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おっさんひとり犬いっぴき

家族がふえてノンキな暮らし

復興五輪じゃなかったっけ

2019-01-31 11:50:35 | 福島

 東日本大震災の後、やたらに復興五輪だとアピールして、東京はオリンピック招致に成功した。あの時期は、とにかく日本のみならず世界中が被災地に対して何かできることはないかと考えていた。次期オリンピックが東京に決まったのは、そういった背景が少なからずあったのは間違いないだろう。だからこそ、東京オリンピックと言いながら、宮城でカヌー競技をやるとか、福島で野球を開催するとか、やたらに東北を全面に押し出していた。

 が、決まってしまえば、果たして復興五輪なのかと疑問が湧く。東北で復興に当たっていた日本中の土建屋さんたちは、潮が引くように東北から撤退し、より稼ぎのいい東京へと集中した。今では、総理大臣も東京都知事も復興五輪などとは言わなくなってしまった。

 ニュースでは、オリンピックの券がいよいよ売り出されると言う。開会式が一番高くて30万円だそうだ。競技も人気のあるものや日本人選手が活躍する種目は高くなるらしい。400メートルリレー決勝は13万円、バスケットボール決勝が10万8000円とかなりの高額だ。日本はこんなに復興しましたよ、と言うのではなく、オリンピックで集めたお金を復興に使おうつもりなのだろう。でなければ、とても普通の人はおいそれと観に行ける金額ではないのである。

 酷暑の中、マラソンのスタート時間を早めるとか、サマータイムを導入しようとかいう議論をしていたが、陸上100メートルの決勝などは午前中にやることがさっさと決まったらしい。涼しい夜にやればいいのにと思ったら、アメリカ人に人気の競技は、アメリカ国内のゴールデンタイムに合わせるんだそうだ。なんだかなあ。

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自分以外の命

2019-01-30 11:48:48 | 福島

 トトが死んで10ヶ月、ドリが死んでふた月が経った。わかっていたこととはいえ、犬がいない生活がこんなにつまらないものかと、今さらながら思い知らされる毎日だ。それでも毎朝の散歩は続けている。犬がいないからと散歩に出なくなってしまうと、まるで犬がいるから仕方なく散歩してました、みたいになってなんだか犬たちにも申し訳ないのだ。

 散歩に出ると、あちこちで散歩中の犬に出くわす。今まではお互いに犬連れだったので、挨拶程度ですれ違っていたが、今はこちらから近づいて、頭を撫でさせてもらったりする。いつも庭先に繋がれている犬にも声をかける。飼い主はちっとも散歩に連れて行ってくれないんだね、自分が同じ目に遭ったらきっと大騒ぎするだろうにね。

 買い物に出たついでに、ペットショップを覗いてみた。子犬や子猫を陳列して販売するやり方には反対なので、普段は避けて通るところだが、今だにこういう販売方法で人は集まるんだろうかと疑問に思ったからだ。が、意に反して、ペットショップは子供連れの若い夫婦たちで賑わっていた。

 欧米ではペットショップとはペット用品を売っているところで、ペットを手に入れるにはブリーダーか知人か保護施設からというのが一般的と聞いているが、実際には行ったことがないので本当のところはわからない。ただ、人間に基本的人権があるように、欧米では生き物の権利が声高に叫ばれているというのは、当然だと思う。

 以前にもブログで書いたが、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教といった一神教を信仰する人たちにとって、この世のありとあらゆるものは、唯一無二の存在である神様がお造りになったことになっている。そのため、自分の体だからといって自分の好き勝手にできるわけではなく、自殺も神様の創造物を傷つけたということで大罪なのである。同じ理屈から、動物にも基本的な生存権があるというのが、一神教を信仰する人たちの考えだ。動物の保護のために活動するグリーンピースがあそこまで過激なのは、かつての宣教師が僻地で改心をごり押ししていたのと同じで、神様の意思に沿っていると信じているせいである。

 僕は一神教の信者ではないが、ペットショップの子犬や子猫、繋がれたままで散歩にもろくろく連れて行ってもらえない犬を見ると、もう少しだけでも自分以外の命について痛みを感じられる世の中になればいいのになと思う。が、自分の子供でさえ餓死させてしまうご時世だと思うと、なんともやりきれない気持ちになるアベさんなのである。

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臨戦態勢

2019-01-29 11:17:54 | 福島

 サッカーアジアカップの準決勝が夜の11時から始まるので、最後まで観ていたら寝不足になるとタミちゃんが言う。僕は若い頃から4時間あれば足りるように自分を訓練したので大丈夫だが、今だに子供のようにたっぷり睡眠時間が必要だというのだから何か策を取らなくてはならない。準備をするのは選手ばかりとは限らない。テレビ観戦する暇人だって、それなりの準備が必要なのだ。

 というわけで、録画をするという面白くもなんともない選択肢は最初から捨てているので、夕飯を食ったらすぐに風呂に入り、8時には寝てしまうという作戦を取ることにした。まるで試験前夜、一夜漬けで勉強する学生のような作戦だ。とにかく試合開始まで3時間は寝ることができる。試合終了は午前1時だが、もし残念な負け方でもしたら悔しくて寝付けないかもしれない。

 11時直前に目覚ましで起き、テレビの前に座ると、早速キックオフだ。試合はアジア最強のイラン。これまでの日本の戦いを見ているとかなり不安もあるが、ここさえ乗り越えれば優勝も見えてくる。前半は一進一退だったが、後半南野の抜け目ない攻撃で1点先取すると、イラン陣営はガタガタになり、終わってみれば3対0と圧勝に近い試合結果だ。

 ああ、面白かった。興奮した。これを見ないなんてもったいないことだ。窓から近所の家々を見ると、夜中まで起きてテレビを観ている家は我が家くらいしかないようだ。

 すっかり満足し、安心しきって再び寝床についたものの、すでにひと眠りしているし、興奮は続いているしで、今度はすぐに寝付けそうにない。困った困った。これじゃあ明日に差し支えるではないか。

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磐越東線

2019-01-28 12:38:02 | イラスト

 我が家の近くを磐越東線というローカル線が走っている。普段はまったく乗ることがないのだが、朝の散歩では駅に向かう人や電車の音で、何時何分だというのが大体わかる。そんな磐越東線だが、今年のお正月は、犬もいないこともあって、電車を使ってどこかへ行こうということになった。調べた結果、福島市の飯坂温泉が、駅から歩いて回れる温泉街でもあり、我が家からだと1時間ほどの間に2回も乗り換える必要があって、旅気分も盛り上がりそうだ。

 朝、近くの舞木駅まで歩いて行く。自動販売機で切符を買おうと千円札を入れると、つるりとお札を飲み込んだまではいいが、それっきり使用不可の文字が出て、切符どころか返却ボタンを押してもお金は返ってこない。販売機に連絡先があったので、すぐに携帯で電話をかけるが、早くも電車が入っていた。

 再び向こうからかけ直すということだったが、飯坂温泉に向かう電車の中でかかってきたので、話をしていると、車掌さんから車内は携帯電話は禁止だと怒られた。いやいや、こっちは鉄道会社のせいで旅気分が台無しなのだ。結局、券売機の中を調べて売上との照らし合わせをした上でなければ返却できないということで、2週間待たされた挙句、書留で送られてきた。菓子折りのひとつでも持ってこいっちゅうの。

 そんな磐越東線であったが、イラストに描いてみた。画中の民家は今は老人のケアホームとして使われているが、元々は知人の実家だったそうだ。

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雪が降ると

2019-01-27 11:19:46 | 福島

 昨日、朝目が覚めた時には2センチほどだった積雪が、散歩に出るまでの1時間ほどの間に10センチを超えるまでになっていた。凍えるような天気だが、カメラを持って散歩に出ると、すでに雪かきを始める人たちが道路に出ていた。我が家もすぐにでもやらなければならないが、その前に散歩が先なのだ。

 雪は降り続け、道にできたタイヤの轍もあっという間に白く覆われる。雪の上に残されたウサギの足跡も、この1時間ばかりの間のものだと思うと、ついさっきまでウサギが跳ね回っていた証拠だと思うとワクワクする。

 こういう殺風景な眺めも、山頭火の絵のモチーフにするにはピッタリかもしれない。托鉢をしながらの旅で句作を続けた山頭火の句には、花鳥風月を愛でるような風流なものは少なく、歩行者としての視点が多い。

 こういう柿の木に積もった雪も山頭火だな、とカメラを向ける。

 切り株に積もった丸い雪も山頭火だな、と辺りは山頭火だらけだ。

 散歩から帰ると、早速雪かきだ。幸い降ったばかりで雪が軽いので、仕事がどんどん捗る。あっという間に、庭先、道路、借りている駐車場の空き地を1時間ほどできれいにする。それにしても、以前は数日残った雪も、日中の気温が高いせいか、午後にはほとんどなくなってしまった。

 今日は朝から青空が広がっている。昨日の雪もほとんど消えてしまうだろう。

 雪はカリカリに凍りつき、油断をすると、ツルリと滑って転びそうだ。テレビで「ツララ」の語源が「滑々(つらつら)」から来ているという話をしていた。そういうことなら、福島の冬は、土地そのものがツララみたいなものである。

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大洗磯前神社

2019-01-26 10:35:11 | イラスト

 テレビを見ていたら、見たことがある鳥居が映っていた。それは波が洗う岩場の上に立つ鳥居で、どうやって建てたんだろうと不思議になるような景色だ。

「何だっけ、大磯神社だっけ」
「海前神社とかなんとかじゃなかったかな」

 と、うすらトボけた会話をしているうちに、「ああ、磯前神社だ」と思い出した。

 2016年だから、今から三年前、トトもドリも元気だったが、老犬になっているのであまり遠出はしたくない、ということでゴールデンウイークの休みを利用して、日帰りで遊びに行った。高速道路で福島と茨城の県境まで行き、まずは大洗の磯前神社に寄り、その後一般道を鹿島灘までドライブして、帰りにひたち海浜公園のネモフィラの丘を見た。途中、腹が減ったので、道端にある食堂でしじみラーメンを食べたら、あっさり素朴な味で大変おいしかったので、印象深いのだ。

 その頃の写真を見返していて、絵になりそうな一枚を見つけたので、イラストにしてみることにした。あいにくの曇天で写真はつまらないが、それをどう変えるかが、絵を描く楽しみでもある。

 海と空を実際よりかなり濃い青にし、影を濃くすることで日差しの強さを表現した。ついでなので、手前に木の影を描き足し、鳥居の下に猫の後ろ姿を加えた。雰囲気としては、初夏のひととき、猫が沖を眺めているという感じだ。

 磯前神社と言えば岩場の鳥居が代表的風景だが、あえてそれを描かず、誰も目に止めないような場所を描くのが、創作の楽しみでもある。 

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近代絵画

2019-01-25 11:06:30 | 日記

 若い頃に何度か読んだ小林秀雄の「近代絵画」の再読を始めた。若い頃と今とでは、知識も考え方も違っているし、理解の仕方も変わっているかもしれない。そんなことを考えながらページをめくっているが、若い頃は「なるほど、なるほど」とうなづきながら読んでいた箇所も、今になるとよくもこんな難しいことを面白がっていたなあと、若い自分に感心する。もっとも、若い頃というのは、自分の都合のいいことや理解できることだけを頭に入れて、熱中しているということも多いのだが。

 本は、レンブラントやボードレールに始まり、モネ、セザンヌと読み、ゴッホの項に突入した。絵を描かない人には、目の前の対象物がどう見えているかということに本気で頭をひねることはあまりないかもしれない。絵を描く人だって、もしかしたら何の疑問も感じずに絵筆をとっている人もいるだろう。

 19世紀から20世紀初頭、時代は科学が颯爽と舞台に現れた。医学では病原菌やウイルス、遺伝子の発見があり、物理学ではアインシュタインの相対性理論も発表された。それを受けて音楽や絵画、文学の世界でも、大きな変化を余儀なくされた。絵画においては、色は光の波長であるという発見とともに、物には固有色というものはなく、反射した光が網膜に与える刺激だということがわかってきた。

 これは絵描きにとっては、大変な問題だった。葉っぱの緑色とは、葉っぱが緑の波長以外はすべて吸収し、残った波長が目に飛び込んだ刺激だというのだから、それまで信じていた物体が、すべて光の反射にしか過ぎなくなったのだ。そこから印象派は、光の移ろいを追いかけ始める。画家は物を見ているのではなく、反射する光を写し取ることが最重要課題になる。モネなどは、何の変哲もない池の表面さえあれば、ほかに対象となるものは必要としなくなってしまうのだった。

 が、どんな流行にもいずれ反発する人たちが登場する。光の乱反射が表現のすべてであれば、絵描きは絵を描く必要がなくなる。世の中は乱雑に塗りたくった絵具が溢れているばかりで、確固たる物体がないということに納得がいかない。絵画とは色で構成されるものだが、決して移ろいゆく光がすべてではない。目の前には、手に触れることのできる物体があり、人間を包み込む自然がある。個人の網膜に映る光の乱反射など、誰が興味を抱くのか。

 そういった場所から、ゴッホやゴーギャンは現代絵画への道を切り開いて行くのであった。

 

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他人の幸福

2019-01-24 11:36:12 | 日記

 若い頃から当たり前のようにスパスパと大量のタバコを吸っていた。禁煙するつもりなんて毛頭なく、死ぬまで吸うのが当たり前だと思っていたが、タバコばかりに税金が上乗せされ、国鉄の借金まで肩代わりされ、次第にタバコを吸う場所が限られて来ると、だんだんとタバコを吸うのがバカバカしくなってきた。で、10年ほど前にタバコが大幅値上げになったのを気に、その日以来1本のタバコも吸っていない。

 確かマーク・トゥエインだと思ったが、こんなことを言っていた。「禁煙なんてあんな簡単なものはない、ボクなんかもう何度禁煙したことか」と。タバコを吸わない人や止めた人は、わざわざ禁煙とは言わない。禁煙していると口に出す人に限って、再び吸う気満々なのである。

 自分が吸っていたこともあって、タバコを吸う人のことを必要以上に煙たがることはないが、世の中にはタバコを吸う人をまるで犯罪者のように悪し様に言う人がいる。が、そういう人に限って実は以前はタバコを吸っていたという経歴を持つ。自分が苦労して止めたのだから、みんな同じように苦しむ必要があるとでも思うのだろう。

 「羨望というのは、他人の幸福が我慢できない怒り」なんだそうだ。昔の偉い人がそう指摘している。最近、正義を振りかざして、必要以上に大声をあげて他人を非難する人たちがいるが、実は根っこに羨望があると考えるとわかりやすい。タバコを我慢している人ほどタバコを吸う人を攻撃する。不倫願望が強い人ほど、芸能人の不倫が許せない。

 自分の密かな願望が他人に気づかれないようにするには、あまりしゃしゃり出ず、大口を叩かず、控えめにしているのが良さそうだ。

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馴染みの顔

2019-01-23 12:01:20 | 福島

 早く自転車が欲しいなあ、なんて考えていたら、昨日は朝起きると雪が積もっていた。こうなると自転車どころではない。家の前の雪かきをし、アイゼンをつけた長靴で散歩に出る。歩くのさえも注意しないと、すってんころりんと転んでしまうのだ。当然、ランニングに出かけるのも難しくなる。これだから、東北の冬は油断ならないのだ。

 ただ、温暖化のせいか、今年の冬はかなり異常だ。年末に一回、そして昨日と、今のところ雪が積もったのは2回だけ。おまけに雪かきはしたものの、お昼過ぎにはすっかり溶けてしまい、翌日までにはほとんどなくなってしまっている。僕が初めて福島で冬を過ごした2012年は、新年早々九州から車で到着した翌日には大雪が降り、あちこちで雪のために通行止になるほどだった。たっぷりと降った雪は、ちょっこらちょっとの晴れ間では解けることはなく、庭先の雪は春まで残っていたのだった。

 今日は朝は氷点下5度ほどだったが、日中は5度くらいまで気温が上がる。寒いには寒いが、10度も違うと体感的にはかなり暖かく感じる。

 散歩の時、年末にはあれだけ頻繁に見たリスは、最近すっかり姿を見かけなくなった。リスも冬眠するのかな。代わりに我が家にはヤマガラやシメといった冬にはお馴染みの野鳥が顔を出すようになった。雪の上にキジの足跡やウサギの足跡を見かけるのも楽しい。野生の生き物たちで季節を感じることができるなんて、都会では味わえない贅沢のひとつだろう。

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道のり

2019-01-22 10:59:56 | 山頭火を描く

 この前描いた絵に、タミちゃんが山頭火の句を書いてくれた。世捨て人となってあちこちを放浪し、その放浪を謳った山頭火の句を読むと、机上で作られたような句がほとんどないことに気づく。青空は歩くには暑すぎる炎天下だし、雨は気持ちも沈む時雨だ。山はどこまで行っても終わりがなく、道は歩けど歩けどまっすぐにどこまでも続いて行く。

 「まつすぐな道でさみしい」は、山頭火の句の中でも人気のある句だ。目の前に続く長いまっすぐな道は、見通しが良すぎるくらい何もない孤独な山頭火の心の中の道でもある。人気があるというのは、書家も多くが取り上げていて、人真似にならないように書くというのが意外と難しかったようで、タミちゃんはずいぶん苦労していたようだ。

 テレビでスーパーボランティアの尾畑さんが、東京から大分までを徒歩で旅行中というのが流れていた。僕も頻繁に車で行ったり来たりしているので、その距離感はわかっているが、尾畑さんが1日に進む距離は15キロだそうだ。僕が車で行き来する場合、福島〜大分間を高速なら2日、一般道なら3日かけて移動する。15キロという距離は、自分の足で走れば1時間半ほど、自転車ならもっと早い。そんなことを考えていると、道のりというのは移動手段によってまるで別物になるというのがよくわかる。

 パイオニアと呼ばれる人たちが、誰も足を踏み入れたことのない場所を進むのと、すでに敷かれた既成のレールの上を進むのとでは、たとえたどり着いた場所が同じだとしても、全然違った景色が見えるのだろう。

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