世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日韓併合100年(44)

2010-12-20 11:02:36 | Weblog

山東省を追われた「義和団」は、失業者や難民を吸収して大部隊となり、外国人やキリスト教信者や外国関連施設を攻撃・破壊しながら、直隷省(北京と北京のある河北省)に侵入していった。更に「義和団」は「扶清滅洋」と言う清朝寄りのスローガンを掲げていたため、西太后も義和団に手心を加えることとなった。5月北京に進軍した義和団は北京を占拠し、キリスト教徒を殺害するこことなる。そのため北京駐在の外交団は清朝に義和団を取り締まるように強く要請するが、静まる気配がない。各国公使は大沽沖(タークー、たいこ、天津の海の玄関)に遊弋する自国の軍艦に増派を要請する。しかし援軍が来るまで現地では、義和団に対抗して北京駐在の8カ国は義勇隊を編成し、籠城覚悟で義和団に対抗する事となる。

しかし、1900年6月11日8カ国連合軍を迎えようと外出していた日本公使館書記官杉山彬は、義和団と結託していた北京警護の袁世凱配下の軍人に殺され、6月20日にはドイツ公使クレメンス・フォン・ケッテラーも殺害された。この日から清国軍は義和団と共同して、北京外交施設へ攻撃を開始する。そして「北京籠城55日」が始まる。「北京の55日」は映画にもなっているのでご承知の方も多いと思われるが、6月21日、清国政府は開戦の詔書を作成している。しかしこれは各国には通知されなかった。すこぶる国内向けのパフォーマンスであり、実質的にはその前の6/16,17の御前会議で開戦は決まっていたと言うことである。

8カ国連合軍は、日本25、英82、独51、仏78、米56、伊42、墺33、露51、(数字は護衛兵)でありこの順で戦死傷者が多い。日本公使館には武器は常備されておらず日本義勇隊は竹槍風部隊で、公使館つき護衛兵も25人と最低人数であった。この頃から日本は現地情勢の判断が甘く、日清戦争の2年後にして外務省は平和ボケをしていた、と判断される・・・と「北清事変」には書かれている。
http://ww1.m78.com/sinojapanesewar/boxers%20rebellion.html

8カ国は、6月初旬には第1次連合軍を派遣した。イギリス海軍中将シーモアは連合軍約2000名を率いて北京を目指したが、京津鉄道(北京-天津間)が破壊されていたため、なかなか進軍出来ずに義和団と清朝軍により天津へ押し返されている。そのため第2次連合軍を編成し総数2万人に及ぶ混成軍を派遣した。その中心となったのが、日本とロシアであった。

当時イギリスは南アフリカでボーア戦争を戦っており、多くの兵力を送る余裕がなく、日本に派兵を要請していた。アメリカは米比戦争を戦っていたため、これまた多数の派兵は出来なかった(当ブログ2007/8/2の慰安婦問題誤報を参照のこと)。日本は第五師団・およそ8,000名を派遣し、福島安正少将(当時。陸軍大将で男爵)に指揮を執らせた。彼は英語、仏語、独語、露語、中国語に堪能で、北清連合軍総司令官幕僚として作戦会議で司会を務め、各国語を駆使して調停役を務めた。現代の日本の官僚、政治家、自衛官も外国語を堪能に操る様でなければ、国威発揚は出来ないものと認識しなければならない。このような国家戦略が必要である。

日本は大軍を派遣するであろうロシアへの牽制と朝鮮半島の安定のためと、更には念願である不平等条約の改正を成し遂げなければならなかったので、列強側と協調した。

連合軍は天津攻略のために大沽砲台を攻略し、清朝正規軍を圧倒し7月14日に天津を開放することが出来た。しかし北京進攻は各国の思いが異なり、思うようには進まなかった。もともと義和団には近代兵器はなく、刀、槍、剣などが主であり、清朝軍も全体を指揮する能力が欠けており、前近代的と日本軍は見ていたが、彼らの士気はすこぶる高く、日本軍をして「彼らの携帯兵器多くは清国在来の刀・槍・剣、若しくは前装銃にして、みな取るに足らざるものなりしも、よく頑強の抵抗を為し、我が兵を苦しめたる勇気は称するに余りあり」と言わしめている、とWikipediaに記されている。

(続く)
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