世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日韓併合100年(33)

2010-12-03 02:01:06 | Weblog

さしもの北洋艦隊はこの「威海衛の戦い」で、全滅した。定遠は沈没し、鎮遠は鹵獲され連合艦隊の二等戦艦として、日露戦争の黄海海戦(ロシア旅順艦隊を撃破)や旅順攻略戦やはたまた日本海海戦にも参加した。この辺の事情は、11/22のNO.26を参照願う。そして明治44年(1911年)に除籍、標的艦として破壊された。

さて、日露戦争では第2艦隊司令長官だった上村彦之丞海軍中将(後に大将)は、傾きながらも砲撃を続けていた巡洋艦リューリックの姿を見て、「敵ながら天晴れな者である。生存者は全員救助し丁重に扱うように」と命令し、627名を救助した、・・・・・とWikipediaに記載されている。

しかし彼の真価は、日本海海戦において、バルチック艦隊の急旋回行動を偽装転進と見破った第2艦隊参謀佐藤鉄太郎中佐の的確な意見具申を受け、東郷司令長官の指令に対し独断専行単独で艦隊を追撃し至近距離から攻撃したことが、日本海海戦の勝利を確定させたことである。このいきさつを佐藤の講演で知ったアメリカの一提督が「ブラボー!アドミラル上村」と叫んだと言う。これもWikipediaに記載されている。


上図は『日清戦争』http://ww1.m78.com/sib/sinojapanese%20war.html
の『営口の風俗』http://ww1.m78.com/sib/eikou.htmlより、引用している。

海城攻防戦の後、首都(直隷、中華皇帝のお膝元、北京)決戦のために遼陽や営口付近の清軍を掃討する必要があり、さりとて直隷決戦のために兵力の損耗を避けたいとの思いの交錯する中で、大本営と前線司令部(第1軍)の間では意見が交わされていた。第1軍では掃討作戦を必要と考え、大本営は直隷作戦の妨げとなると考えそれを拒否していたが、結局は掃討作戦の規模を縮小して実施されることとなる。即ち、海城から3月2日に鞍山(11/29の地図参照)、3月4日に牛荘、3月9日に田荘台を攻略する。遼河対岸の田荘台には清軍2万人、砲40門の大軍であったため日本軍も三個師団(大雑把に言って一個師団は10,000~13,000名と思われる。)が参加する大戦となったが、大規模な砲撃戦の末攻略に成功する。そして敵拠点を破壊し、全軍を撤退させ営口、牛荘、海城、鞍山、鳳凰城、九連城を日本軍の守備ラインとして、次の直隷決戦に備えることとした。そして第2軍に新作戦の命令が下された。

ちなみに、陸軍の組織単位は、班、分隊、小隊、中隊、大隊、連隊、旅団、師団、軍団、軍と言った組織形態をとる、と言う。

山海関の東方の「洋河口」への上陸作戦である。山海関は今の秦皇島市の近くにある。万里の長城の東端にある要塞であった。満州はこの関(せき)の東に位置したため関東と呼ばれ、関東軍の名はこれに由来している。

(続く)
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