おっさんひとり犬いっぴき

家族がふえてノンキな暮らし

恥ずかしい場所

2018-10-31 10:37:40 | 旅行

 大分の友人に、お土産があるからと連絡しておいたら、仕事の帰りに取りに寄ってくれた。週末までいるからと告げると、今度の休みにゆっくり会いに来ると言う。

 よく晴れた秋晴れの午後、今から行くからという連絡があり、二人で出かけることにした。
「どこ行く」と言うので、「できたら絵の題材になるような場所がいい。国東半島の漁村でも回ってくれれば、どこかいい場所があるかもしれない」とお願いして、国東半島の海岸に沿って車を走らせてもらうことにした。

 数日前にも近くの漁港に初めて足を伸ばし、ブラブラとして来たばかりだったが、案外近くても用事がないと漁港には行くことがない。国東半島に何度も足を運んでいる地元の人間にしても、幹線道路から外れ、岬と岬の間に挟まれた小さな漁港に寄ることはない。風光明媚な場所はないかもしれないが、すぐ近くに見たことがない風景があるというのは、なんとはなしに不思議な感じがするのである。

 ひとつの港に寄っては、次の港を目指す。国東半島は海の中から山が現れたような地形なので、平野部が少なく、山裾がそのまま海へと転がり込んだようなものなのである。そのせいで、すぐ隣の漁村に行くのにも、ひとつ尾根を超えていかなければならず、それぞれの漁村が孤立している。

 日本三大夕景でもある真玉海岸まで来ると、近頃はすっかり有名になったためか、お土産屋と小さな食堂を兼ねて、観光施設がある。
 「あれ、こんなのいつできたの」と友人。
 「ここもそうだけど、この先の粟嶋神社はもっと恥ずかしいことになっているよ」と僕。意外と地元の人間は、地元の変化に鈍感なのだ。

 恥ずかしい粟嶋神社とは、観光客を集めるために、最近は恋人岬みたいなノリで、ハートのオブジェがあったり、絵馬に鍵がついたようなものを飾って願をかけるようになっている。 その絵馬を見るとはなしに眺めていたら、男の文字で、「幸せになれよ」みたいな絵馬があった。一見優しい男を演じているようだが、どうやら振られた男が悔し紛れに振った女に、上から目線でエールを送っているようだ。

 「こういう恥ずかしい場所には、こんな恥ずかしい人間がやって来るんだぜ」と納得しあっている、恋人岬のオッサン二人組であった。

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思い出の海

2018-10-30 10:11:06 | 旅行

 別府のホテルに一泊した後は、タミちゃんを大分空港まで送る。僕は1週間ほど大分にこのまま滞在するが、知人宅に預けたドリが心配なので、タミちゃんはとんぼ返りなのである。10時半の東京行きの飛行機に間に合うようにホテルを8時半にチェックアウトする。

 予定より30分ほど早く空港に着いたので、空港から10分ほどの場所にある昔トトと遊んだ黒津崎の海まで足を延ばす。ここは海水浴シーズンになっても、家族連れが1組か2組しか来ない場所で、ほとんどプライベートピーチみたいなものだ。夏になると、小さかったトトを連れて来ては、一緒に浮き袋で浮いていたり、沖でトトを放流して泳ぎを教えたり、木陰で昼寝をしたりして過ごした思い出の場所なのである。

 というような、説明をした後、空港までタミちゃんを送り、飛行機が飛び立つのを見送る。

 ドリをよろしく。タミちゃんは空港のカウンターで「富士山は見えますか」とおのぼりさんみたいな質問をし、見える側の席だったことを聞きつけて満面の笑みを浮かべていた。

 これからは宇佐の家に戻り、大掃除をし、痛んだ箇所は修理し、昔のトトの写真を探し出したり、絵の題材を探して回る予定だ。

 福島では稲刈りが進んでいたが、この辺りは二毛作で春から夏にかけて麦を育てるので、稲刈りは遅くなる。

 気温は連日25度を超え、秋の格好をして来たが、Tシャツ1枚でも暖かい。今回はランニングシューズやランニング用のリュックも持って来ていたので、ほとんど平らな田園地帯を15キロほど走ったら、軽トラで走るオッチャンから「頑張れよ」と声をかけられてしまった。ランニングする人が珍しいのだろうか、きっとランニングで旅行する人にでも勘違いされたのだろう。

 

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ご無沙汰

2018-10-29 14:09:59 | 旅行

 昨夜、1週間とちょっとぶりに九州から戻ってきた。テンションマックスのドリを期待したが、「帰ってきたの」くらいの出迎えでガッカリだ。子犬だったら、半日家を開けただけでも奇跡的な再会を遂げたように喜ぶのに、なんだおまえは。

 どちらかといえばドリよりも僕の方がテンションが高いのは、犬のいない旅行が久しぶりだったこともあり、おそらく1週間も犬がいないというのは、トトを飼う前の17年ぶりということになるだろう。とにかく朝早く目が覚めるものの、犬がいないというのは実につまらないもので、カメラを持って散歩に出たところで、あたりが明るくならないうちは、写真も撮れないのである。ああ、つまらない。

 一夜明け、今日は朝からカフェの痛んだ場所の補修だ。ハゲチョロけたペンキを塗り直したり、夏仕様だった店内の雰囲気を冬仕様へと変更しなければならない。10日も休んだので、新たに食材も買ってこなければならないし、旅行の後始末もしなければならない。というわけで、カフェの再会は11月1日(木)の予定だ。

 さて、今回の旅行は法事のためだったのだが、その後、大分の家の片付けや大掃除のほか、痛んでいる部分の修理や工務店さんにあちこちチェックしてもらったりしていたので、毎日せわしないうちに過ぎた。絵の題材になるような場所を探し、写真に撮ってこようと考えていたが、あまり収穫もなかった。

 山の上のお寺で法事を行なった後、ホテルにチェックインするには時間が早かったので、「うみたまご」という水族館に寄ってみる。あいにく時間が遅かったので、イルカやアシカのショーなどは見ることができなかったが、1時間ほどブラブラするには十分楽しむことができた。

 別府湾を背景にトドが昼寝をしていたり、ライトアップした中を鰯の群れが泳いでいたりと、その度に足を止めていたが、一番長い時間を過ごしたのは、カワウソの檻の前だった。

 こりゃ、ペットとして人気が出るわな。

 大分にいた時には、大分のホテルに泊まるといったことがなかっただけに、別府湾を望むホテルで一夜を過ごしたのは、なんとも贅沢な気分になった。

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ドっちゃんのお泊まり

2018-10-18 11:27:17 | 福島

 用事があって、僕は九州まで出かけてくるが、奥さんはゆっくりする暇もなく、すぐにとんぼ返りしてくる。近所の人に高齢犬ドリのお世話をお願いしたのだが、手がかかるだけに、ちょっとの間だとしても恐縮してしまうのだ。

 ドリのお世話してくれるのは、ドリと同じゴールデンレトリバーを飼っていたお宅だが、ドリよりずいぶん若かったにも関わらず、今年の1月に病死してしまったのだ。去年の夏には近くのゴールデンレトリバーも急死し、ドリも年末には生死の境をさまよったので、この近辺では大型犬にとっては不幸続きなのである。そういうこともあって、ドリを預かることを楽しみにしていてくれているので、心配はしていない。

 幸いにしてドリは生死の境から奇跡的に復活することができたが、我が家では代わりに三月にトトが老衰で死んでしまった。犬は人間の7倍の速さで歳をとるので、人間同士のように「また今度なんて」ことを考えていると、今度が来ないことを知って愕然とするのだ。

 さて、換毛期に差しかかったのか、普段よりも綿毛のような毛が抜けているドリを、しっかり綺麗にしておかなければならない。最近ドリがはまっている子犬用のミルクも大量に作ってペットボトルに入れておく必要がある。散歩の時のリードや道着も綺麗にしなきゃならないしで、結局のところ旅行よりも、ドリのお泊まりの準備の方が大変なのである。

 というようなわけで、1週間ほど僕は九州に出かけ、ついでに絵の題材もたっぷり仕入れてこようと思っている。その間、ドリの世話は近所の人と我が家の奥さんにお願いすることになる。ネットにつながる環境にも、装置もないので、しばらくはブログの更新もできなくなるが、しっかり日記だけはつけて、再開時にはまとめてアップしようとでも考えている。

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コンプレックス

2018-10-17 09:37:40 | 福島

 昨夜、ウルグアイ対日本のサッカーの親善試合を観て、久しぶりに興奮した。ワールドカップ後、新生日本となって3戦目だが、前回2回とは比較にならないほど面白かった。ウルグアイが世界5位という強豪ということもあったが、新生日本には、今までに日本チームになかったものがあるのを感じるのである。

 それが何かとは素人にはわからないが、世界の強豪と対しても臆することがない堂々とした態度や、サッカー自体が面白くて仕方がないという空気が選手から出ているのは、今までになかったんじゃないかと思う。特に前線の3人、中島、南野、堂安には、かつての日本人が抱えていたコンプレックスのようなものは皆無に見える。

 日本という国は、世界の端っこにあり、大昔から進んだ外国の文化に対応するのに精一杯だった。昔は中国、そのあとはオランダやポルトガル、明治になって開国した後は欧米の文化に対応するのに追われ、いつも何かに従ってきた。それが、先頭を切って何かを始めたり、成果がわからないものには手を出したがらなかったり、一度できた組織や制度を改革するのを渋ったりという、日本人の持つ国民性というものにも繋がっているのかもしれない。

 第二次大戦後も、もはや戦後ではないと宣言しながら、いまだにアメリカに追従することだけが外交となっている現状を見ていると、一度抱えてしまったコンプレックスを払拭するのには、新しい世代の日本人の登場を待つしかないのかなと思っていたが、サッカーを見る限りは、世界は挑戦するものから、自分が活躍するためにそこにあるものに、確実に変化して行っているように思う。

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秘密兵器

2018-10-15 12:00:55 | イラスト

 ドリの後ろ足に履かせる靴は、爪先を引きずるドリにとっては心強い味方で、アスファルトの上でガリッと擦っても、少々のことでは痛みを感じないようだ。そのため、少しくらい足が変な方向を向うと、痛みがないものだから力ずくで先へ進もうとする。爪先が引っかかり、足の甲がグイッと前に出た形でも、そのままグイグイ前進しようとする。結果、前足だけの力で、後ろ足は伸び切った状態になっている。足の甲を前に出した格好で歩く姿は、まるでバレリーナなのである。

 せっかくの秘密兵器も、あっという間に爪先のゴムはめくれ、足の甲の部分に小さな穴が無数に開いてしまった。まだ買って三日と経ってないのに、な〜んて日だ。

 次に、以前高齢犬のために買ったものの使わずじまいになり、ドリがお下がりとして知人から貰い受けた胴着のようなものを装着させてみる。これは前足から胴体にかけてお腹から背中に包む形で、背中のところでジッパーで止めると、肩と腰のところに取っ手みたいなものがふたつ付いている。そこを持って歩かせると、足腰の負担が減るという代物だ。

 模様がバーバリーのチェック柄みたいなので、胴着を装着した姿は、ボストンバッグから脚が4本伸びているみたいなのだ。「ドリ、おまえ相当面白いぞ」

 試しに散歩に出て見ると、犬を散歩させていた近所の人から、「ドリちゃんも、いよいよね」と言われてしまった。

 高齢者に寄り添う大型犬というのは絵の題材になりやすいが、高齢犬に寄り添う飼い主の絵というのは難しいな。

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空気感を出す

2018-10-14 10:51:22 | イラスト

 目の前の風景を絵に描くという作業は、単純なところからだんだん描き込んでいくのが普通のやり方だろうが、目は実はその反対の作業をしている。色と形が氾濫し、明確な輪郭線も存在しない目の前の世界に、明確な区別をつけているのは、知識や経験があってのことである。今見ている風景に、森や電信柱やビルディングや自動車を見つけることができるのは、その存在をはっきりと認識しているからである。

 自然を見るとは、とりとめもない無秩序の中に、秩序やリズムやを発見するということでもある。同じように絵を描くとは、おそらく自然の中から、印象深いものを、線や形や色で抽出し強調する作業だとも言えるだろう。

 近頃はすっかり涼しくなり、散歩に出た瞬間に「ああ、秋だなあ」と感じることが多い。それは色づく木の葉だったり、空の高さだったり、風の冷たさだったりするのだろうが、はっきりそうだと思っているわけでもなく、ただ秋らしくなったなあと感じている。そういうものを、周囲に漂う空気感と言うのかもしれない。

 絵を描いていて、どこまで単純化できるかが、今のテーマになっているのだが、同じように海を描いても、それが夏の海なのか、秋の海なのかを感じるのは、どういう理由によるのだろうか。

 海にトトがいる景色を描いてみたが、秋の海を感じさせるために、コカコーラの空き瓶をひとつ付け加えてみた。これひとつで、夏の喧騒が終わったことを暗示させているようで面白い。

 

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アンヨが上手

2018-10-13 11:11:22 | 福島

 注文していたドリの靴が届いた。早速後ろ足に装着してみると、ドリは満更でもなさそうで、早速散歩に行こうとその気になっている。

 陽は落ちて暗くなっているが、試しにその辺をブラブラさせてみる。まだ靴の大きさに慣れないせいか、足を出すときに爪先がどうしてもアスファルトに引っかかってしまう。もっと足を上げて歩かないと、今までのように引きずるような歩き方では靴底のゴムがストッパーになって足がついてこないのだ。

 今朝も靴を履かせると、ドリは爪先が痛くないからか自分から歩こうとする。まだ足の大きさが把握できていないのか、時々爪先が引っかかるときがあるが、慣れてくればうまく歩けるようになるかもしれない。僕だって、ランニングシューズで走るときに、何度爪先を引っ掛けて転びそうになったことか。いや、実際に人が見ている前で派手に転んだこともある。

 それにしてもこうして見ると、もはや犬ではなくなっているのである。

 昨夜たまたま見た動物の番組で、船の上で働く人たちが甲板で滑らないようにと開発されたデッキシューズは、犬の足を参考に作られたという話を紹介していた。氷の上を走る犬ゾリの犬たちを見て、足の裏を調べたところ、肉球のところがザラザラになっていて、滑らない構造だという。デッキシューズでは、靴底に無数に切れ込みを入れることで、滑らない靴の商品化に成功したのだ。

 犬に履かせる靴なら、やはりデッキシューズがいいのかな。

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犬の靴

2018-10-12 13:17:47 | 福島

 若い頃からせっせと山登りをしていたトトは足腰が強く、13歳くらいまでは問題なく山に登っていた。そんなトトでも寄る年波には勝てないと見えて、死ぬ1年前では急な上り坂に差し掛かると、ガクンと歩くスピードが落ち、なかなか前へは進まないようだった。死ぬ半年ほど前になると、お座りをしていても、前足を閉じているのも大変そうで、自然と両側へ広がって行くのだった。

 ドリは大型犬ということもあって、重い体を支えて歩くのは大変らしく、気持ちは早るのに、たまに後ろ足がついてこなくてペタンと座ってしまうことがある。去年、大病を患ってからは、ますます後ろ足が弱くなり、平坦な道を歩いていても、後ろ足は引きずり気味で歩く。そのせいで、後ろ足の爪がアスファルトですっかりすり減り、時々深爪をしたみたいに血がにじむことがある。歩いていて後ろ足が引っかかると、ガリっという音とともに、痛さでケンケンするような歩き方になる。

 なんとかいい方法はないものかと、ネットで犬用の靴を探したら、いろんな靴が売られているではないか。犬に靴を履かせるなんて、セレブなマダムが、ワンちゃんに洋服を着せるのと同じ感覚で履かせているに違いない。

 が、実際には高齢で足が弱くなった犬や、炎天下のアスファルトの上を歩かせるのに、熱射病にならないように履かせることも多いようで、オシャレで履かせているわけでもなさそうだ。というわけで、後ろ足用に2個注文した。

 購入した人のレビューを見ていたら、「犬用に一足注文したら、4個届くとばかり思ったら、2個しか入っていなかった。人間にとって一足はふたつの意味でも、犬だったら一足とは4個じゃないのか」と憤慨しているコメントがあり、つい笑ってしまった。気にもしていなかったが、確かに一足とは人間の場合、左右揃って一足だ。果たして、犬の場合は一足とは果たして人間同様2個なのか、4個なのか。

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そもそも人権って

2018-10-11 11:25:31 | 日記

 最近、ある政治家が性的マイノリティの人々を生産性がないと発言し、大騒ぎになり、その政治家を擁護する特集を組んだ雑誌は廃刊せざるを得なくなった。根底に人権についての大問題があり、こういう発言は決して許されるべきものではない、というのが世界の潮流だ。

 が、口々に「人権人権」と騒ぐわりには、日本人にとってわかりにくいのが、人権ってそもそも何ってことなのである。

 人権という考え方は、もともと西洋から生まれた。というか、キリスト教やユダヤ教、イスラム教のように一神教を信じる人たちにとっては、至極当たり前な考え方なのである。つまり、この世は創造主という唯一無二の存在が作った。人間も動物も昆虫も草木も、地球も宇宙も、ありとあらゆるものすべてである。創造主によって作られなかったものは、この世には存在しない。だから、自殺も赤ん坊の中絶も、それは神様が作ったものを破壊するということで罪なのである。動物愛護団体が西洋において過激なのは、同じ理由によるからだ。

 自分の体は自分のものであるという意識があるから、最後の手段としての自殺も仕方がないと容認する人も、赤ん坊を育てられないなら、生まれる前に流産させようという考えも、一神教の世界では歓迎されない。犬猫をペットショップで購入できないのも、それが神の創造物であり、商品のような売買が許されないからである。

 つまり、人権とは、この世に生まれた以上は、誰からも生存を脅かされない権利である。

 ドラマや小説では、落ち込んだ人に「どんな人でも必ずどこかで役に立っているのだから、元気を出しなさい」というような慰め方をするシーンがあるが、役に立とうが立つまいが、この世にいる以上は無条件で生きる権利があるわけで、実はこういう「役に立っているから生存価値がある」というような考え方は、問題となった政治家の「生産性がない」という発言を増長していることに注意しなければならない。

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