近頃の風潮としては、「個性」という言葉がありがたがられている。学校教育でも、ただ勉強ができるということよりも、個性を伸ばそうというスローガンのほうが今風だ。
ところが、「じゃあ個性って何?」ってことになると、途端にあやふやな答えになる。「そりゃあ人それぞれ個性ってものがあるのだから、自分らしさを追求すればいいんじゃないの」とわかったような、何の説明にもなってないような理解がまかり通っている。「人それぞれ違う」ことが個性だというのなら、「あなたと私の鼻の形が違う」という以上の意味合いはない。わざわざ「個性」などと難しいことを言わなくても、「同じ人間はひとりとしていない」と言っておけば済むことで、個性なんてのは追い求めるようなものではない。
例えば、野球のイチロー選手のことを考えてみる。と、イチロー選手の個性は何かと言えば、ホームランは少ないがヒットを量産するということにつきるだろう。足の速さをフルに使って、内野ゴロでさえヒットにする。もし、イチロー選手がゴジラ松井のような体格に恵まれていたら、決して今のスタイルはできなかったろう。つまりは、野球選手としては弱点である線の細さを、誰よりもヒットを量産するということで個性としたのだ。
福島県を代表する偉人に、偉人伝では必ず取り上げられる野口英世がいる。彼の個性と言われるものをたどれば、実は学歴の低さから来ているのがわかる。当時の日本は、東大の医大卒でなければ研究者として認められないという村社会だった。野口英世は日本では出世の道が閉ざされていることから、アメリカのロックフェラー医学研究所で研究を続ける。ついに世界的な研究で成果を挙げ日本に帰国するが、それでも日本の医学界は彼を受け入れることはなかった。野口英世の研究対象が、梅毒や黄熱病といった話題性の高いものばかりだったのは、名を挙げ、日本に自分を認めさせたいという思いが原動力になっていたからである。
画家のピカソが、若い頃、貧乏に喘ぎ絵の具でさえ満足に買えなかったことから、一番安い青い絵の具ばかりを使って描いた。それが「青の時代」と呼ばれる一連の作品群である。
と、見てくると、個性というのは目の前の障害や自分の欠点を克服するために、独自の方法を編み出し結果を残してこそ、個性と呼ばれるようになるということがわかる。
会社の求人で「我が社は個性豊かな人間を採用したい」などとカッコいいことばかり言っているのは、全然お門違いな発言なのである。