「この上海の戦いを概略すると、次の様になる。
日本軍は、8/23に上海北部の呉淞(ウースン)と川沙口に部隊を上陸させたが、大小のクリークの間には数千のトーチカが築かれており、大苦戦をつづざるを得なかったため、9/9には更に増派が決定された。その間海軍特別陸戦隊は、将に驚異的な戦いぶりで日本人租界を守り通したのであった。だが中国軍の勢力は40~50万人の規模であり、日本軍が大場鎮を攻略しても安心できなかった。そのため、11/5には第10軍を杭州湾北岸に上陸させゼークトラインを攻略し、更に揚子江上流の白茆口(ハクボウコウ)にも上陸させた。
このため中国軍は大いに動揺して三方向から攻められることを恐れて、一斉に退却を開始したのであった。この結果、日本軍は11/9に漸く上海の安全を確保したのであった。
しかしながら中国の残存部隊は、南京に逃走したのである。」
ハンス・フォン・ゼークトはドイツ陸軍上級大将にまで上り詰めた人物で、第1次大戦敗戦後のドイツ軍備縮小の条約をかいくぐり主にロシアと協定を結びロシア国内でドイツの軍需工場を稼動させた人物である。退役後は、1933年から1935年の3年間にわたり蒋介石の軍事顧問を務め、上海周辺に「ゼークトライン」と称する防御陣地を構築している。ゼークトの帰国後は、共に軍事顧問を務めていたアレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン中将がドイツ軍事顧問団団長となり、中国軍や軍需産業の育成に従事する。1937年の第2次上海事変の作戦計画を作成し実行したのは、この人物である。なぜ蒋介石がこんなことを始めたかは別途記述するが、実質的には国民党軍に潜んでいた共産党員によって引き起こされたものであった。
当時の中華民国とドイツは1910年代から軍事的・経済的な協力関係を強めていた。ドイツは中国からレアアースの「タングステン」を購入し、その見返りに中国軍の近代化と産業の興隆に投資していた。これを「中独合作」と言う。1930年代に入ると「中独合作」は更に進展し、世界恐慌のあおりで中国への資金提供は限りなく細っていたが、中独協定(1934~1936年)により中国の鉄道などの建設か大いに進んだ。これらの鉄道は日中戦争でも蒋介石に大いに活用された。このような流れの中で1935年より中国軍事顧問となったアレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼンは日本だけを「敵国」と看做して、他国とは親善政策を採ることを蒋介石に進言している。
10年ほど前の第1次世界大戦(1914/7~1918/11)では日本は日英同盟に基いて、ドイツの山東省租借地であったチンタオ要塞をイギリスと共に攻略し、更にはドイツ支配の南洋諸島を攻略している。なお日本軍の評価を高めたものは、この大戦中連合国の要請を受けて、地中海やインド洋に合計18隻の第二特務艦隊を派遣し、連合国の輸送船団の護衛をしたことである。この護衛作戦では、Uボートの攻撃により駆逐艦「榊」が大破し、59名が戦死している。合計78名の日本軍将兵の御霊を守るために、マルタ島のイギリス海軍墓地に日本軍将兵の戦没者のお墓が建立されている、とWikipediaには書かれている。
このように第1次世界大戦でのアジアではドイツは日本に攻められていたのだが、ファルケンハウゼンは多分にこんなことを根に持っていたのであろうか。どいつもこいつもドイツ人は、第2次世界大戦では共に敗戦国となった仲ではあるが、あまり親密に付き合える相手ではない、と思っていたほうが良い。事実この時代日本とドイツとは三国同盟の仲(1936年日独防共協定、1937年日独伊防共協定、1940年日独伊三国同盟)ではあっても、その裏では依然としてこのように中国を支援していたのであった。
そして日本は連合国の一国として山東半島や南洋諸島のドイツ租借地を攻め占領したが、そのドイツ権益の継承を求める「対華二十一カ条要求」を1915年1月8日に中華民国に行った。当時の列強の対中国などへの要求からすれば、相当やさしいものであったが、袁世凱は第5号の中国政府の顧問として日本人を雇用することなどの7カ条を除き1915年5月9日に受諾し、ドイツ租借地の山東半島は日本が継承した。この要求に対しては英・仏・露は承認したが、アメリカ・ドイツだけは反対した。
これは公式的な説明であるが、事実はそうでない。袁世凱が中華民国の皇帝になりたくて仕方がなく、日本からのお墨付きを貰うためにこの要求は袁世凱から言い出した話だったのである。この要求を中華民国が受諾するから、自分を中華民国の皇帝だと認めてくれ、と言った取引だったのである。事実袁世凱は1915年12月に皇帝に就いたが、各地で反対が巻き起こり1916年3月に退位せざるを得なかった。通算83日間の皇帝であったと、Wikipediaに記載されている。』
蒋介石の軍事顧問としては、1927(S2)年にマックス・ヘルマン・バウアーが初代であり、彼は毒ガスの専門家でもあり、ドイツの化学薬品企業や航空機製造会社の顧問・代理人として世界(ロシア・スペイン・アルゼンチン・中国など)で活動していた。
ハンス・フォン・ゼークトは第4代、アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼンは第5代の蒋介石の軍事顧問であった。
『このファルケンハウゼンは1910年に来日し、日本軍研究のため名古屋の陸軍第33連隊に滞在したあと、1912年から1914年の第一次世界大戦の開始まで、東京のドイツ大使館で駐在陸軍武官をしていた。』
と、https://note.com/ymiura/n/n97a7688eeafc には書かれているように、
ファルケンハウゼンは日本語も話せたようだ。
そして蒋介石は。1907年に日本の中国留学生のための東京振武学校に留学・卒業して、新潟県高田市の野砲兵連隊に士官候補生として配属されているので、日本語は当然話せるのだ。そのため両者は、日本語で意思疎通を図ったと言われている。
蒋介石軍に対するドイツの軍事顧問団は、
1927(S02)年~ マックス・ヘルマン・バウアー
1929(S04)年~ ヘルマン・グリーベル中佐
1931(S06)年~ ゲオルグ・ヴェッツェル中将
1933(S08)年~ ハンス・ホォン・ゼークト
1935(S10)年~ アレキサンダー・フォン・ファルケンハウゼン
と継続して5代となっている。1937年5月時点では、ドイツ軍事顧問団の数は100名を超えていた。それほどまでにドイツは、中華民国にどっぷりと浸かっていたのであり、
日本とドイツは、1936年日独防共協定、1937年日独伊防共協定、1940年日独伊三国同盟 と綿密な同盟関係になっていたにも関わらず、ファルケンハウゼンは、日本軍に攻め入る様に蒋介石に進言していたのである。
(続く)