おっさんひとり犬いっぴき

家族がふえてノンキな暮らし

明るい蕪村さん

2022-02-25 10:35:03 | 日記

 俳句というのは、趣味にしているのでなければ、お目にかかる機会は少ない。ただ、「古池や蛙飛び込む水の音」と言えば芭蕉、「やせ蛙負けるな一茶ここにあり」と言えば一茶、「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」と言えば正岡子規と、それなりに常識として頭の中にはある。

 そんな浅はかな知識の中で、僕がずっと好きだった句は「春の海ひねもすのたりのたりかな」で、それが誰の句かも知らずに「いいなあ。春の雰囲気が出てるなあ。こういうの好きだなあ」と感じていた。最近、それが与謝蕪村の句と知り、蕪村さんに関する本を読み始めた。そろそろ一冊を読み終えるが、蕪村さんという人はなかなか味わいのある人で、もう少しいろいろ読んでみようかなと思っている。

 蕪村さんはもともと町絵師として出発した。頼まれて絵を描くという、今でいうイラストレーターみたいな仕事だったのだと思うが、趣味で始めた俳句でも次第に頭角を現し、周りの推薦で55歳で俳句のお師匠になった。お師匠になると、句会を主宰したり、派の本を出版したりと何かと雑用が増える。本格的な絵描きを目指した蕪村さんは、修行を怠らず、ついには京都に行き、絵師としても名声を得るようになる。俳句との二刀流は多忙になるすぎると、あくまでも俳句は余技としていたのである。

 そんな蕪村さんは、明治になる頃には忘れ去られた存在になっていた。江戸時代、俳句のお師匠さんなんてのは、日本全国掃いて捨てるほどいた。それを発掘したのは、明治になり俳句の新しい風を起こそうとしていた正岡子規だった。

 俳句と言えば芭蕉さん風のものばかりだった俳句の世界を、これじゃあ進歩がないと工夫を凝らしていたのだが、昔の俳句を調べるうちに、「蕪村さんってはちょっと面白いんじゃないか」ということになり、蕪村さんの句が集められたのである。

 蕪村さん自体も、芭蕉さんを尊敬しながらも、自身の性格からかワビサビについては深く追い求めることはなかったようだ。町絵師からスタートした蕪村さんにとって、ノイローゼになり自殺したり、青白い顔で破滅的な人生を歩んだりといったロマン派の劇的な人生は、どこを見ても見当たらない。

 蕪村さんの句は、誰よりも明るく伸び伸びとした調子を持つ。

「夏河を越すうれしさよ手に草履」
「菜の花や月は東に日は西に」

 芭蕉さんや良寛さんも、当時の日本人としては長命だったが、蕪村さんも同じく幸せな長寿をまっとうした。日本の芸術家には、こうした人たちが多い。

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