世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日中戦争は中国の日本侵略戦争であった。(1)

2024-08-19 00:00:00 | Weblog

さて中国害六省(ガイムショウ)6月3日の記者会見報道官の「靖国神社は、日本軍国主義による侵略戦争の精神的な道具であり象徴だ」という言いぐさについて反論しておこう。 

 

単刀直入に言うと、これは全くのお門違いであり、侵略戦争をはじめたのは、中国共産党軍であり、中共軍が蒋介石軍に追い詰められたために、蒋介石を誘拐して共産党軍ではなくて日本軍と戦争するように仕向けていった「中国軍からの日本への侵略戦争」だったのである。 

 

 

中共軍は日本を戦争に引っ張り込むために、日本居留民を意図的に虐殺して日本を挑発し続けたのである。 

 

日本居留民が中共軍に虐殺された事件は、 

 

・南京事件(S2年3月) 

・済南事件(S3年5月) 

・通州事件(S12年7月29日) 

 

と立て続けに3件も起こっているのである。 

細部は「日本近代化の流れ(54)」(2017.1.25)などを参照のこと。 

 

この・南京事件(S2年3月)は、ちなみに中国共産党政府が宣伝しているいわゆる「南京大虐殺事件」とは異なる。 

 

いわゆる「南京大虐殺事件」は1937(S12)年12月初旬から、南京城に逃げ込んだ中国軍を掃蕩した時に起こったとされる事件だが、これは日本軍が引き起こしたものではなく、中国軍自身が行った殺戮事件なのである。 

 

しかもなぜ南京城を攻めなければならなかったかと言えば、1937(S12)年8月12日未明、「第2次上海事件」で中国軍3万人余(その後増援されて7万人となる)が上海の日本人租界を突如として襲撃してきたからであり、それを防ぐために4千人に日本海軍特別陸戦隊が防戦に努めたのであり、その後増援部隊と共に中国軍を追跡した戦いである。中国軍、実態は国民党軍に潜んでいた共産党員の張治中という指導者に率いられたものであり、この2週間前には230名の日本居留民が虐殺された通州事件が起こっており、そのため日本軍は大損害を出しながらも日本人租界を死守したのである。その後、日本軍に追われて南京場内に逃げ込んで、軍服を脱いで便意兵となり狼藉の限りを尽くしたので、日本軍による掃討戦が行われて中国軍は鎮圧されたものである。しかしながら、いわゆる日本軍による虐殺などは起こっていないのである。 

 

第2次上海事件」については小生の同名のブログ2012.5.28~)を参照願いたい。 

 

実際の虐殺が起こっていたのは、中国軍内部での反乱鎮圧のための中国軍による大量虐殺であった(督戦隊による逃亡兵の殺害など)。詳しくは小生のブログ「戦後70年談話はヒストリーで!(45)」(2015.8.4)を参照願う。 

そこには、 

「南京大虐殺は自分たちがやった」と告白した国民党少尉という新聞記事が掲載されているので、ぜひ参照願う。 

 

 

また、ちなみに日本海軍特別陸戦隊として日本人租界を守るために駐屯していた軍隊は、1900(M33)年の義和団の乱での事後処理に関する最終議定書である「北京議定書」で、自国民を守るために駐留が認められたものであり日本が無断で駐留させた軍隊ではない。義和団事件で被害を被った8ヵ国の軍隊の駐留が認められて駐留していたものである。 

 

ちなみに連合国の8ヵ国とその兵力とは、 

 

大日本帝国(5,600人、0.17人/1居留民当たり) 

ロシア帝国 

イギリス帝国(1,008人、0.34人/1居留民当たり) 

フランス共和国(1,823人、3.04人/1居留民当たり) 

アメリカ合衆国(1,227人、0.49人/1居留民当たり) 

ドイツ帝国 

イタリア王国 

オーストリア=ハンガリー帝国 

 

であり、日本軍は居留民の数が多かったので兵力は他国よりは多かったのであるが、居留民一人当たりからすると、最小の兵力であった。 

しかしそれでも、映画でも有名な北京城で55日間の籠城戦を戦い抜いたものであり、それを指揮した日本の駐在武官であった柴五郎中佐の武勇と戦術が、この籠城戦を成功に導いたものであった。この功績により、各国政府から勲章を授与されている。 

 

中国共産党(軍)は、組織的に日本軍を蒋介石軍と戦わせるように仕向けて行ったことは、盧溝橋事件の経過を見ればよくわかる。 

 

日中戦争真逆の真相」(茂木弘道著)によれば、 

 

(1) 1937(S12)年7月7日、22時40分頃盧溝橋付近での日本軍の演習が終了。演習は実弾を使わないもので、付近に駐留している中国29軍には事前 通告済み。 

 

(2) するとその時(22時40分頃)その日本軍に数発の銃弾が撃ち込まれた。その後さらに、十数発の銃弾が撃ち込まれた。  

 

(3) 翌朝7/8の3時25分にも、3発 、 5時30分にも、4回目の銃撃を受ける。 

 

(4) 日本軍はこの4回目の銃撃を受けたために、初めて反撃を開始する。最初の銃撃から7時間後のことである。 

 

これも中国共産党軍の仕業であった。これだけでも日本軍が侵略したものではなくて、中国共産党軍による日本軍への挑発と侵略であったことがよくわかるものである。 

 

それは日本軍が中国共産党(軍)の挑発になかなか乗らなかったために、最初の7/7,22:40から7/8の5:30の間、7時間もかけて執拗に4回も銃撃して挑発してきたのである。 

 

しかもこれには次の様な”オチ”がついていた。しかしそれはコミンテルンによる宣戦布告でもあった。 

(続く)

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