世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日韓併合100年(39)

2010-12-10 10:36:19 | Weblog

さてドイツは、1897年11月1日、山東省西部の巨野県でドイツ人宣教師が2人殺された。これを口実に「ドイツ人保護」名目で膠州湾を占領した。そして居座り膠州湾全体を99年間租借することで和解した。そしてドイツは膠州湾を開発し、小さな港町を一大商業港・青島へと発展させた。

これを契機に列強は中国から租借地を獲得することになる。1898年・ロシア(旅順、大連)、1898年・イギリス(威海衛と九龍半島や長江からビルマへの鉄道施設権)、1899年・フランス(広州湾)へと繋がってしまい、全てが99年の租借地となった。特にロシアは万里の長城以北と満州に勢力圏を拡大し極東への野心をむき出してきた。そのため早晩日本とぶつかる運命にあったのである。

日本も防衛上最低限の要求として、台湾のすぐ隣の福建省を他国に租借・割譲することがないように約束を取り付けている。


1895年5月8日日清講和条約が批准され、5月29日に台湾北部に近衛第一旅団が上陸を開始した。しかし現地の義勇兵のゲリラ戦や友好的と見せて背後から襲うなどの戦いに手こずったため、何度かの増派が行われ、最終的には2個師団以上の戦力、将兵5万人、軍夫2万6千人を投入して1895年11月18日にようやく台湾全島を平定することが出来た。戦死164名、病死者4642名、軍夫主に病死者(マラリア、赤痢など)7000名推定、台湾側1万4千名の死者をだした。これを乙未戦争(いつびせんそう)と言う。


しかし三国干渉による遼東半島の返還の結果、朝鮮での日本の軍事的・政治的権威失墜し、閔妃など親露派が台頭してきた。そして1895年7月6日閔妃ロシア軍の助けを借りてクーデターを起こし、政権を奪回する。そのため大院君や開化派勢力に警戒されて反感を買い、高宗の父・大院君などの策謀により1895年10月8日に閔妃は暗殺された。これが乙未事変である。

この事件では朝鮮人3人が捕まり絞首刑となっているが、時の趨勢として日本公使も暗殺事件に関与したのではないかと疑われ、日本に召還され裁判にかれられたが、証拠不十分で釈放されている。

乙未事変後親露派が一掃され大院君を中心に国内改革を進めたが、朝鮮政情は安定しなかった。親露派の勢力はロシアの指示で、日本の電信線を切断するなどの暴動を起こしていた。そして1896年2月10日、「日本兵が攻め込む」との偽情報を高宗に流し、翌2月11日、ロシア水兵を京城に引き入れ、高宗をロシア公使館に連れ去ってしまう。そして高宗は1896年2月11日から1897年2月20日までの間、ロシア公使館で朝鮮王朝の執政を行うこととなった。これを露館播遷ろかんはせん)と言う。ある意味清国の呪縛からは逃れたことになる。そして高宗は、1897年(明治30年)に清の冊封体制から離脱した証として国号を大韓と改め、元号も光武に改元し、清の冊封の象徴であった迎恩門や大清皇帝功徳碑を倒して独立門を立て独立を記念することが出来た。

このようにして日清戦争の結果、朝鮮は清国の冊封体制から開放され、1897年10月12日、高宗は、皇帝即位式を挙行し、「大韓」帝国の成立を宣言することが出来たのである。

(続く)
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