『幸せなひとりぼっち』を渋谷のヒューマントラストシネマで見ました。
(1)スウェーデンで大ヒットした作品というので、映画館に行きました。
本作(注1)の始めの方は、スーパーで男(オーヴェ:ロルフ・ラスゴード)が花を持ってレジに進みます。
レジ係が「50クローネです」と言うと、オーヴェは「クーポンを使えば35クローネのはずだ」と咎めます。
それに対して、レジ係が「1束なら50クローネで、2束なら35クローロネになります」と答えると、オーヴェは「おかしい、店主を出せ」と怒りますが、レジ係が「店主はランチ中です」と言うので取り付く島もありません。
次の場面は、墓地にある妻・ソーニャ(注2)の墓に2束の花を捧げるオーヴェ。
オーヴェは「商品1つの価格が商品2つの価格より高いのはおかしいだろう?2つの花束を持ってくるのは今回だけだ」と墓に向かって話しかけます。
そこでタイトルが流れます。
次の場面では、オーヴェが自宅を出て近所を歩いています。
道路に煙草の吸殻が落ちていると、彼はそれを拾います。
また、置かれている車のナンバーをノートに書き入れたり、ゴミ捨て場を見て、分別の仕方の誤りを正したりします。
さらには、砂場に入って、砂の中に潜っているおもちゃを引き出したりもします。
彼は、今では自治会長ではないのですが、その時と同じように町内の見回りを行っているようです。
今度は、オーヴェが働いている会社の事務所。
会社の若い幹部から、「ここで何年働いています?」と尋ねられ、オーヴェは「43年」と答えます。するとその幹部が、「提案があります。あなたはまだ59歳。他の仕事をしてみてもいいのでは?」と言うので、オーヴェは「まさかクビに?」と驚くと、幹部は「あなたに合ったプログラムを紹介します」と言うのです。
打ちひしがれたオーヴェが「ただ出ていく方が簡単では?」と言うと、幹部は「餞別があります。ガーデニング用のスコップです」と言って、彼にそれを手渡します。
こんなところが本作の始めの方ですが、さあ、これから物語はどのように進展するのでしょうか?
本作は、愛する妻に先立たれ、子供もおらずひとりぼっちになってしまったにもかかわらず、相変わらずの頑固ぶりを発揮するために、一層周囲から孤立してしまった男が、隣人との関係を通じて少しずつ変化していく様子を描いています。そして他愛ないエピソードばかりながら、ほどよいユーモアが散りばめられていて、まずまず楽しく見ることができました。
(2)本作は、クマネズミにとっては『ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女』(2010年)以来のスウェーデン映画であり、さらにはスウェーデン映画史上3番目の観客動員数(注3)だということで、とても興味がありました。
確かに、ユーモアのあるシーンが随所にありますし、またオーヴェとソーニャ(イーダ・エングヴォル)の出会いから一緒に生活するに至るラブストーリーも初々しくて好感が持てます(注4)。
また、隣に来た一家、特に妊娠しているイラン人の妻・パルヴァネ(バハ―・パール)とオーヴェとの交流の描き方はなかなか興味深いものがあります(注5)。
もっと言えば、妻の墓のところで、オーヴェが妻に語りかける話もなかなか味わいがあります(注6)。
それにしても、本作の主人公のオーヴェについて、公式サイトの「イントロダクション」で「希望を見出せなくなった頑固な老人」とされたり、劇場用パンフレットの「ディレクターズノート」でも「ただの機嫌の悪い老人」と述べられたりして、「老人」扱いされているものの、実際には、上記(1)でも触れているように「59歳」に過ぎないのです(注7)。
「59歳」ならば、高齢者の定義を75歳以上にしようという提言が行われている今の日本からすれば(注8)、とても「老人」とはいえない年齢でしょう(注9)。
オーヴェが「老人」の範疇に入らないのであれば、彼が引き起こす様々の騒動も、いわゆる“老人の頑固さ”が生み出すものとも言えず、むしろオーヴェの元来の偏屈な性格がもたらすものではないかとも思えてきます。
「老人」ならば仕方がないと笑って許容してしまうオーヴェの行動も、そうは笑えなくなるかもしれません。
もともと、鉄道局に勤務するようになった最初から、彼は曲がったことが大嫌いで、あまり周囲に迎合しようとはしませんでした(注10)。そうした姿勢を43年間続けてきたわけで、見る方としては、こうした男に共感できるのかどうかということになってくるでしょう。
オーヴェが、仮に70歳位の「老人」であれば、彼の人間としての価値ということよりも、むしろ「頑固な老人」の愉快な行動が描かれている、あるいは現代社会に共通する社会問題の一つではないかなどと受け止められることでしょう。
年齢設定は、意外と重要な設定項目になるのではと思ったところです。
(3)村山匡一郎氏は、「冒頭のどこでも見かける頑固親父の姿から、物語の進展につれて次第に彼の人生が紐解かれていくが、映像はそんな主人公の出来事を、パネルを積み重ねるように描き出すことで、ノスタルジーを漂わせる素朴だが味わい深い世界となっている」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。
毎日新聞の鈴木隆氏は、「年末に、疲れた心を温かくさせてくれるスウェーデン映画の佳作だ」と述べています。
(注1)監督・脚本はハンネス・ホルム。
原作はフレドリック・バックマンの小説『幸せなひとりぼっち』(ハヤカワ文庫NV)。
原題は『En man som heter Ove』(英題は「A Man Called Ove」)。
なお、邦題の「幸せのひとりぼっち」というのは、本作の内容とは相当乖離しているように思います。
(注2)ソーニャは、数か月前に癌で亡くなっているようです。
(注3)劇場用パンフレットに掲載されたヨハン・ノルドストム氏のエッセイ「“En man som heter Ove”はなぜ国民から支持されたのか?」によります。
なお、ヨハン・ノルドストム氏は、そのエッセイで本作がスウェーデンでヒットした理由をいくつも上げていますが、その中で、本作で描かれている「北欧的ブラック・ユーモア」(例えば、「人生に嫌気がさし、天国の妻に会うのが待ちきれなくなったオーヴェの度重なる自殺未遂の描写」)を指摘しているのは興味深いことです。
(注4)自宅の火事で焼け出されたオーヴェが客車で睡眠をとっていて目を覚ましたら、列車は動き出していて、傍の席には本を読む若い女性・ソーニャがいたのです。彼女はオーヴェに、「教師志望なの」と言い、読んでる本はブルガーコフだと言います。彼女は、所持金のないオーヴェに代わって、車掌に料金を支払ってくれました。そのお礼をしようと彼女を探しますが、なかなか見つからなかったところ、3週間したら出会うことができて、そして、………(なお、最初のデートの時、ソーニャは15分遅刻します)。
(注5)オーヴェが亡くなった妻ソーニャのもとに行こうと自殺をしかかったところ、外で大きな音がしたので、何事だとばかりオーヴェが外に出てみると、隣に引っ越してきた一家のパトリックが、車を駐車場に入れようとして、オーヴェの家の郵便受けにぶつけてしまったのです。オーヴェは、仕方なく、その車を運転してバックで駐車場に入れてあげます。こうしてオーヴェと隣の一家との交流が始まります。
(注6)上記「注5」の出来事があった後、オーヴェは妻の墓に行って、「昨日、そっちへ行けなくってすまなかった。近頃の者は、車のバックもできないし、自転車のパンクも直せない」「お前がいてくれたなら!」と嘆き、「急げば、強にもそっちへ行けるかも」と付け加えます。
(別の機会には、なかなか自殺できないことについて、オーヴェは妻の墓に対し「お前を待たせるのは初めてだな」と言ったりします←上記「注4」の末尾のカッコ内の「15分遅刻」が響くことでしょう)。
(注7)オーヴェを演じるロルフ・ラスゴードも1955年生まれで、せいぜい62歳といったところです。
なお、オーヴェの年来の友人で、オーヴェから自治会長のポストを奪ったルネも、今や身動きができない車椅子生活の身で、オーヴェ以上に「老人」になってしまっています。
(注8)例えば、この記事。
尤も、「高齢者」と「老人」とは意味内容が異なるのかもしれませんが。
(注9)劇場用パンフレットの「ストーリー」では「愛する妻を亡くした孤独な“中年男”オーヴェ」とされています。スウェーデンも、日本と同じように、平均寿命が伸びていて、同じように社会の高齢化が進んでいるのではないでしょうか〔スウェーデンの男の平均寿命(2015年)は80.7歳で女のそれは84.0歳〕?
(注10)オーヴェが少年の頃、鉄道局に勤めていた父の職場に行った時に、客が落とした財布を巡って、父から、「何事も正直が一番だ。ただ、正直には後押しが必要だ」と言われたことが大きいように思われます。
★★★☆☆☆
象のロケット:幸せなひとりぼっち
(1)スウェーデンで大ヒットした作品というので、映画館に行きました。
本作(注1)の始めの方は、スーパーで男(オーヴェ:ロルフ・ラスゴード)が花を持ってレジに進みます。
レジ係が「50クローネです」と言うと、オーヴェは「クーポンを使えば35クローネのはずだ」と咎めます。
それに対して、レジ係が「1束なら50クローネで、2束なら35クローロネになります」と答えると、オーヴェは「おかしい、店主を出せ」と怒りますが、レジ係が「店主はランチ中です」と言うので取り付く島もありません。
次の場面は、墓地にある妻・ソーニャ(注2)の墓に2束の花を捧げるオーヴェ。
オーヴェは「商品1つの価格が商品2つの価格より高いのはおかしいだろう?2つの花束を持ってくるのは今回だけだ」と墓に向かって話しかけます。
そこでタイトルが流れます。
次の場面では、オーヴェが自宅を出て近所を歩いています。
道路に煙草の吸殻が落ちていると、彼はそれを拾います。
また、置かれている車のナンバーをノートに書き入れたり、ゴミ捨て場を見て、分別の仕方の誤りを正したりします。
さらには、砂場に入って、砂の中に潜っているおもちゃを引き出したりもします。
彼は、今では自治会長ではないのですが、その時と同じように町内の見回りを行っているようです。
今度は、オーヴェが働いている会社の事務所。
会社の若い幹部から、「ここで何年働いています?」と尋ねられ、オーヴェは「43年」と答えます。するとその幹部が、「提案があります。あなたはまだ59歳。他の仕事をしてみてもいいのでは?」と言うので、オーヴェは「まさかクビに?」と驚くと、幹部は「あなたに合ったプログラムを紹介します」と言うのです。
打ちひしがれたオーヴェが「ただ出ていく方が簡単では?」と言うと、幹部は「餞別があります。ガーデニング用のスコップです」と言って、彼にそれを手渡します。
こんなところが本作の始めの方ですが、さあ、これから物語はどのように進展するのでしょうか?
本作は、愛する妻に先立たれ、子供もおらずひとりぼっちになってしまったにもかかわらず、相変わらずの頑固ぶりを発揮するために、一層周囲から孤立してしまった男が、隣人との関係を通じて少しずつ変化していく様子を描いています。そして他愛ないエピソードばかりながら、ほどよいユーモアが散りばめられていて、まずまず楽しく見ることができました。
(2)本作は、クマネズミにとっては『ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女』(2010年)以来のスウェーデン映画であり、さらにはスウェーデン映画史上3番目の観客動員数(注3)だということで、とても興味がありました。
確かに、ユーモアのあるシーンが随所にありますし、またオーヴェとソーニャ(イーダ・エングヴォル)の出会いから一緒に生活するに至るラブストーリーも初々しくて好感が持てます(注4)。
また、隣に来た一家、特に妊娠しているイラン人の妻・パルヴァネ(バハ―・パール)とオーヴェとの交流の描き方はなかなか興味深いものがあります(注5)。
もっと言えば、妻の墓のところで、オーヴェが妻に語りかける話もなかなか味わいがあります(注6)。
それにしても、本作の主人公のオーヴェについて、公式サイトの「イントロダクション」で「希望を見出せなくなった頑固な老人」とされたり、劇場用パンフレットの「ディレクターズノート」でも「ただの機嫌の悪い老人」と述べられたりして、「老人」扱いされているものの、実際には、上記(1)でも触れているように「59歳」に過ぎないのです(注7)。
「59歳」ならば、高齢者の定義を75歳以上にしようという提言が行われている今の日本からすれば(注8)、とても「老人」とはいえない年齢でしょう(注9)。
オーヴェが「老人」の範疇に入らないのであれば、彼が引き起こす様々の騒動も、いわゆる“老人の頑固さ”が生み出すものとも言えず、むしろオーヴェの元来の偏屈な性格がもたらすものではないかとも思えてきます。
「老人」ならば仕方がないと笑って許容してしまうオーヴェの行動も、そうは笑えなくなるかもしれません。
もともと、鉄道局に勤務するようになった最初から、彼は曲がったことが大嫌いで、あまり周囲に迎合しようとはしませんでした(注10)。そうした姿勢を43年間続けてきたわけで、見る方としては、こうした男に共感できるのかどうかということになってくるでしょう。
オーヴェが、仮に70歳位の「老人」であれば、彼の人間としての価値ということよりも、むしろ「頑固な老人」の愉快な行動が描かれている、あるいは現代社会に共通する社会問題の一つではないかなどと受け止められることでしょう。
年齢設定は、意外と重要な設定項目になるのではと思ったところです。
(3)村山匡一郎氏は、「冒頭のどこでも見かける頑固親父の姿から、物語の進展につれて次第に彼の人生が紐解かれていくが、映像はそんな主人公の出来事を、パネルを積み重ねるように描き出すことで、ノスタルジーを漂わせる素朴だが味わい深い世界となっている」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。
毎日新聞の鈴木隆氏は、「年末に、疲れた心を温かくさせてくれるスウェーデン映画の佳作だ」と述べています。
(注1)監督・脚本はハンネス・ホルム。
原作はフレドリック・バックマンの小説『幸せなひとりぼっち』(ハヤカワ文庫NV)。
原題は『En man som heter Ove』(英題は「A Man Called Ove」)。
なお、邦題の「幸せのひとりぼっち」というのは、本作の内容とは相当乖離しているように思います。
(注2)ソーニャは、数か月前に癌で亡くなっているようです。
(注3)劇場用パンフレットに掲載されたヨハン・ノルドストム氏のエッセイ「“En man som heter Ove”はなぜ国民から支持されたのか?」によります。
なお、ヨハン・ノルドストム氏は、そのエッセイで本作がスウェーデンでヒットした理由をいくつも上げていますが、その中で、本作で描かれている「北欧的ブラック・ユーモア」(例えば、「人生に嫌気がさし、天国の妻に会うのが待ちきれなくなったオーヴェの度重なる自殺未遂の描写」)を指摘しているのは興味深いことです。
(注4)自宅の火事で焼け出されたオーヴェが客車で睡眠をとっていて目を覚ましたら、列車は動き出していて、傍の席には本を読む若い女性・ソーニャがいたのです。彼女はオーヴェに、「教師志望なの」と言い、読んでる本はブルガーコフだと言います。彼女は、所持金のないオーヴェに代わって、車掌に料金を支払ってくれました。そのお礼をしようと彼女を探しますが、なかなか見つからなかったところ、3週間したら出会うことができて、そして、………(なお、最初のデートの時、ソーニャは15分遅刻します)。
(注5)オーヴェが亡くなった妻ソーニャのもとに行こうと自殺をしかかったところ、外で大きな音がしたので、何事だとばかりオーヴェが外に出てみると、隣に引っ越してきた一家のパトリックが、車を駐車場に入れようとして、オーヴェの家の郵便受けにぶつけてしまったのです。オーヴェは、仕方なく、その車を運転してバックで駐車場に入れてあげます。こうしてオーヴェと隣の一家との交流が始まります。
(注6)上記「注5」の出来事があった後、オーヴェは妻の墓に行って、「昨日、そっちへ行けなくってすまなかった。近頃の者は、車のバックもできないし、自転車のパンクも直せない」「お前がいてくれたなら!」と嘆き、「急げば、強にもそっちへ行けるかも」と付け加えます。
(別の機会には、なかなか自殺できないことについて、オーヴェは妻の墓に対し「お前を待たせるのは初めてだな」と言ったりします←上記「注4」の末尾のカッコ内の「15分遅刻」が響くことでしょう)。
(注7)オーヴェを演じるロルフ・ラスゴードも1955年生まれで、せいぜい62歳といったところです。
なお、オーヴェの年来の友人で、オーヴェから自治会長のポストを奪ったルネも、今や身動きができない車椅子生活の身で、オーヴェ以上に「老人」になってしまっています。
(注8)例えば、この記事。
尤も、「高齢者」と「老人」とは意味内容が異なるのかもしれませんが。
(注9)劇場用パンフレットの「ストーリー」では「愛する妻を亡くした孤独な“中年男”オーヴェ」とされています。スウェーデンも、日本と同じように、平均寿命が伸びていて、同じように社会の高齢化が進んでいるのではないでしょうか〔スウェーデンの男の平均寿命(2015年)は80.7歳で女のそれは84.0歳〕?
(注10)オーヴェが少年の頃、鉄道局に勤めていた父の職場に行った時に、客が落とした財布を巡って、父から、「何事も正直が一番だ。ただ、正直には後押しが必要だ」と言われたことが大きいように思われます。
★★★☆☆☆
象のロケット:幸せなひとりぼっち
気難しい変人の主人公の人生のドラマに、女神がいたという感じで見ていました。
人生をやり直そうとしたときに人生が終わるって言うところが、日本人にはできない表現だと思いましたが。
こちらからもTBお願いします。
おっしゃるように、「気難しい変人の主人公の人生のドラマに、女神がいたという感じ」であり、ソーニャはオーヴェには出来過ぎの妻であり、オーヴェが自殺を繰り返すのもわからないこともないと感じました。
確かに、どうでもいい話かもしれません。ただ、クマネズミには、「お爺ちゃん、お婆ちゃん」と「老人」とはニュアンスが違っている感じがし、後者については、引退せざるをえないような生物学的な特徴があるだけでなく、福祉政策を背景にした制度的な意味合いもつきまとうような気がするのですが?