おっさんひとり犬いっぴき

家族がふえてノンキな暮らし

怪しげな空模様を走る

2022-08-31 16:14:43 | 福島
 先週の月曜日に走って以来、天候が悪かったり用事ができたりで、一週間以上走ることができなかった。台風が近づいているということもあり、今日は絶対に走ってこようと決め、天気予報とニラメッコする。幸い雨にはならないようだ。

 出発すると、分厚い灰色の雲が空を覆い、怪しげな雰囲気が漂っている。台風が近づいているときって、こんな感じなんだよなと、こんなところにも季節を感じたりする。湿度は高いが、風も強いので、走っていても気持ちがいい。久しぶりのランニングで、普段より快調に飛ばす。汗が吹き出し、帽子もランニングシャツも、絞ったらたっぷり絞れそうなほどびしょびしょになる。

 天気予報では雨はないようなことは言っているが、空を見る限り、いつ大雨になるかわからないような空模様だ。安達太良山は麓まで雲に覆われているし、場所によってはベールがかかったような霧が立ち込めている。こういう日はすぐに家に帰れるように、阿武隈川の土手を行ったり来たりすることに決める。最近はスマホをリュックに入れて走っているので、勝手に万歩計が歩数を数えてくれている。歩幅を1メートルと設定しているので、坂道を走り降りている時には、それ以上の歩幅だし、水分補給のためにテクテク歩いている時にはずっと歩幅は狭いし、ちっとも正確な距離はわからない。とりあえず、腕時計のストップウオッチと万歩計の歩数で、大体の距離を推測するしかない。

 今日のコースは20キロ。時間にして2時間。大体これが僕のペースだ。これだといくら頑張っても、フルマラソンで4時間を切ることは不可能だ。最もフルマラソンに参加するのが、いつになるかはわからないが。

 土手を走ると、両脇の雑草が僕の背丈ほども伸びている。幅1メートルくらいのサイクリングロードが、雑草のせいで50センチほどの幅しかない。風が当たらないので、土手を走っているにもかかわらず、ちっとも涼しくないのだ。国交相の河川を管理する皆さん、頑張って草刈りをしてください。

 家に帰ると、2時間をちょっと超えていた。スマホを取り出し万歩計を確認すると、2万歩にほんの少し足りなかった。従って距離も19.9キロと20キロに届かなかった。あと50メートル走って折り返せば20キロだったのかと、ちょっとがっかりする。

 缶ビールを飲み、昼飯を食い、横になると、いつの間にか寝てしまっていた。ハッと目覚めると、すでに夕方が近いではないか。やばい、夕飯の準備を何もしていないのだ。
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不条理な世界

2022-08-30 10:14:03 | 日記
 昔、こんなクイズを出題されたことがある。ふたつの大きさの異なるゴム風船がある。今、このふたつのゴム風船の間にストローを置き、それぞれのゴム風船の口をこのストローに繋いだ時、ふたつのゴム風船の大きさはどうなるか、というものである。

 1番は、ふたつの風船に何も変化は起きない。大きい風船は大きいまま、小さい風船は小さいまま。
 2番は、ふたつの風船の大きさは同じになる。
 3番は、大きい風船はより大きく、小さい風船はより小さくなる。

 なんとなく、ふたつの風船の大きさは同じになりそうだが、正解は3番で、小さい風船の空気は大きい風船に吸い取られてしまう。2番のような気がするのは、熱いものと冷たいものをくっつけた場合に、最後は均等な温度になることから、こういう錯覚を起こすのだろう。

 で、自然現象というのは、力の大きなものが力の弱いものを吸収してしまうようにできている。惑星が、近くにやってきた流れ星を飲み込むことを想像すればイメージしやすい。ところがである。これが人間のことになると、なぜか不条理に感じてしまう。

 「不条理」という言葉は、カミュの「異邦人」で有名になった。「不条理」を辞書で引くと、「道理に合わないこと」と出る。「不条理」をテーマとした文学というのは、人生というのは道理に合わないことが起こるということを強調したもので、文学の世界ではお馴染みの言葉だ。そして、この言葉は、宗教に関する本を読むと、これでもかというくらい頻繁に登場する。

 「歎異抄にであう」を読んでいたら、こういう話が紹介されていた。「現代では、世界の富豪上位26人が保有する資産の合計額が、世界の人口の下位半数(38億人)の保有資産と同額だと言われています。とても承伏しがたい、ひどい経済格差が生じているのです。(中略)このような社会の『不条理』は、いつの時代にもあり、人々が解決に努力してきました」

 で、最初のクイズに戻り、人間も地球上の自然現象のひとつと考えるなら、富めるものがより富み、貧しいものがより貧しくなるのは、当然と言える。みんなの富を一ヶ所に集め、平等に分配するのでなければ、必ず格差は広がっていくと考えるほうが、道理にかなっており、富を均等にするほうが、よほど「不条理」な現象なのである。

 ということなので、結局は資本主義という人の世の仕組みの問題であり、格差をなくそうとすれば、資本主義社会からすれば「不条理」な規則を作っていかなければならないのである。例えば、働いても働かなくても給料は同じというような共産主義のような規則である。

 宗教に関する本を読んでいて、最近そういうことなのかなと想像することがある。そもそも人は、自分におとずれた苦しみからなんとかしたいと考える。これが宗教の出発点になる。自分の頑張りが足らず、なまけ心から苦しんでいるとしたらあきらめもつくが、「不条理」なことが自分に起こると、人の世を超えたもっと大きな存在を考えるようになる。

 おそらく、ほとんどの宗教は、個人の苦しみについてこう教える。自分の苦しみというのは、実は自分ひとりがなんとかなればどうにかなる、というものではなく、自分の周囲とのもろもろの関係で生活している以上、周囲の環境も合わせて改善していかなければ、自分自身も救われない。ということで、すべての人を救済しなければ、自分自身の救済もないというのが、宗教の意味するところとなる。キリストの宣教師もそうだったし、過激なイスラム国にしても、行動の原理はそこにある。

 「より良い世界を作る」というスローガンは、誰の目にも正しいことのように見えるが、よくよく注意しなければ、特定の人間にだけお得な、実はとんでもない「不条理な世界」を目指していたりするのは、世の中を一度リセットしなければならないという使命が含まれていることから来るのである。
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贅沢な時間

2022-08-28 12:25:50 | 日記
 ちょっと買い物の用事があって、3軒ほどハシゴした。途中、幹線道路を走っていると、なぜだか渋滞に捕まった。どこかで交通事故でも起きたのか。そう思って全然進まない渋滞の列に加わっていたが、そのうち隣に座っていたタミちゃんが、「ああ、これはこの先にオープンしたスーパーに行く人たちで渋滞が起きてるんだ」と言い始めた。まさか、スーパーのオープンくらいで、こんな場所から渋滞が始まっているとは思えない。

 が、前方を見ると、車はずっと先まで続いている。スーパーの開店の話は半信半疑だが、とりあえず渋滞の列からハズレ、別の道を使うことにした。タミちゃんの話では、会社の人も開店したスーパーに出かけたが、目的のものが買えないほどの大混雑だったと聞いたということだ。

 で、他の店でも買い物を済ませ家路についたのだが、再び渋滞している車の列に出会した。原因はやはり同じスーパーに出かけていく車の列らしく、要はその開店したスーパーを中心にして、四方八方が渋滞しているのだ。

 たかがスーパーである。そのために車で出かけてきて、数十分だか数時間だかわからない渋滞に遭い、大混雑の店内に入ったところで、どれだけのものが買えるのか。そもそもそれほどの価値のあるものが、その店に置いてあるのか。

 世の中には、暇で暇で仕方ない人たちというのがいるようで、自分の寿命も無尽蔵にあると考えているようだ。時間をかけるほどのことでもないことに贅沢に時間を使い、「今日一日暇がつぶせて大満足だった」と感じる。暇をつぶしている間に、寿命はどんどん短くなり、死は確実に近づいているというのに。

 多くの人は死を前にしていない時には、ほんのちょっと得をするために、寿命を無駄に使ってしまう。が、一旦死というものが目の前に迫ると、余命を伸ばすために、どれほど医療費を使い、どれほどの努力をしなければならないか。それを考えると、何を優先すべきかということに悩む必要はなくなる。けれども、「実際問題として、よっぽと歳を取らないことには、死が近づいていることを実感することができない」という人は多いだろう。

 が、死なんか近づかなくったって、自分が最高潮で活躍できる時間というのが、一生のうちでもほんのわずかな期間しかない。大リーグで活躍する大谷くんは、二刀流で活躍できる時間少ししかないことを知っている。暇をどうやってつぶそうか、なんて贅沢な時間の使い方はしないのである。

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草を刈る

2022-08-27 12:38:58 | 福島
 天気予報では今夜から雨になるらしい。予定にはなかったが、今日のうちに近所の草刈りをしておこうと、朝食の後すぐに出かける。我が家の草刈りではなく、畑を貸してもらっているお礼がてら、その人の土地の草刈りを自主的に行なっているのだ。というのも、道路の両脇の急斜面の草が伸びてくると道路の幅が狭くなるので、気になるからである。

 斜面にはクズの蔓が蔓延り、まずこいつを鎌で切ってしまわないことには、草刈機は使えない。草刈機の歯に絡まると、その度に機械を肩から下ろし、蔓を外さなければならず、ちっとも仕事が進まないからだ。おまけに急斜面で足を踏ん張って草刈りをするので、蔓を外すにも一旦斜面を降りなければならず、実に効率が悪い。

 で、草刈り鎌、草刈機、草刈機のオイル、掃除のためのホウキを担いで、いざ出発だ。バリバリと草刈りを始めると、涼しかったのも最初のうちだけで、太陽が顔を出し、ミンミンゼミが大声で鳴き始めた。急斜面の草を刈るので、まずは斜面の上から下を覗き込むようにして草を刈り、次に下から天を仰ぐようにして草を刈る。草刈機を上に向けて使うので、すべての重量が腕にかかりあっという間に腕がパンパンになる。上からも下からも届かない場所は、足元に注意しながら、足場を固め、斜面に斜めに立って草を刈る。

 そんなことを2時間もすれば、Tシャツもジャージも大量の汗で雨に濡れたようにビショビショになっている。握力も限界に近いので、飛び散った草をホウキで掃除し、仕事終了。「ビール、ビール」とほとんど熱中症手前の状態で、家に帰る。

 キンキンに冷えた缶ビールをプシューと開けると、気分は最高だ。汗をかくのも、草まみれになるのも、筋肉痛になるのも、すべてはこの瞬間で一気に消し飛んで、幸福な気分に包まれるのであった。
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バカの自覚

2022-08-26 12:06:42 | 日記
 以前、「歎異抄」という本を読んだ。まず、なんと読むか知らなかったが、「たんにしょう」と読む。どういう本かと言えば、鎌倉時代後期に、唯円という坊さんが書いたものだ。内容は、浄土真宗を起こした親鸞の教義を、弟子たちが勝手に解釈し始めたため、親鸞の言葉を残そうとしたものだ。どのくらい弟子たちが勘違いしたかというと、まず親鸞の息子(これも坊さんになった)がデタラメな布教を始めたので、86歳の親鸞は息子を勘当し、縁を切ったのだ。そのくらい当時から親鸞の教えは勘違いされやすかったのである。

 で、最近本屋でNHKのテキストで「歎異抄にであう」という初心者向けの解説本を見つけたので、この頃少しずつ読んでいる。修行して悟りを開くのを小乗仏教という。修行なんてする暇も財力もない人のために、誰でも仏様になれる教えが大乗仏教で、大乗とは大勢の人間のことを指し、小乗仏教が自力でロッククライミングで頂上を目指すのに比べ、大乗仏教はロープウエイでみんな頂上を目指す。

 若い頃は大乗仏教なんて安易な方法より、厳しい修行をして悟るのが本当ではないかと考えていたが、「歎異抄」を読むと、ことはそう簡単ではないことに気付かされる。

 まず親鸞さんの教えは、「南無阿弥陀仏」を唱えなさい。それ以外のことはする必要がない。親鸞さんの言葉で言えば、「南無阿弥陀仏」を唱える以上に学びたいのなら、比叡山にでも行って偉い学者さんに教えてもらえとまで言っている。「南無阿弥陀仏」は今の言葉で言えば、「ああ、阿弥陀様」である。これはキリスト教徒が窮地に陥ったときに「おお、神よ」とか「ああ、マリア様」と口に出すのと同じである。親鸞さんの教えでは、「ああ、阿弥陀様」と口に出した時だけ、阿弥陀様と繋がっていることになる。

 そもそも阿弥陀様の心は広いので、悪人だろうがバカだろうが、信心のない人間だろうが、念仏さえ唱えれば極楽へ行けることになっている。ところが、凡人は普通こう考える。「そんなことくらいで極楽へ行けるなんて本当かなあ」と半信半疑だ。弟子たちが間違うのもここにある。つまり、疑うという行為が、自分自身を少し賢いと考えているということだ。

 僕らは自分のことを「賢いか」と言われれば、「賢くはないがバカではない」と思っている。「善人なのか」と言われれば「善人ではないがそれほどの悪人でもない」と考えている。親鸞さんに言わせれば、阿弥陀様が悪人だろうがバカだろうが、念仏を唱えれば極楽に連れて行ってくれるというのに、どうして自分を悪人でバカだと思わないのだろうか、と言いたいのである。

 ギリシャの哲学者ソクラテスが、「無知の知」ということを言った。「自分は知らないということを知ることが大切なことだ」という意味だ。親鸞さんの教えは、「自分は善人でもなければ賢くもないのだ」ということを徹底的に納得せよと言うのである。「南無阿弥陀仏」だけを唱えていればいいなんて、空想家だと思っていたが、実は大変なリアリストのようだ。
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つくつくぼうしの句

2022-08-25 13:03:08 | 12音詩
 朝から雨が降っていたので、今日は買い物の後、習字をすることにした。お昼近くまで熱心に書いていると、庭木のフリーシアの木から、突然大きな鳴き声が聞こえてきた。「オーシーツクツク、オーシーツクツク」。おお、ツクツクボウシではないか。おそらく今年初めて耳にするツクツクボウシの声なのだ。

 次第に大音量になった声は、そのうち名前の通り、「ツクツクボーシ、ツクツクボーシ」と鳴き始めた。普段は気にもとめない蝉の声でも、初鳴きを聞くとなんだか嬉しくなる。これはツクツクボウシだけに限らず、ミンミンゼミだってそうだし、コオロギだってそうだ。ウグイスやカッコーの声も、初鳴きを耳にした途端、強烈に季節を実感できるのである。

 というわけで一句。「今日からか ツクツクボウシ」

 ツクツクボウシの俳句と言えば、まず思い出すのは自由律俳句で有名な山頭火だ。
  この旅、果てもない旅のつくつくぼうし
  年とれば故郷こひしいつくつくぼうし
  つくつくぼうしあまりにちかくつくつくぼうし
  一人となればつくつくぼうし
  はれてはつきりつくつくぼうし

 各地を放浪しながら句を詠んだ山頭火だからこそ、数多くのツクツクボウシの句が存在するのだろう。机の上で俳句をひねっていてはこうはいかない。炎天下、あるいは秋空の下を歩いてこそ、耳に入るのはツクツクボウシの大音量の声だったのだろう。

 ちなみにツクツクボウシをウィキペディアで調べてみると、8月下旬から9月上旬に鳴き声が目立つようになる、とある。昔は北日本ではツクツクボウシは川沿いのシダレヤナギ並木だの局地的にしか分布していなかったが、最近では街中の公園でも分布するようになっているらしい。そんなわけで、我が家の庭先でも大きな声で鳴いているのである。
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てっぺんかけたか

2022-08-24 11:14:48 | 12音詩
 お盆を過ぎて、朝晩は急に涼しくなった。朝の散歩では、半袖では肌寒いくらいだが、それでも1時間も歩いてくるとしっかり汗をかいている。なんだか、暑いんだか涼しいんだかよくわからない。

 涼しくなって、ツバメの姿をあまり見かけなくなった。今朝は電線に止まっている姿を見ることができたが、ほかの仲間はすでに南へ向けて旅立ったようだ。



 とりあえず一句ひねっておく。「ツバメ飛ぶ 朝霧の空」最近はひねってはみるものの、以前作った句に似ていて、ボツにすることが多い。毎日散歩で見る風景なんて、そうそう変化があるわけではないので、似たようなものになるのは仕方がないかもしれない。お題を頂戴して、まるっきり創作するような作り方なら、バリエーションも豊富にあるかもしれないが、実際に体験していないことを空想で作る気になれないので、句が少なくなったといって焦るのはやめよう。







 テオを連れてのんびり歩いていると、林の中からホトトギスの鳴き声が聞こえてくる。その鳴き声は「ホットットギスッ」と僕には聞こえるのだが、昔からホトトギスの鳴き声は「てっぺんかけたか」ということになっている。ちなみにツバメは「土食って虫食って渋い」ということになっているが、これもどうやって聞いたらそう聞こえるんだ、と昔の人にツッコミを入れたくなる。

 それにしても、「てっぺんかけたか」とは、僕のような平民にとっては耳が痛い言葉だ。「天辺を駆けたか」と尋ねてくるが、天辺どころから地べたを這いずり回っているのが現実なのだから。大谷くんみたいな天才に「天辺駆けたか」と質問しているのなら、「天辺を駆けているんだろうな」と僕も納得するのである。

 とりあえず、そんなホトトギスに一句。「それ聞くか 天辺駆けたか」 おそらく生涯に一度も天辺を駆けることはないアベさんなのである。
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ふたつの「なぜ」

2022-08-23 09:40:21 | 日記
 ぼちぼちと読み進めていた日高敏隆さんの「犬とぼくの微妙な関係」を読み終える。動物学者である作者だけに、最後の章は人間の老化についての章だった。その中で日高さんは、「人間はなぜ老化するのか」という問題に触れる。が、その前に「なぜ」という問いにはそもそもふたつの意味がある、というところから話を始める。言われてみれば、「なるほどなあ」と、今さらながら納得してしまうのである。

 笑い話になることも多いが、例えば日常会話で「なんでこのコンサートに来たの」という質問をされた時に、ひとりは「バスで」と答え、別のひとりは「ファンだから」と答えることがある。どうしてこんなにも答えが違うかと言えば、「なんで」という言葉の意味を勘違いしているからである。

 同じように、科学の世界でも「なぜ」という問いにはふたつの意味合いがあり、これをちゃんと意識していない人は科学の世界にも多いという。「振り子はなぜ振れるのか?」という問いには、重力の作用で説明できるし、それで十分だ。「エベレストはなぜできたか」という問いも、地殻の褶曲などで解明すれば十分である。ところが、こと生物に関しては話は別になって来る。「鳥の翼はなぜあるのか」「子どもはなぜ大人になるのか」といった問いには、「どのような仕組みで」を説明できても、「なぜ」のもうひとつの意味「何のために」の答えにはなっていない。翼ができる仕組み、子どもが大人になるメカニズムは説明できても、科学の世界ではいまだに「何のために翼があるのか」「何のために大人になるのか」は説明できないのである。

 で、日高さんによれば「人間はなぜ老化するのか」の老化のメカニズムについての研究は進み、老化を防止する手立てもヒントくらいは掴んでいる。が、それは「何のために老化が起きるのか」の説明ができないということでいえば、中途半端な研究なのである。

 長い間、人間の寿命は50年ほどしかなかった。その頃にはおそらく老化という現象を考える必要はあまりなかったに違いない。例えば老化現象のひとつである女性の閉経にしても、50歳で寿命が尽きることを思えば、子育てできる時期というのはそれよりかなり前になる。ところが、100歳まで生きるのが当たり前の世の中になってくると、自分の子供を産めなくなってからの期間というのが、何のためにあるのかということが問題になってくるのである。

 こうなると、老化という現象が、人間やペット、家畜にしか存在しないことだということがわかる。野生の動物の世界では、肉体の衰えや判断力の低下する老化は、すなわち死を意味しているからである。

 ふたつの「なぜ」の中で、「どういう仕組みで」ということに関しては、科学が受け持っていた。「何のために」というのは、宗教や哲学が受け持っていた。もし科学が、「何のために」という謎を解明することなく、「どういう仕組みで」ということばかり解明して、それで世界のことがわかったつもりになったとしたら、それは生き物の住む世界ではなく、振り子やエベレストといった物質のためだけの世界でしかなくなるだろう。
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足が攣る、顔が痛い

2022-08-22 12:47:33 | 福島
 今週は天気が崩れるという予報だったので、秋晴れの今日はランニングに出ることにした。朝から青空が広がり、予報では最高気温は30度には届かないらしい。猛暑日でも走っていたことを思うと、快適なランニング日和だ。

 というわけで、少しだけ涼しい大気の中を、勢いよく出発する。今までのように呼吸が苦しくなるほど暑くないので、快調なペースで飛ばす。普段はなるべく長い時間動いていることを目標にしているが、今日は爽やかな1日なので、阿武隈川の土手を思いっきり走り、疲れたらのんびり歩くことに決めた。

 20分ほど全力で走ると、どっと汗が噴き出す。涼しいとはいえ、まだまだ30度近い気温は熱中症の恐れもある。思いっきり走った後は、水分を補給しながら、のんびりのんびりあたりをキョロキョロしながら歩く。どんな野鳥がいるのか観察したり、どんな草花があるのか注目したりするのは、いつものランニングではなかなかできないことだ。

 朝の散歩ではまるで見かけなかったツバメが、田んぼの上を飛び回っている。もう南へ渡って行ったのかと思ったが、もう少しこちらに滞在する予定らしい。

 1時間半ほど走って回ると、凍らせてきたペットボトルの水がなくなってしまった。凍らせた部分が多かったせいか、氷が溶けきらず、その分飲み水が足りなくなったのだ。しまった、これからはあんまり凍らせないようにしよう。結局、この日は家に帰るまで氷は溶けきらなかったのである。

 水分が足りないと、足が攣り始める。ピリピリと痙攣するので、その度に走るのをやめて、足が攣らないように注意して前に進む。だましだまし家まで帰ってくると、20キロ弱の道のりにもかかわらず、2時間以上かかってしまった。紫外線たっぷりの秋の日差しを浴び続けたせいか、シャワーを浴びると、顔が日に焼けてヒリヒリと痛むのである。
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1本残さず

2022-08-21 12:21:38 | 福島
 朝食後に、クワを持って畑に草むしりに出かけた。ジャガイモ、トウモロコシなど、収穫を終えた畝が雑草で覆われていたので、先日きれいにしていたのだが、今朝、キュウリやナスを採りに行った際に、畑と周囲の境界線だとか、ネギの間だとか、雑草が蔓延っているのが気になったのだ。

 1時間もやれば終わるだろうと思っていたが、やり始めるとつい徹底的にきれいにしたくなる。大きな草をどんどん取っていき、ほぼ終わりに近づいたからと一旦休憩を入れると、今度は小さい草も気になり始める。再び畑に入り、目についた小さな草も片っ端から取って行き、そろそろ帰るかと畑を見渡すと、きれいになった分、ちょっと顔を出しただけの雑草も気になってしまうので、そういうものも徹底的に取って回る。

 結局1時間では終わらず、2時間も草取りをやっていた。それでもピカピカになった畑を見るのは楽しい。この時期だと周囲は丈の高い雑草だらけだから、我が家の畑だけポッカリと茶色い空間が開けていて、仕事の成果が特別に目立つのだ。

 というわけで、全身汗びっしょりになった後、家に戻ると、午前中いっぱい習字の練習をした。今日はお盆明けにふさわしい爽やかな1日で、ミンミンゼミがうるさいくらい鳴いている。昼飯を食べたら、蝉の声を聞きながら、少し昼寝でもするかな。
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