世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日中戦争は中国の日本侵略戦争であった。(10)

2024-08-30 00:00:00 | Weblog

日中戦争真逆の真相」(茂木弘道著)のP95では、次の様に記載されているのである。 

 

ファルケンハウゼン中将は盧溝橋事件の前年に、日本軍を敵として中国軍の近代化を進める方針を提起し、昭和11年に、河北省の日本軍攻撃、漢口、上海の日本軍攻撃を進言しています。この年の11月には日独防共協定が結ばれていますので、ドイツの二股外交です。第一次大戦で青島のドイツ軍が日本軍にやられたことへの反感がドイツ軍部には根強く残っていたのかもしれません。いずれにしても、ドイツ製武器の装備と訓練、トーチカ群の構築をドイツ軍事顧問団の指導によって進められた結果、それまでの中国軍とは比べ物にならない戦闘力を発揮する軍に変貌していたのでした。 

 それにとどまらず、ファルケンハウゼンは中国軍の軍服を着用してまで、陣頭指揮をしていたと言います。‥… 

 日本側もドイツ軍事顧問団の活動については情報収集してつかんでおり、その解散を強硬に要求はしましたが、ドイツは経済的な利益もあり容易にそれを受け入れず、結局、顧問団の解散が決まったのは昭和13年(1938年)の4月でした。 

 

 

この第2次上海事変(1937年8月13日~10月26日)は、ファルケンハウゼンが作戦計画を作成し、陣頭指揮まで取っていたのであり(https://ja.wikipedia.org/wiki/アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン)、 

ドイツとドイツ人は全く持って油断ならざる信用できない人種なのである。ナチスを生んだ国だけのことはある、ということである、それだけ本質的に悪賢い民族だということでしょう。深く付き合わない方がよかろう、足をすくわれる。 

 

あの三国干渉も忘れてはならない。 

小生のブログ「第2次上海事変(4)」(2012.5.31)より引用する。 

 

さて第1次世界大戦は、1919年1月8日のパリ講和会議(ベルサイユ会議)で終結したが、山東半島の権益日本継承の承認に対して1919年5月4日、中国では学生を中心とする反対運動(五四運動)が起こっている。これは多分に1917年のロシア革命に影響されたものであるが、これを見たアメリカ大統領のウッドロウ・ウィルソンが、この継承に強く反発した。そのため日本は山東半島権を 1922年12月10日に、中国に返還した(山東還付)。この五四運動は、「対華二十一カ条要求」に対する反対運動であったが、要求が受諾されてから4年も経って起こっていることなどから、ソ連コミンテルン策略があったと見られている。そして中国に多数布教していたアメリカ人宣教師の捏造話だけを信用していたウィルソンの策略により、これ以来、日本とアメリカの関係も悪化していった。日本でキリスト教を布教させなかった織田信長や豊臣秀吉の慧眼に感謝。アメリカ宣教師達は、中国を絶好の布教地と看做して、当時は日本が世界から疎まれるような捏造を振りまき、盛んに中国に恩を売っていたのであった。例の南京問題の「戦争とは何か」なども、蒋介石から頼まれた宣教師達によって捏造されたものである。
 

そして第1次世界大戦から更に時代を遡れば、日清戦争後の1895年4月23日三国干渉を忘れてはならない。ドイツはロシアとフランスと共に日本に対して遼東半島の返還を迫り、返還しなければ戦端を開くと日本を脅したのであった。この屈辱も、日本人であったならけっして忘れてはならない事件である。おのれ、ドイツ。 

 

さて1937(S12)年上海に話を戻そう。

10月26日には、上海近郷の要衝・大場鎮(Dachang)の攻略に成功する。この大場鎮を攻略できたことで上海から蒋介石軍をほぼ駆逐することが出来た。上海租界の日本人の安全が、ほぼ確保出来た事になる。

しかし中国軍は蘇州河の南岸に陣地を構築し、日本軍はなかなかそのトーチカを落とすことが出来なかった。

11月5日、先にも述べたが杭州湾岸に第10軍が上陸すると蘇州河南岸の中国軍は、退路を立たれる恐れから大きく動揺し、11月9日一斉退却を始めた。

この退却に際しては、中国軍略奪破壊を大々的に行っている。そのため日本側は退却が始まることを予測できたのである。中国側の敗残兵は避難民に紛れてフランス租界に入り込み、便衣兵となり放火、略奪を行ったので、フランス租界の警官との銃撃戦があちこちで発生していた。しかしながら中国軍の撤退により上海に居住する全民間居留民安全が確保されることとなり、上海の英字紙は日本軍に感謝する論評を載せている。
 

大山勇夫海軍中尉ら虐殺(1937・S12年8月9日)に先立つこと12日前の1937年7月29日には、北京市の東12kmの通州(現北京市通州区北部)において、冀(き)東防共自治政府保安隊(中国人部隊)3,000人が、日本居留民420名への襲撃を開始し、230名余が虐殺されている。女性達はすべからく強姦され虐殺され身体を切り裂かれており、更に子供達は針金で鼻輪を通され、その上襲われた喫茶店では女給たちの生首がテーブル上にきれいに並べられていた。これを通州事件と言う。

そのため日本海軍陸戦隊は第二、第三通州事件済南事件を引き起こされてはならないと、必死に奮戦し日本居留民を守ったのである。

しかしながら今思えば、8月12日の時点で、日本政府は日本租界の日本居留民を守るためには、即座に大々的に増派をして蒋介石軍を徹底的に叩いておくべきであった。そうすればこのような日中戦争の泥沼にそれほど引き込まれなかったものと思われる。

ちなみに盧溝橋事件は、大山勇夫海軍中尉虐殺事件の1ヵ月程前の1937(S12)年7月7日に発生している。盧溝橋事件を始め通州事件、第2次上海事変などは、いずれも中国コミンテルン(共産党国際部、Communist Internationalコミュニストインターナショナル)による指令に基いて蒋介石軍に紛れていた共産党員が引き起こしたものである。ソ連コミンテルンの意図は、中国コミンテルンをして中国に戦乱引き起こしその過程で蒋介石国民党を共産党から日本軍へ向わせて日本軍を中国の内乱に巻き込み、中国全体を共産化させ、共産党の存在価値を中国内に知らしめ、且つ日本本土にも混乱を起こさせて共産化させようとするものであった。この第2次上海事変は、もともと蒋介石が意図したものではなかったのである。

事実日本で暗躍したドイツ人「リヒャルト・ゾルゲ」は、ソ連コミンテルンの手先であった。ゾルゲは1930(S5)年にソ連諜報部(赤軍参謀本部第4局)から上海に派遣され、1933(S8)年9月日本に入国し、ソ連のためにスパイ活動を行い、日本を極東から引き離して対米戦争へと導く手立てをしていた。上海ではドイツ軍事顧問団とも接触し、蒋介石のために情報提供を行った。蒋介石国民党内には、すでに中国コミンテルンの共産党員が沢山もぐり込んでいたのである。第2次上海事変を引き起こした蒋介石軍の司令官「張治中」も実質的な共産党員であった。

そして日本にも、ゾルゲと行動を共にした共産主義者、「尾崎秀実(ほつみ)」がいた。報知新聞記者を父に持つ尾崎秀実は、父親が台湾に赴任したことから少年時代は台湾で育つ。台湾中学、一高、東京帝大法学部と進み、大学院1年で中退している。この大学院ではもっぱら共産主義の研究を続け、このとき完全な共産主義者となったと言われている。Wikipediaによると「尾崎秀実(ほつみ)」は1926(T15)年朝日新聞社に入社、1928(S3)年11月上海支局に転勤、1932(S7)年2月に大阪本社に戻る。この3年3ヶ月余の間に中国共産党と交流し、更には米国人女性の共産主義者のアグネス・スメドレーを通じて、リヒャルト・ゾルゲと交際しコミンテルンの一員となり、日本におけるゾルゲの諜報活動の片棒を担ぐことになる。

スメドレーはコミンテルンから資金援助を受け、米国、インド、中国などで盛んに対外宣伝活動を行った人物である。米国はスメドレーの活動の影響から、国民党への支援を減らしたため蒋介石は1949年には国共内戦に敗退し台湾へ逃れることとなる。まあアグネス・スメドレーはゾルゲや尾崎など共に日本にとっての世界大悪人の一人に数えられる人物であろう。
 

(続く)

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