(【5月14日 PRESIDENT Online】)
【日本の「奇妙な成功」】
日本の新型コロナの状況は、検査数が少ない等の指摘はいろいろあるものの、死亡数が他国に比べ非常に少ないという点において、際立った「成功」を示していると言えます。
ロックダウンのような措置をとることなく達成されつつある「成功」を不思議に感じる海外の視線も。
****日本のコロナ対策「奇妙な成功」 低い死亡率、米外交誌が論評****
米外交誌フォーリン・ポリシー(電子版)は14日、東京発の論評記事で、日本の新型コロナウイルス感染対策はことごとく見当違いに見えるが、結果的には世界で最も死亡率を低く抑えた国の一つであり「(対応は)奇妙にもうまくいっているようだ」と伝えた。
同誌は、日本は中国からの観光客が多く、ソーシャル・ディスタンス(社会的距離)の確保も中途半端と指摘。感染防止に有効とされるウイルス検査率も国際社会と比べ低いが「死者数が奇跡的に少ない」と評した。
さらに「結果は敬服すべきもの」とする一方、「単に幸運だったのか、政策が良かったのかは分からない」と述べた。【5月15日 共同】
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****日本で新型コロナによる死者数が少ない秘密は何か―仏メディア****
2020年5月13日、仏国際放送局RFIの中国語版サイトは、日本の新型コロナウイルス感染者と死亡者が世界的に見て少ない理由について考察する記事を掲載した。
記事はまず、世界で400万人以上が感染し、29万人近くが死亡するなか、日本では5月12日現在の累計感染者数が1万5874人、死者が643人といずれも少なくなっていると紹介。感染者10万人当たりの死亡率はわずか0.3人にとどまっているとした。
その理由について、日本の一部メディアからは「死者が多い欧米地域では気温が低く乾燥した気候であるのに対し、温暖湿潤なアジア諸国では気温と湿度が上昇するのに伴い感染ペースが落ちた」との見方が出ていると伝えた。
また、別の見立てとして、日本ではPCR検査数が少なく、実際の感染者を正しく推定することが難しいとの声も出ていると紹介。今月4日時点で、人口10万人当たりのPCR検査数はイタリアが3159人、米国が1752人、韓国が1198人となっているのに対し、日本はわずか187.8人にとどまっているとした。
その上で記事は、「それでも日本の実際の感染者は、死亡者数で上位に入る国に比べれば少ないものと思われる」とし、先日、神戸市立医療センター中央市民病院が一般の外来患者1000人に対し実施した抗体検査で3.3%の人から抗体が見つかったのに対し、米ニューヨーク州で3000人を対象に実施した抗体検査では14%の人が抗体を持っていることが分かったと伝えている。
さらに、日本での感染者、死亡者が少ないとするもう1つの根拠として、日本の感染症治療体制が整っていることを挙げ、新型ウイルスによる肺炎が「指定感染症」に指定されており、日本人でも外国人でも設備が完備した指定医療機関で治療が受けられ、政府が公費で検査費と医療費を負担する仕組みになっていることを説明した。
また、軽症者や無症状感染者がホテルなどで隔離措置を取る上での費用も地方自治体が負担するとし、感染者が経済的負担なくしっかりとした治療や措置を受けられることで重症化するケースが抑えられているため、死亡率も低くなっているとの見解を示している。【5月15日 レコードチャイナ】
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死亡者だけでなく、感染者そのものも少ないのかも。
上記記事では抗体検査で3.3%という陽性率がでた調査をもとに論じていますが、政府が関与して日本赤十字社が東京都と東北地方で行っていた試験的な抗体検査の結果、東京都の陽性率は500検体で0.6%、東北6県は500検体で0.4%だったとのことで、もし、この数字が妥当なものであれば、日本の感染者数は欧米などとは段違いに少ないことにもなります。
【明治以来の「説得による誘導」】
そうした少ない死亡者・感染者の理由のひとつには、「自粛」要請が国民にある程度受入れられたことがあると思われますが、そのあたりがまた、日本社会の特徴を示すものでもあります。
****ソフトな緊急事態宣言を聞き入れた日本人の不思議 *****
(中略)はじめに断っておくと、COVID-19についてはまだわからない部分が多い。感染経路についても不明な部分が依然として残っているし、統計データの集計方法も国によってまちまちだ。「人口あたりの検査数」といったデータの公開範囲も国によって異なる。
それゆえこの感染症がもたらした状況について、国家間の比較であれ、そして一国の事柄にかんしてであれ何かを論じるときは、それが比較的弱い情報基盤に立脚しているということを念頭に置く必要がある。
特にこのことは「感染者数」の比較を行った際には明らかだ。しかし、アクセスできるデータが国によってどれほど異っていたとしても、米国・イギリス・イタリア・スペイン・フランスなどの感染状況は、日本・韓国・台湾そして中国などの状況と比べてより深刻と見て間違いないだろう。
現時点で、米国や主な欧州諸国のCOVID-19による死者数は人口100万人あたり200名~500名に達している。欧州の主要国の中で唯一低い死亡者数を維持しているのはドイツだ(100万人あたりの死者数は約80名)。アジア諸国(日本・韓国・中国・マレーシアなど)の死者数は100万人あたり3名~5名である。じつに2桁、100倍の開きがある。この違いをどのように説明できるだろう。
ある者は生理学的な要因にその答えを求める。たとえば、欧米で蔓延しているCOVID-19はアジアのものと「型が違う」という説だ。またある者は結核の予防接種(BCGワクチン)が影響している可能性を指摘する。私自身はこれらの仮説の評価を行うことはできない。なので以降の分析ではこのような可能性は捨象して話を進める。
(1)リーダーシップの問題
日本に住んでいると、安倍政権の不手際を挙げることは容易だ。(中略)
しかし、このような国の指導者や行政機関の問題は米国のドナルド・トランプ大統領や連邦政府、あるいは欧州の一部の指導者たち(イギリスのボリス・ジョンソン首相やイタリアの指導者たちなど)と比べれば軽度なものだといえる。(中略)
対照的に日本政府は、首相をはじめ、主要な閣僚、与党、野党、そして都道府県知事と、それぞれ比較的早い時点からCOVID-19の危険性を認識していた。(中略)
(2)構造的要因
仮に世界の指導者たちがみな主体的かつ一貫した態度でCOVID-19に挑んでいたとしても、特筆すべき「ある構造的な要因」が影響して、米国や欧州の一部地域における状況は、アジアの諸地域と比較して深刻な状況になったかもしれない。
つまり「公衆衛生」についていえば、特に米国は日本・台湾・韓国などのアジア諸地域と比べて劣っているのだ。これは「公衆衛生」の概念が19世紀後半に西洋(主にドイツなど)からアジアに伝えられたという経緯を思うと、皮肉なことである。(中略)
公衆衛生に直接的には影響しない要因だが、この他にも感染症対策の結果を左右したと思われる構造的な問題がある。今後さらなる分析が待たれる面は残るが、医療保険の未加入だけではなく、「雇用の不安定さ」が人々の行動に影響したという仮説も成り立つ。
雇用が不安定な人々の間では、多少体調が悪くとも、家の中に留まるより仕事に出かけようという誘因があったと考えられる。社会的・経済的な格差の広がりは今回のウイルスの拡大にも関係しているようだ。実際に米国の都市部でも、特に貧困が深刻な地域でCOVID-19が猛威を振るっている。
(3)文化的・歴史的な要因
日本の文化に見られる様々な習慣も論点に加える必要があるかもしれない。
メディアでたびたび指摘されていることだが、日本やアジアの一部地域に見られる習慣が感染の予防に貢献している可能性がある。「マスクの着用」「玄関で靴を脱ぐ」「誰かと会った際には(握手や抱擁、欧州人のように両頬に口づけをするのではなく、むしろ)お辞儀で挨拶をする」など。
一方で、他の一部の習慣は感染を拡大する方向に影響しているのかもしれない。(中略)現実にこれらの習慣がどれほど影響したかは不明であり、ここでは指摘するのみに留める。
日本の国内外において多くの論者が、日本の比較的ソフトな緊急事態宣言の「特殊さ」を指摘している。日本の緊急事態宣言は法律に基づくものではあるが、命令や強制的な罰金・拘束を伴うものではなく、あくまで「要請」や「指示」に基づいている。これは他の地域に類を見ないものであり、私自身、特筆すべきことだと感じている。この政策の背景にはいったい何があるのだろう。
「ソフトな」緊急事態宣言に訴えるという手法は、感染症対策として、かつての日本政府が歴史的にとってきた手法とは異なる。
ケンブリッジ大学の歴史学者バラック・クシュナー氏によれば、明治時代には、特にコレラが公衆衛生上の重大な脅威として浮上していた。この時、日本政府は「強制的な隔離」を政策の柱としていた。(中略)さらに日本政府は、明治後期から第2次大戦の数十年後にいたるまで、ハンセン病患者に対して厳しい隔離政策を続けていた。(中略)
現在、日本政府がCOVID-19への対策として行っている比較的ソフトな緊急事態宣言は、他のアジアの地域や欧州の多くの地域、または米国で行われている厳格な規制とは明らかに異なる。そして、日本政府がかつて行ってきたコレラやハンセン病への対策とも異なる。
日本でこのような特異な政策が実施される背景として、よく指摘されるのは「戦後民主主義」の存在だ。戦後、民主主義が日本にも深く根を張り、公権力に対する国民の信頼を揺さぶり、政府が個人の権利を強く制限することが制度的にも困難となったという見方だ。
しかしこれは背景の一部にすぎないだろう。結局のところ、これまで歴史的に個人の権利を重視してきたフランス、イギリス、米国などの国々でも今回、警察が強い権限を行使し、厳しい規制の実施に乗り出しているのだから。
私は今回の日本政府の政策は、個人の自由への介入をけん制するリベラルな価値観へのコミットメントのみによるものではないと捉えている。その源流は明治時代にまでさかのぼり、近代の習慣として「説得による誘導」が国家と社会との関係性において重要な意味を持ったことに端を発している。(中略)
私の同僚で、プリンストン大学教授で歴史学者のシェルドン・ガロン氏はこの習慣を「教化(モラル・スエージョン)」と呼ぶ。この「教化」という用語は、本来は、仏教徒が他者に教えを説き、その徳を高めることを表すものだ。明治期1920年代を通じて、この「教化」という用語が政策に用いられた。
後の年代では、特に戦中期、この種の政策に関して「動員」という言葉が使われ、戦後期には「運動」という言葉が用いられた。
ガロン氏は、この「教化」(道徳による行動変容、すなわち「モラル・スエージョン」)が行われた背景として、社会通念として「政府を含めた社会に存在する様々な団体・組織は、大衆を啓発し統制することができる」という考え方があったと指摘している。
1920年代から1980年代にかけては特に、政府が主導した「動員」や「運動」の事例を数多く見ることができる。
法的な強制力はなくとも、日本政府は国民の貯金を奨励し、消費の抑制を呼びかけ、「国産愛用運動」で国産品の購入を奨め、「新生活運動」で都市や農村では蠅や蚊の駆除による衛生状態の改善を求め、女性の「科学的」な家庭管理を促した。
政府は1990年代まで貯金の奨励を継続した。「教化」の具体例は1970年代の度重なるオイルショックの後の「省エネ」の呼びかけ、あるいは2011年の3.11、東日本大震災後の電力節約要請にも見ることができる。政府からの要請に強制力がなかったにもかかわらず、人々は自主的にエネルギー消費の削減に努めた。
政府が主導したこれらのキャンペーンについてはガロン氏の著書 "Molding Japanese Minds: The State in Everyday Life" に詳しい 。その中でガロン氏は、これらの政策キャンペーンが機能した背景として、日本の社会制度的なインフラストラクチャーの存在を挙げている。
日本の社会には、政府と地元住民とをつなぐ「半公共的な組織」が広く存在していたと同氏は指摘する。そのような組織の具体例として、町内会や隣組、婦人会、青年会、在郷軍人会や貯蓄組合、各種の産業組合などが挙げられる。
雑誌やポスターなどのメディアも、大衆の行動を矯正しようとする政府の試みに活用された。そして最も重要な点は、政府の役人たちがこれらの市民団体と連携して住民の「説得」を試みたということだ。
こうして、日本人は貯蓄を促され、時間に厳しく行動し、国産品を買い、あるいは消費を抑えるよう仕向けられてきたのだ。(中略)
実際、勝利宣言にはまだ早すぎるし、SNSいじめなどの問題も他方で表面化している。しかし、日本を含めたアジアの国々が多彩な手段を講じて、COVID-19への対応において相対的に成果を上げていることは特筆に値する。
アジアの様々な対策事例のうち、どれかひとつが正解ということではなく、そこから多様なモデルや教訓を読み取ることができるように思う。【5月16日 アンドルー・ゴードン氏(歴史学者、ハーバード大学歴史学部教授) JBpress】
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【「コロナ自警団」的な危うさも】
政府、メディアが一体となった「説得」が日本社会において極めて強力に作用することは、日本に暮らす人間なら切実に感じるところでしょう。
ただ、それは少ない死亡者・感染者という評価すべき結果だけでなく、「同調圧力」という形での息苦しさ、更には「コロナ自警団」「自粛ポリス」といった、やや行き過ぎとも思われる現象を惹起しています。
****「マスクをしない女子アナ」に怒るニッポンの自粛警察の危うさ ****
自粛要請が続く中、営業を続ける飲食店や感染者へのバッシングが後を絶たない。ドイツ出身のコラムニスト、サンドラ・ヘフェリンさんは「自粛は強制ではないものの、人々が相互に監視をしている息苦しい社会になっている。楽しそうにしている隣人に怒りを向けるというのはおかしい」という——。
市民がほかの市民の監視役と化したニッポン
新型コロナウイルスの収束が見込めず緊急事態宣言が延長されたニッポン。緊急事態といえども、ヨーロッパの国々のように街や地域を封鎖する「ロックダウン」は日本の法律では不可能です。そのため政府は国民に「外出の自粛」を「要請」し、世間では自粛ムードが広がっています。
新型コロナウイルスの感染力が高いことを考えると、一人ひとりが自分の行動に責任を持ち、なるべく外に出ないようにすることが最も望ましいです。しかし自分の行動だけではなく、他人の行動に過剰なまでの興味を持ち文句を言う「コロナ自警団」や「自粛ポリス」が各地で話題になっています。(中略)
ニッポンの「コロナ自警団」は営業する市民に嫌がらせをする前に政府に対して早急な補償を強く求める気骨さがほしいところです。
友達同士でも監視⁉
批判の矛先は有名人を含む個人にも向けられています。NHKのアナウンサーである桑子真帆さんがある男性とデートをしたところ、それを写真週刊誌に撮られてしまいました。平時であれば「熱愛発覚」という報道で済んだところですが、自粛ムードが広がっている今は「デート中に桑子アナがマスクをしていなかったこと」にスポットが当たってしまい非難の対象となりました。(中略)
自粛ムードはもとより、いつどこで発生するか分からない「コロナ自警団」のことを考えると、今やSNSなどインターネット上での「息抜き」さえも難しくなっています。
まるで戦時中? 「欲しがりません勝つまでは」
感染を広げないために外出を自粛することは大事です。ただし繰り返しになりますが、自粛というのはあくまでも自分の意思でやるべきことであり、他人の行動に必要以上に興味を持つことには慎重になったほうがよいでしょう。
こういった状況のなか、人を密告したり噂(うわさ)話をひろめるというのは先の大戦を思わせるもので、ツイッターなどのSNSでも「まるで戦時中の隣組のようだ」と話題になっています。(中略)
通常、民主主義の国では怒りの矛先は政府に向かうものですが、日本では自分と同じ立場にいる一国民に向かいがちです。しかし言うまでもなく、楽しそうにしている隣人に怒りを向けたところで新型コロナウイルスにまつわる状況が良くなるわけではありません。
ドイツでもギスギスしている人間関係
では私が出身のドイツの国民がみんな隣人への優しさにあふれているのかというと、残念ながらそうではありません。(中略)
現在のドイツで目立つのは「一億総科学者」現象です。医学とは縁のない一般の人々が科学者やどこかの先生になったかのような態度で、自分の知識こそが絶対だと言い張る人が少なくありません。(後略)【5月14日 サンドラ・ヘフェリン氏(著述家 ドイツ・ミュンヘン出身) PRESIDENT Online】
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更には、現在の「コロナ自警団」的風潮にファシズムを見る指摘も。
長くなるので、冒頭部分のみ引用します。
****「コロナ自警団」はファシズムか 自粛要請が招いた不安****
新型コロナウイルスの感染拡大で、政府による外出自粛の要請が長引き、「自粛」に従わない人を責めるような風潮が強まっている。10年にわたって「ファシズムの体験学習」に取り組んできた甲南大学の田野大輔教授(50)は、こうした動きも、「ファシズム」と無関係ではないとみる。どういうことなのか。
――新型コロナウイルスの感染者が発生した大学に脅迫電話をかけたり、県外ナンバーの車に傷をつけたりする「コロナ自警団」のような人たちが現れています。なぜだと思いますか。
「『自粛』要請に従っていないように見える人たちを非難する行動は、『権威への服従』がもたらす暴力の過激化という観点から説明できます。政府という大きな権威に従うことで、自らも小さな権力者となり、存分に力をふるうことに魅力を感じているのです。
みんなで力を合わせて危機を乗り切ろうとしている時に、従っていない人は和を乱して勝手な行動をとっているように見えます。『コロナ自警団』のような人たちは、異端者に正義の鉄槌(てっつい)を下すことで、普段なら抑えている攻撃衝動を発散しているわけです。ファシズムの根本的な特徴を体現しているといえます」
――ファシズムですか。
「そうです。私は、権威への服従と異端者の排除を通じた共同体形成の仕組みのことをファシズムと呼んでいます。こうした『自警団』的な行動は、今回の『コロナ禍』のように、社会に大きな不安が生じたときに生じやすい。公的な対策が不十分な中で、多くの人が自己防衛の必要にかられ、他人に過度の同調を要求するようになります。
政府が『自粛』要請という形で、個々人に辛抱を強いることで問題を解決しようとしていたことが、結果的に人々の不安を増大させ、異端者への激しい非難を引き起こしたともいえるでしょう」(後略)【5月2日 朝日】
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