おっさんひとり犬いっぴき

家族がふえてノンキな暮らし

鳥居を描く

2022-02-10 10:15:43 | イラスト

 最近、絵は流行らない。絵を趣味で描いているという人は多いが、ほとんどが年配の人である。じゃあ、若者はもう絵なんか描かないのかというと、そんなことはない。流行らなくなったのは、昔ながらの絵画の世界が持つ高尚でいかめしい顔つきである。

 毎年三春美術協会が展覧会をするが、その時に三春町の小学校の生徒の絵、中学校と高校の美術部の絵も一緒に飾る。少しでも観客を増やすために、子供たちの絵を飾れば父兄やじいちゃんばあちゃんが観に来るだろうという魂胆からだが、その絵にははっきりとした特徴がある。

 小学生の絵はバラエティーに富んでいて面白い。でかい虫が画面いっぱいに描いてあったり、人間の手ばかり大きな子供が水泳していたり、何かを美味しそうに食べていたり、恐竜が歩いていたりと、その時一番興味あるものが描いてある。ところが、中学生となると全員の絵がアニメみたいなタッチになる。多分、絵がうまいと同級生に言われるためには、アニメの絵が描けるほうがいいのだろう。高校生になると知恵がついて来るからか、抽象的なものが多くなる。難しいタイトルをつけられた絵は、暗く悶々としている。

 テレビでは、バンクシーの絵が数億円で取引されたとニュースでやっている。それを見た人は、あんなものが数億円か、絵の世界はわからないと首を振る。

 絵は、現代ではわかるかわからないかのどちらかのものになった。教養ある知識人も、私には絵はわからないと平気で口にする。絵がわからなくったって、教養にはちっとも影響しない。

 絵はわかってもわからなくっても一向に構わない、ということを納得するには、自分の目を信じるしかない。絵を見るには、絵を描くのに練習がいるように練習がいる。絵に限らないが、この世にあるものを見て「美しい」と感じる時、それはある種の宗教的な体験でもある。夕焼けや雲の造形は人間を楽しませるためにあんな色や形をしているわけではない。人間が勝手にそこに美を見つけている。

 物事を知るには論理的に知るという道のほかに、美的認識という道もある。身の回りを見渡す時、すべてのものが自分にとって役に立ったり何かの理由があったりする必要はない。美しいと感じたものを味わうのにわかるもわからないもなく、それが自分の役に立つかどうかもまるっきり関係ない話なのである。

 描きかけだった鳥居の絵をとりあえず完成させたが、うまく行ったかどうかは今のところ自分ではわからない。

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