚(しよう))といって、二者に分れているものをより高い立場で統一するという考え方に対し、禅は、逆に、二つに分かれる以前の状態、本源に返る、という考え方をするのです。

さて、香巌は、非常に学のある人ですが、師の問いについに答えることができず、それまで読んだ経典や解説書類をすべて焼き捨てたという逸話が伝わっています。ここは注意すべきで、学問を軽視するのではなく、学問にとらわれることを戒める意味です。一度学問を捨てて、修行に励み、それから再び学ぶことにより、深い価値を発見することが肝要なのです。

「父母未生以前の一句」の公案が解けなかった香巌は、師の偽山を恨みに思いながら、山を下ります。そして、香巌の尊敬する慧忠(えちゅう)国師の墓のある武当山(ぶとうざん)に入り、そこで師の墓守をしながら残された人生を送ろうと決意します。

ある日、庭を箒で掃いておりますと、小石が飛んで、藪の竹に当たって音がしました。その音を聞いて、香巌はハッと悟るものがあった。何だ、そうだったのかと、香巌は自分を突き放した師の偽山のいるほうに向かい礼拝いたします。

竹に石が当たったという現象が重大なのではありません。そのきっかけが心の眼を開かせたことが大切なのです。

慧忠国師は、前に出ました「無情説法」を創唱された方です。感情や意志のない天地自然が説法をするとはどういうことか、という公案ですが、おそらく香巌も、墓守をしながら、この公安に真剣に取り組んでいたに違いありません。

仏教に「縁覚(えんがく)」という言葉があります。これは何かが縁(契機)となって、目覚めること、「ああ、そうだったのか」と深くうなずくことです。箒で庭を掃いていた香巌は、小石が竹に当たる音を縁として、心の深いところで、大きくうなずき、何かを感じたのです。

私は、これを「静かなる心の爆発」と申します。そういう心の爆発を、香巌はそのとき経験したのです。

香巌が、その竹の音で何を悟ったかは、彼にしかわかりません。大切なことは、常に求めつづけるということです。求めつづけていくことで、深いうなずき、感動、感激が得られるのです。現代人には、この感動、感激がない。感動や感激がないから、驚きもない。感動や驚きのないところに、いい芸術は生まれません。

結局、そういう「耳」や「目」のはたらきが大切なのです。それは、「心の機能の開発」と言ってもいいでしょう。心の機能を開発することで、新しいものが見え、聞こえてくるのです。

そのためには、カメラのように、ちょっと角度(アングル)を変えて物を見ることが必要です。そうすることによって、視野が広がり、それまで見えなかったものが見えてきます。

あるいは、トンボのような「複眼」的な見方をするのです。複眼、つまりたくさんの視点を持って、物事を立体的に見るのです。もちろん、見るだけではなく、ものを複眼的、立体的に考えることが大切です。

ニュートンが「万有引力」を発見したのも、彼が常に問題意識をもって、複眼的思考でものを考えていたからです。りんごが上から下に落ちる、というのは誰もが経験する当たり前な自然現象で、誰も不思議を感じなかったのです。しかし、ニュートンは、その当たり前の事実に不思議を感じ、ついに「引力」を発見したのです。

香巌もまた、竹に石が当たるカーンという音から、ついに「父母未生以前の一句」の本当の意味を理解しました。竹に石が当たることが重要なのではありません。そのことによって、何を感じ、どんな深いうなずきを得たかが大切なのです。

ただ、ここで一つ言っておきたいことは、禅にはものの見方や考え方に一定の解答はないということです。科学や数学のように、一定不変の解答というものはないのです。その人、その時により、答えが違ってくる。しかも、今日の答えが明日変わることもあるのです。常に流動的です。

「百尺竿頭(ひゃくしゃくかんとう)に一歩を進む」という語がありますが、百尺の竿頭に至れば、もうそれでいい、というのではなく、さらに一歩を進めることが大切です。私は、それを「プラスの無常観」と言っています。「無常」、つまり常なるものはないという見方、考え方ですが、しかしそれは虚無的なマイナスの無常観ではなく、今日よりは明日、明日よりはあさってと成長して進歩していく、プラスの無常観です。

「悟り」とは、大いなるうなずきのことです。頭で理解するのではなく、心の底から「ああ、そうだ」とうなずくことです。

香巌もまた、竹に石が当たる音を聞いて大いなるうなずきを得たのです。それは、香巌が厳しい修行を通して、常に何かを求めていたからです。

とにかく常に求めつづけるという姿勢が大切なのです。
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