明け方に夢を見た。ひどい夢だったので、起きた時には胸糞が悪く、そこからもう一度寝ようという気にはなれなかった。後で考えてみれば、自分で見た夢で勝手に気分を害し、眠れなくなっているのだから世話はない。
夢というのは、昨日ブログで書いた犬が人を咬んだという話の続きのようなもので、散歩中にテオが乱暴なジイさんを咬んでしまうというものだった。その時は嫌な気分で目が覚めたが、冷静になれば「昨日書いたブログのせいだな」と納得する。
若い頃はよく夢を見た。中には自分でも驚くような整合性の取れたストーリーのある夢もあり、夢の正体を知りたいとも考えたことがあったが、歳をとるとなんとなく夢の正体が自分でもわかってきた。要は脳みそというのは、その日に飛び込んできたすべての刺激を記録する。それはテレビの映像だったり、実際に見たものだったり、匂いだったり、音だったり、あるいは頭の中で想像を膨らませた話だったりと、脳みそが感じた刺激をすべて一律で受け取る。
それを寝ている間にせっせと整理しているのだが、無意味なものの連続に僕らの意識はついていけず、不連続な断片になんとか意味を持たせようとする。だから、年寄りよりも若い人、想像力に富んだ人ほど意味ある夢を見がちなのである。
若い頃は心理学者のフロイトが持てはやされ、「夢判断」や「精神分析学入門」のような本を読むこともあった。トンデモ本の中には、「夢判断」と称して適当なことを書き並べているものも多かった。夢に「車」が出てくればこういう象徴、「湖」が出てくればああいう象徴と、もっともらしく分析していたが、最近ではさすがにメッキが剥がれたと見えて、そんな本も見なくなった。と同時に、フロイトの精神分析も近頃は主流ではなくなったようだ。
科学に名を借りたトンデモ科学で商売をするものには、健康食品などが多い。「この成分が、ある学会で目が良くなるという研究結果が報告されました」と謳うが、あくまでもひとつの研究であって証明はされていない。反対の結果が出ていたとしても、企業はそういう不都合な研究結果には目をつぶる。一時流行ったプラズマクラスターやアルカリイオン水なんてものも、同じようなトンデモ科学で、近頃は影が薄くなっている。
人間は一度仕入れた知識というものに固執しがちで、なかなかそれを捨てたがらない。年配の人に多いが、「血液型何型?」と聞いてくる人がいて、いまだにそんな化石みたいな知識を大事にしていることにビックリすることがある。
その人の中に、例えばA型イコール几帳面という図式があったとする。すると、几帳面な人をつかまえて「血液型何型?」と聞く。「A型」と答えると「だと思った。だって几帳面そうだから」と大喜びをする。が、几帳面そうな人をつかまえて「几帳面そうだ」と言うのなら、二度手間になっている。最初から「あなたはどっちかと言うと几帳面なタイプですよね?」と聞いたほうが早いことには気づいていないのである。これも夢判断と発想は同じところにある。