おっさんひとり犬いっぴき

家族がふえてノンキな暮らし

夏が終わる

2021-08-31 10:32:41 | 福島

 土曜日にふくらはぎを攣ってから、ちっとも痛みが取れない。足を攣っても、普通は半日も経てば痛みが引くものだが、今回は軽く肉離れでもしたんじゃないかと思う。二日経っても、ちょっと力を入れるだけで攣りそうになるし、歩いていても踏ん張るのがちょっと怖いくらいだ。

 昨日は休日だったにもかかわらず、そんなことでランニングは中止した。代わりに夕方、早い時間にテオを連れ、長い散歩に出ることにした。

 まだまだ日は高いものの、涼しい風が吹き気持ちがいい。真夏はアスファルトが灼けるため、テオの熱中症の心配をしなければならないが、これくらい涼しくなるともう大丈夫だろう。

 ふくらはぎが痛いので、のんびり歩いて小学校跡地に差し掛かる。ここは早朝、ケンくんと一緒にボール遊びをする場所だ。午前中は年配の人たちが大挙して訪れ、熱心にグラウンドゴルフに興じているが、午後になるとひっそりとする。

 お寺を過ぎると、ここで民家はなくなり、里山の中へと入って行く。

 丘のてっぺんまで来ると、郡山市街が一望でき、その向こうに栃木県の那須連山を望むことができる。那須の茶臼山にはうっすらと雲がかかり、日本画のような雰囲気だ。

 道端の蔓に紫色の花が咲いている。これがクズの花である。

 あたり一面、野を覆っているのは迷惑な外来種のアレチウリ。一見するとクズとよく似ているが、瓜科の植物なので、キュウリの花みたいな黄色い花が咲く。

 田んぼのための溜め池に、ガマの穂が繁殖している。もう少しするとソーセージみたいな実がほぐれて、白い綿毛が次々に塊で出てくる。

 それにしても、空はすっかり秋空なのだ。子供の頃は、8月の終わりが1年で一番憂鬱になっていた。長かった休みが終わり、学校が始まってしまうからである。おまけに夏休みの宿題はちっともやっていないし、これからどう頑張っても、決して終わらないのはわかっているので、ただひたすら気分は沈むばかりだったのだ。

 こんなに涼しいのなら、ツクツクボーシが鳴いていてもおかしくないなと思っていたら、雑木林の中から鳴き声が聞こえて来た。ツクツクボーシが鳴けば、いよいよ夏も終わってしまうのである。

 里山を抜け、再び田畑や集落のある場所まで戻ってくる。この緑の景色も、秋が深まるに従って黄金色へと変化して行く。

 飛行機雲が夕暮れの迫った空に一直線に伸びて行く。よくよく考えれば、あの特徴のある雲が一番人間の技術力や文明を表しているのだから、なんだか不思議な気がするのだ、などと空を見上げて思うアベさんなのであった。

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危険なものを食べる

2021-08-30 12:15:53 | 日記

 散歩をしていると、農家の人が田んぼの周りをせっせと草刈りしている。農業の最大の苦労は雑草との戦いじゃないかと、ささやかながら家庭菜園を営む者としては感じるのだが、中には草刈りが面倒なのか、田んぼの周りのあぜ道にせっせと除草剤を撒き、草刈りの手間を省いている農家もある。田んぼには青々とした稲が育っているが、その周りは真っ茶色という奇妙な光景が広がる。こういう場所は散歩しても、犬に道草を食わせるわけには行かない。リードをグイグイ引っ張り、除草剤の撒かれていない場所まで移動するまでは早足なのだ。

 除草剤の危険性はあまり話題にはならないが、そもそも除草剤を開発した会社は、ベトナム戦争でジャングルに潜むゲリラをあぶり出すために撒かれた枯葉剤を製造した会社である。枯葉剤により、ベトちゃんドクちゃんのような奇形児と呼ばれる子供たちがたくさん産まれたことはニュースでもよくやっていたが、直接枯葉剤を浴びた母親には被害が出なかったこともあり、アメリカは枯葉剤による奇形児との関連性はわからないということで補償はしなかった。化学物質というのは、摂取した本人以上に、母親の体内に蓄積され、新生児に影響が現れるのはいまや常識だが、強者は非を認めず、弱者はいつだって悲惨な目に遭う。

 そんな除草剤についての歴史を知っていれば、農家が除草剤を使う危険性についてもっと自覚的にならなければならないはずだが、日本政府はアメリカの大企業の前では、だんまりを決め込み粛々と輸入している。

 さて、お米でさえこういった危険をはらんでいるにもかかわらず、東洋経済のニュースにびっくりするような記事が掲載されていた。それはアメリカで日本への輸出用小麦の収穫では、わざわざ除草剤を撒いて小麦を枯らしてから収穫しているという。麦は収穫前に雨が降ると発芽することがあり、発芽してしまうと商品にならないため、あえて枯らしてしまうのである。

 当然そんな危険な小麦がアメリカ国内に流通するはずがない。規定量をはるかに超える化学物質が検出されるからだ。ところが、日本政府はアメリカと仲良くしたいがために、除草剤と同じく化学物質まみれの小麦粉の受け入れを了承している。そのために化学物質の規定量の緩和まで行って輸入できるようにしたのである。

 アメリカへ視察に行った日本人が、このことをアメリカの小麦農家に尋ねてみると、「日本人が食べるものだからいいのだ」と取り合わないという。

 これと同じ構図は、かつて非加熱製剤でも演じられた。それはエイズが蔓延し始めた頃、非加熱製剤によって感染する事案が報告され、世界的に非加熱製剤は販売禁止になった。ただ日本の厚労省だけは動きが鈍く、世界的に売れなくなった非加熱製剤はせっせと日本に持ち込まれ、日本国内に流通した。日本でのエイズ患者の多くが非加熱製剤によって感染した原因はこういうこところにあった。

 流通している白いパンが健康に悪いという話は時々聞いていたが、それは漂白剤やら防腐剤やらの食品化合物のせいだと思っていたが、小麦自体が化学物質まみれとあっては、恐ろしくて市販のパンは口にできないのである。

 いや、小麦だけではない。大麦だって大豆だって、きっと同じような収穫方法を行っているに違いない。食物の自給率の極めて低い日本だから、仕方ないで済ますしかないのか、あるいはどんなに高額でも安心できるところから購入するしかないのか。こういうニュースは、もっと真面目にマスコミで取り上げてもらいたい。

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本日臨時休業

2021-08-29 08:17:09 | 12音詩

 カフェのブログの方ではお知らせしていますが、今日8月29日(日)は、「アトリエ・カフェ 青い犬」を臨時休業いたします。ご来店を予定している方は、来店いただいても中に入れませんのでご注意ください。ひとりでお店をやっていると、ちょっとした用事でも誰かに任せるということができないので、突然お休みにせざるを得なくなってしまうのである。

 さて、昨日の草刈りによる後遺症がいまだに続いていて、ふくらはぎが痛い。寝ている時も力を入れないように脱力していないと、すぐに攣りそうになってしまう。おまけに草刈り鎌でクズの蔓を切っていたら、親指の付け根が擦りむけてヒリヒリと痛むし、手のひらにはご丁寧に豆もできているのである。なんという軟弱な体であろう。

 そういうわけで、今朝の散歩はゆっくりゆっくり歩いてきた。8月も終わりになると、さすがに朝は涼しく、ウオーキングしている人たちも長袖を着ている人が増えた。

 昨日までの景色と違いはないのに、何が「秋だなあ」と感じさせるのだろうと考えてみる。少しひんやりした風が一番だとは思うが、澄んだ大気や高い空も秋を感じさせてくれるのだろう。早朝からうるさかった蝉の声も、ずいぶんと控えめになり、代わりに草むらでコオロギが合唱を始めている。

 田んぼすれすれの低空を、ツバメが飛び交っている。今日はまだ姿を見ることができたが、ある日気がつけば、姿を消しているんだろうな。

 「ひとごこちつく秋の風」

 「後ろ髪引く窓の猫」

 この句は毎朝テオの散歩に出る時に、アンがうらめしそうに窓辺で僕らを見送っているところである。

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足が攣る

2021-08-28 12:02:24 | 福島

 来週の日曜日が地区の草刈りになっている。その前に、ほかにもいろいろ草を刈っておきたい場所があるので、早めに済ませておこうと朝食後に出かけることにした。借りている家庭菜園の草刈り以外にも、カフェの看板を立てさせてもらっていたりしているので、お礼がてら自主的に近所の草刈りをやっているのである。

 昨日に引き続き、朝からぐんぐん気温が上昇する中、草刈機、草刈り鎌、草刈り機のオイル、ホウキ、手袋を持って出かける。草刈り鎌が必要なのは、クズがはびこっているため、草刈機では蔓が絡まってどうしようもなくなるため、草刈りの前にまずクズを刈ってしまう必要がある。

 草を刈る場所は傾斜のきつい斜面だ。普通に立っていることさえ難しい場所の草刈りなので、年寄りには手が付けられない。そこを這いつくばるようにして、クズの根っこを探して草刈り鎌で刈っていく。それが終わると、ようやく草刈機の登場だ。

 バリバリバリとエンジン音を響かせて、どんどん草を刈っていく。最近新しい刃に付け替えたばかりだから、力を入れなくても気持ち良く草を刈って行ってくれる。注意しなければならないのは、足元が不安定なので、油断すると草刈機ごと斜面を滑り落ちてしまうことである。

 2時間ほどやると、目的の場所はほぼ終了する。頭の上には雲もなく、青い空が広がっている。全身から吹き出す汗にゼーゼー言いながら、ホウキで辺りを掃除して終了。家に帰って着替えると、何はさておきまずは缶ビールを開ける。汗を出し切った後に、冷えたビールをプシュッと開けて飲む瞬間は最高である。体温を下げるためにクーラーをつけ、風に当たりながら横になっていたら、いつの間にか寝てしまっていた。

 1時間後、ハタと目を覚ますと、左足のふくらはぎが今にも攣りそうになっている。「攣る、攣る」と思っていたら、案の定、どうすることもできないうちに思いっきり攣った。もんどり打って痛みを堪えるが、動くとますます激しく攣るので、にっちもさっちも行かないまま、脂汗をたらタラタラ垂らして痛みに耐える。

 大量の汗をかいたあと、水分をちゃんと採らずにビールだけ飲んだのが悪かったようだ。なんとか体を起こせるようになると、ガブガブと水を飲み、ようやくひとごこちついた。それにしても頭がガンガン痛むし、全身は力がちっとも入らないし、これはもしかしたら熱中症になったのかもと思いながら、ボンヤリしていたら、時間とともに悲鳴をあげていた体も落ち着いてきた。

 危ない、危ない。熱中症なんてまさかかかるわけないと思っているが、油断をしていたらいつぶっ倒れるかしれたもんじゃないのである。これからは大量に汗をかいた時には、ビールと同じくらい大量に水を飲むことにしよう。

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少しずつ秋になる

2021-08-27 10:57:03 | 福島

 毎日のように出かけては収穫していた我が家の野菜たちも、夏も終わりに近づいて元気をなくしてきた。2日に一回の収穫でも大丈夫そうになってきたので、今朝は久しぶりにカメラを持って長い散歩をすることにした。近所の畑に出かけるくらいでは、写真を撮るといっても被写体が限られる。といったところで、長い散歩に出ても極端に環境が変わるわけでもないから、特別な写真が撮れるわけでもないのだが、カメラを持ってブラブラするということが、心に余裕があるように感じられてリフレッシュできるのである。

 夏の猛暑は、何にもしなくっても生きてるだけで疲れが溜まるものだ。今年もなんとか夏バテすることなく暑さの山場を超え、朝の散歩に出ると頭の上には筋雲がたなびいている。空気は少し冷たく、暑さで煮えていた脳みそがクールダウンして行く。

 ブラブラと丘を登ると、アレチウリの野が朝日を浴びて広がっていた。アレチウリとよく似た植物に日本古来のクズがあるが、こちらは外来生物だ。

 クズは昔から農家では葛粉をとったり、蔓は紐として利用していたりしたが、このアレチウリはただの厄介者だ。日本の侵略的外来種ワースト100にも見事にエントリーされているし、雑草としても日本三大厄介者雑草の座を占めている。ちなみにあとふたつは、貧乏カズラの別名を持つヤブガラシと、名前からして頑丈そうなカナムグラだ。

 とは言え、そんなアレチウリでもこの季節を彩る景観を作る。

 繁殖力が半端ないので、立木を覆い、捨てられた廃車も覆いつくしてしまう。その姿はポンキッキのガチャピンみたいな怪物なのである。

 年中見られるエノコログサだが、その種類にはアキノエノコログサというものもある。今頃のものはアキノエノコログサなのだろうか。エノコログサは、もともとは犬コロ草が訛ったもので、別名を猫じゃらしという。同じ植物が犬猫両方の名前を持つから面白い。

 稲も頭を垂れ始めた。お盆までは適当な雨と高温でスクスク育っていたが、お盆の頃に急に20度を切るような低温が続き、実の入りが少し心配だ。

 今朝もまだツバメが田んぼの上を飛び回っていた。子供たちもすっかり成長し、すぐにも南に飛んでいく準備はできているようである。

 赤トンボはまだ見かけないが、ノシメトンボはいたるところで見ることができる。子供の頃は少しは昆虫の名前も知っていたが、大人になったらすっかり忘れてしまった。最近はNHKの「香川照之の昆虫すごいぜ」を楽しみに見ているので、昆虫の姿を見かけると、時々図鑑で名前を調べている。ノシメトンボもそういった昆虫のひとつだ。ちなみに熨斗目トンボと書き、熨斗目とは着物の模様のひとつということらしい。

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汗をかく

2021-08-26 11:24:55 | 日記

 今日は久しぶりに猛烈に暑くなっている。お盆の頃からずっとぐずついた天気が続き、そのせいで気温も夏とは思えない低さだった。8月というのに日中の温度が20度を切り、長袖を着なければ寒くていられない日もあった。

 今朝は起きるとすぐに蝉の声が耳に飛び込んで来た。夜明けから蝉が鳴き始めるのも久しぶりの気がする。最近は午後になってようやく弱々しく鳴いていることが多かっただけに、蝉のテンションもマックスのようだ。

 午前中に買い物に出かける用事があったので、車で外出する。車の運転をするようになって以来、僕はよほどのことがない限り、窓を全開にしているのが普通だ。寒くっても暑くっても、風が動いていないと気持ちが悪い。東京の雑居ビルで働いていたときには、窓が締め切りだったので、開けたくって開けたくってどうしようもなかった。窓が締め切りというだけで、気持ちがどんよりしてくるのである。

 今日も車の窓全開で走りながら、「そう言えば誰も窓を開けていないな」と気になった。暑いとは言え、気温はまだ30度に届かず、窓を開けていると風が心地良い。車のエアコンの冷気なんて必要なさそうだが、そんなことを考えているのは僕くらいのようだ。中には窓を締め切ったまま、ハンカチで顔を何度も拭っている人も見た。

 で、ふと思ったのが、普段汗をあまりかかないような生活をしている人ほど、暑さに弱くなっているんじゃないかということだ。僕のように週に一度だけでも、頭の先からパンツまでビショビショになるほど汗をかいていると、少々の暑さでは汗をかかなくなる。人間は、本来汗をかくようにできている生物のはずだから、汗をかかないようにするというのは、人の道から外れる行為なのかもしれない、などとハンドルを握りながら、夢想するのであった。

 「汗をかくメリット」で検索してみると、こういうのが出てくる。不要な老廃物の排出、免疫力のアップ、むくみの改善、血行不良の改善、美肌効果、血液やリンパの流れが良くなることでの新陳代謝の向上、運動することによってかく汗には自律神経を整え気分をリフレッシュする効果など、いいことずくめである。

 汗には2つの種類があり、ひとつはいい汗であるエクリン腺から出るサラリとした汗で、運動により出る汗はこれだという。悪い汗はアポクリン腺から出るベタベタした汗で、たんぱく質や脂質、アンモニアといった老廃物が含まれているため不快な匂いが特徴だ。

 このアポクリン腺からの汗をかきやすい人は、運動不足の人、常時エアコンを利用することで汗をかく機会が少ない人だという。こうした普段から汗をかく習慣のない人は、汗により体温を下げることができないため、自力で体温を下げようとして代謝を下げてしまい、この状態が長く続くと新陳代謝が悪くなり、痩せにくい体や冷え性むくみの原因になる。体臭も、汗をかかないことで老廃物が蓄積して強くなってしまうのである。

 と、書いてきて、なんだか快適な生活を目指すと、不快な人間が出来あがりそうな気がして、普通の生活って一体何なんだろうと今更ながらに思ってしまうのであった。

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自分だけの世界

2021-08-25 11:20:44 | 日記

 アンが朝4時になると起き出して、ミャアミャアうるさくなるので、一緒に起きるようにしている。どうせ目が覚めたんだからと、夜明け前の静かな時間を読書に当てるようにしているのである。

 今週は以前から読もうと思っていたヤーコプ・フォン・ユクスキュルの本をネットで注文した。定価1000円のところを、中古本を600円で買い、送料が250円かかったので合計850円。本屋に車で出かけ、おまけに目当ての本が大抵の場合見つからないことを思うと、実に便利な世の中になったものだと思う。

 ユクスキュルの名前を知ったのは、動物行動学者である日髙敏隆さんの本を読んだ時だ。何冊か読むうちに、あちこちでユクスキュルの名前が出てくる。その思想の代表的な考え方は「環世界」というものである。

 最近、NHKの「ダーウィンが来た!」を見ていたら、番組の中でユクスキュルの言葉が紹介されていた。そう言えば日髙さんの本を読んだ時、「いつかユクスキュルの本を読まなきゃな」と考えていたことを、テレビを見ていてハタと思い出した。で、早速ネットで金額的に手頃な「生命の劇場」を注文したのである。

 「環世界」とは、簡単に言ってしまえば、自分が「世界」と思っている世界は、世界全体を指しているわけではなく、自分の感覚やら知覚やらが認識している世界に過ぎないというものだ。

 例えば、チョウチョには紫外線は色として見えるが、人間には見えない。もし紫外線が色として見えたら、世界はどう見えるだろうかと想像することはできるが、実際には紫外線は人間の視力では捉えられないので、想像の世界でも何かに置き換えなければ見ることができない。トンボのような複眼では、世界をどう見ればいいのか、人間の頭脳ではほとんど想像できない。犬のような優れた聴覚や嗅覚を僕が持っていたら、もしかしたら今の暮らしはうるさ過ぎ、異様な匂いに包まれてとても生活できないかもしれない。ただ、幸いなことにそんな聴覚や嗅覚を持っていないので、考えてもわからないのである。

 自分ちの犬を見ていると、喜びの感情もわかるし、失敗してアチャーという時もわかる。それを延長すれば、生き物すべてに感情があるはずだとなるが、ミミズの絶望だとかノミの野望だとかは到底想像できない。要するに人間が考える「感情」は、人間の感情を超えることはなく、たまたま自分ちの犬に投影させているにすぎないということになる。

 同じ人間同士だって、紫外線を研究する研究者には、紫外線は身近な現実だろうが、一般の人間にとっては、日焼けの心配をするくらいの存在になる。俳句をひねっている俳人には枯葉は題材のひとつになるだろうが、庭に落ちた枯葉を見て掃除をしなきゃと思う人もいるだろう。枯葉なんて一切目に入らないという人もいる。

 世界は、こうしたそれぞれの「環世界」が乱立してる状態だ。自分以外の世界を理解しようと思っても、環の交わった部分しか共有できない。では、人間同士、あるいは人間と他の生物との共存なんてのは、夢物語なのだろうか。

 そこのところを、ユクスキュルさんはどう考えているのか、とても興味あるので、読書に没頭することにする。

 

 

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アン、1歳

2021-08-24 11:34:30 | 福島

 8月1日でアンは1歳になった。正確な誕生日は本当のところはわからない。去年のお彼岸のお墓参りの時、テオを連れて山の中を歩いていたら、藪の中からミャーミャー鳴きながら近寄ってきた。手のひらに乗るくらい小さくて、おまけにガリガリに痩せていて薄汚れていた。犬がいるにも関わらず、どんどん近寄ってくるところを見ると、助けてもらいたいという意思を感じる。テオも幸い吠えるでもなく、子猫のことが気になるようなので、一緒に連れて帰ることにした。

 獣医さんのところに連れて行き、健康診断を受けさせ、病気持ちでないことがわかる。獣医さんによれば、生後ひと月くらいだから、誕生日は8月1日にしましょうと提案され、アンの誕生日が決定した。

 猫好きな人に引き取ってもらおうと、あちこちで声をかけていたが、引き取り手が見つかった時にはすっかりテオがアンの面倒を見るようになっていて、犬と猫にも関わらず、兄妹にしか見えなくなっていた。

 おそらく、テオも生まれてすぐに愛護センターに保護され、兄弟と十分にスキンシップを取る時期がなかったから、小さなアンと一緒にいるのが可愛くてたまらなかったのだろう。すっかり仲良くなった2匹は、布団の上でくっついて寝た。

 そんなアンも、この前1年目の誕生日を迎えた。ピンポン球くらいの重さだったアンは、今では4キロ以上になり、すっかりたくましくなった。毎夜のテオとのプロレスも負けてはいない。空中で前転しながらひねりを加え、テオの首根っこに両手で飛びかかって行くのである。

 体が重くなったアンは、ふてぶてしさも増してきた。ただ可愛いだけの子猫は、愛嬌たっぷりの猫に成長した。お気に入りの椅子の上で、顎を椅子にあずけ、両手をピンと伸ばして寝るのが楽チンなのか、時々こんな変な姿勢をしている。

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若い頃にはわかりにくい

2021-08-23 11:58:28 | 日記

 夜明け前、外の物音で目を覚ます。どうやらバケツをひっくり返したような土砂降りで、おまけに雷までドッカンドッカン鳴り始めた。テオを朝の散歩に連れて行く時間が近づいているが、雷と打ち上げ花火が大の苦手のテオは、狸寝入りをしているのか起きそうにない。天気予報を調べてみると、午前8時には雨が上がる予報になっている。幸い今日は休日だから、朝食後にテオの散歩に行くことにする。

 休日の午前中は、なるべくランニングに出かけることにしているが、今日はあいにく歯医者の予約が入っている。ひと月以上前に抜いた奥歯の義歯を入れる予定になっているのである。ところが、午前9時を回ったところで歯医者から電話が入った。歯科技工士から義歯が間に合わないという連絡が入ったので、今日の予約はなしにしたいというのである。歯ができていなければ、いくら僕が「今日がいい」と言ったところでどうしようもない。仕方がないので、向こうの都合のいい日時に変更してもらった。

 というわけで、急に歯医者の予定がなくなった。それならランニングに出かけられて幸いだ、とは簡単には行かない。ランニングに出るためには、朝からそのつもりになってテンションを上げていないと、着替えて出かけるのがひどく億劫になるのだ。それでも、ぽっかり空いた時間をうまく利用しなければ、きっと夕方になって走らなかったことを後悔するに決まっているので、自分に鞭打って走ってくることにした。

 歳をとって、ようやく納得したことがある。それは何かをやろうとする時、1番の障害になるのはいつだって自分自身だということだ。若い頃は、親のせいにしたり、自分の置かれた環境のせいにしたりしていたが、歳を取るとそんな言い訳では自分をごまかすことができない。自分がやらない理由は、自分がやらないからに過ぎないということが嫌というほどわかっているからだ。自分自身の邪魔者はいつだって自分自身だし、サボっちまえと囁くのはいつだって自分自身なのである。

 で、なんとか「サボっちまえ」という悪魔の囁きを振り切り、今日はランニングに出かけた。阿武隈川の土手を風に吹かれて走っていると、最高に気持ちがいい。ヤッホーと声を上げながら、自分自身とのささやかな戦いに勝ったことに雄叫びをあげる。

 若い頃にはわかりにくかったことはもうひとつある。それは「美しいもの」に関しての感じ方である。若い頃というのは、何かと言えば個性的な独自の美を追求したがる。みんなが昔から褒めそやすような美に対しては、どこか斜に構えてスカしているところがある。が、オリジナルの新規な美なんてものは、大抵の場合おどろおどろしいだけで、美しさよりもビックリさせることに眼目が置かれている気がする。

 それが年齢を重ねてくると、美しいものというのは、案外通俗的で月並みなものだということが身に染みてわかるようになってくる。すでにわかりきったような当たり前の美しさというのが、実は美の本質だというのは、年齢を重ねなければわからないということがある。

 他人をビックリさせるような美なんてものは、実は大したことがないとはっきり断言するには、やはりある程度歳を取らないとわからないということが、最近納得できるようになってきた。

 昨日の夕方の散歩で撮った写真。こういう景色が本当に身に染みて感じられるようになるには、ジジイになる必要があるのだと、近頃のアベさんは思うのである。

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黙って生きる

2021-08-22 08:59:44 | 日記

 SNSが発達したせいなのか、近頃は言わなくてもいいことを発信したために、大騒動になることが多い。「女性は話が長い」と言ってみたり、「生活保護の人が生きていても僕は得をしない」とうそぶいてみたり、わざわざ世間に向かって公表しなくてもいいことを口にし、自分を窮地に追い詰めるバカな事態になっている。

 何かやらかし、それを謝罪しても、今度は謝り方が悪いと余計に炎上する。今のような風潮を見ていると、とにかく何が何でも何か言わずにはいられない中毒症状みたいなものが蔓延しているように感じる。

 とにかくある言葉に対して突っ込もうと思えば、何にだってイチャモンをつけるのは簡単だ。オリンピックを見て、「健康は素晴らしい。健康な肉体は美しい」などと言おうものなら、「そういう考えは、病気の人や障害者をないがしろにする風潮を生む」と言われるだろう。かと言って、「いやいや病気こそ素晴らしい。病気は美しい」と言えば、それこそ病的な人間性だと叩かれるだろう。

 では、こういう風潮の下ではどうすればいいのか。簡単だ。言わなくてもいいことは言わないに限る。

 僕が子供の頃は、食事の時にペチャクチャ喋っていると、「黙って食え」と怒られたものだ。それがいつの間にか、楽しくお喋りを楽しみながら食事するのが幸せな光景ということになった。新型コロナが流行ろうと、昔なら「黙食」などと言わなくても、黙って食べたのである。「口は災いの元」というが、新型コロナについてもこのことわざは生きている。

 「黙食」同様、今の時代は、黙って生きるのが災いを避けるためには正しい道だろう。考えもなしにペラペラ喋りちらすのは、アクセス数を増やすためなら他人の迷惑などおかまいなしなユーチューバーとあまり変わらない、とアベさんは思うのである。「それ、人に言う必要ある?」というような会話は意外と多い。そんな会話ばかりで成り立っていることもある。

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