おっさんひとり犬いっぴき

家族がふえてノンキな暮らし

ポスター・案内状の試作

2023-02-28 10:46:18 | 福島
 展覧会の開催は4月の終わりだが、会場に使う郡山市民プラザから申請書の提出をするようにと連絡を受けた。半年前に予約をしたので、それで手続きは終わったのかと思っていたら、開催時間やら搬入・搬出の許可だの、ポスターの設置場所だの、書類をいろいろ書かなければならない。考えてみれば、予約はあくまでもその日をおさえたというだけだったので、細かい手続きは何もしていないのだ。公共のスペースを使うということは、お役所の面倒な手続きがあるというのはお約束だ。その代わり使用料が安いというメリットはある。

 で、今回の展覧会は二人展なので、もうひとり出品する人と打ち合わせをしないことには、何ひとつ決まらない。が、お互い何もしなければちっとも前に進まないので、ポスターや案内状の試作品を作って見てもらうことにした。とりあえず話し合うためのたたき台だ。

 ポスターは二人の絵を載せるので、どの絵を載せるのかを聞き、データももらわなければならない。案内のハガキのほうはそれぞれに出す相手が自分の知り合いということが多いので、2種類を用意したほうがいいんじゃないかと考え、2種類の試作品を作った。とりあえず僕の案内状の試作品はこれ。



 日にちは予約してあるから変更はないが、時間は夜7時までというのは遅い気がする。都会ならまだしも、この辺で夜7時だとギャラリーもいないに違いない。それに会場に詰めている
僕らも時間を持て余して疲れるのだ。その辺のところも話し合う必要がある。

 まだ展覧会までふた月あるからとのんびりしていたが、案内状は遅くてもひと月は前に発送する必要がある。地方の新聞・テレビにもニュースリリースを送りつけ、ぜひ取材に来てくださいとお願いする必要もある。たっぷりあると思っていた時間も、逆算すると慌てなければならない時期になって来ているのである。
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かかとが痛い

2023-02-27 12:07:40 | 日記
 ランニングシューズを買い替えてから、少しだけスピードアップできるようになったので、ついでに距離も伸ばして走っていた。ところが、前々回あたりから走り終わった翌日にかかとが痛み、二、三日は歩くのに支障がある。もしかして、かかとの骨が剥離骨折でも起こしているのかなと、ネットで、「ランニング かかと 痛み」で検索すると、どうやら「足底筋膜炎」というケガらしいことが書いてあった。

 ランニングにはケガがつきものとはいうものの、僕のような鈍足ランナーで、ジョギング程度の運動で、ケガらしいケガをするとは思っていなかった。それよりも翌日の筋肉痛のほうがよほど大変なのだ。

 走り始めの頃は、足が上がっていないのか、よく爪先をアスファルトに引っ掛けて転んだ。人前で派手に転がり、膝や肘を擦りむいて、血を出したまま走って帰ってくるしかなかったことがある。僕の場合、ケガと言えばそういうものを指していた。

 それが「足底筋膜炎」である。おお、これで市民ランナーの仲間入りかと、痛みを感じながらも、そんな強がりを言っている。

 僕の場合、一回のランニングで大体2万歩走る。右足だけで1万歩だ。それだけの回数かかとに衝撃がかかることになる。おまけに僕の足は扁平足気味なので、「足底筋膜炎」になりやすいんだそうだ。症状は、翌日起きて一歩目が特に痛い。足裏の筋が細かい断裂を起こしているらしい。予防法はインソールなどで人工的に土踏まずを作る。足裏をテーピングして予防するなどがある。

 早速近くのドラッグストアーに出かけ、足裏用のサポーダーを買おうとしたが、結構高いし、効き目があるのか心配なので、とりあえず足裏に貼るスポーツ用のテープを買って来た。

 今日は天気がいいので、テーピングをしてちょこっと試しに走ってこようと思っていたが、まだ少しだけ痛みが残る。痛みがある場合は、絶対無理しないことと注意書きがしてあったので、用心して今日は走るのを取りやめることにした。

 今週はいよいよ寒波も抜け、春らしい陽気になるという。今頑張ってもっとひどい痛みになっては、せっかくの春を堪能できない。そんなのは絶対に嫌なのである。
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古文の授業の思い出

2023-02-26 09:29:43 | 日記
 高校時代、古文の授業というのはチンプンカンプンだったので、ぼんやり過ごすかお昼寝の時間でもあった。ある時、そんな生徒の様子を見てか、古文の先生が授業とは直接関係ない話を始めた。ちょっとコーヒーブレイクといった感じだった。それは、松尾芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」は、最初は「古池や蛙飛ンだる水の音」だったが、それを推敲し最終的に今ある形になったという話である。「どうしてこういう形に推敲したのか」というクイズだったが、細かい解説は忘れてしまった。ただ、その時の授業の時のことは、今になっても覚えているのである。

 芭蕉さん以前の俳句は、言葉遊びが主流で、機知やセンスを披露するものだった。芭蕉さんも最初はそんな句を作っていた。「蛙飛ンだる」の句は、そうした流れを汲んでいて、ピョンと蛙の飛び込む様子を「飛ンだる」と表現したのである。

 が、芭蕉さんはそれでは満足しなかった。「飛ンだる」と視覚的な表現は「飛び込む」と推敲することで、句は劇的に変化した。それまで句の主体は蛙だったのに対し、推敲後は「水の音」という聴覚の世界へと飛躍したのである。それは新しい俳句への道が開けた瞬間でもあった。

 古池というのは、それまでの硬直した俳諧の世界のことだったのかもしれない。あるいは、ルーティンと化していた芭蕉さんの脳みそのことだったのかもしれない。そこに同心円の小さな波紋が広がっていく。芭蕉さんにとって、それは心の中に広がっていく新しい俳句の世界への予感みたいなものだったのだろうか。学生時代は、「古池や」の句を見ても、何が名作なのか理解できなかったが、芭蕉さんの心の中に広がっていった波紋は、時代を超えて現代人の心の中にも広がって行く。

 「山路来てなにやらゆかしすみれ草」。これも芭蕉さんの句で、山深い人の通りのない細道を歩き続けていて、ふと足元を見ると、桜や牡丹と違いあまり人に顧みられないスミレが咲いている、と歌っているだけだが、古池が山路に変化しただけで、「古池や」の句と同じ心がそこにあることに気づく。
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適用除外という悪夢

2023-02-25 09:25:55 | 日記
 久々に腹の立つニュース記事を読んだ。記事を書いた人に腹が立ったのではない。記事の内容が、こんな事実がありながら、国民に広く知られていないという事実にむしゃくしゃしたのである。

 記事は、『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』矢部宏治著(講談社現代新書)から抜粋・再編集したものと断ってある。で、内容というのが、沖縄県の米軍機の話から始まる。沖縄県宜野湾市の市長だった伊波洋一さん(現参議院議員)が、講演でこんな話をする。「米軍機は、米軍住宅の上では絶対に低空飛行をしない。それはアメリカの国内法がそうした危険な飛行を禁止していて、その規定が海外においても適用されているからだ」

 これが何を意味しているかというと、アメリカの法律では、米軍機は市街地の上を低空で飛んではならないことになっていて、これが日本においてもちゃんと守られているということなのである。だから、米軍機は沖縄にある米軍住宅の上は絶対に低空飛行をしない。おまけに、日本の希少種の野鳥の繁殖期には、基地の工事も中止となる。アメリカの環境関連法は、自国の動植物や遺跡だけでなく、なんと日本の鳥(希少生物)まで対象としているというのだから、徹底している。

 それなのに、米軍機はどうして沖縄の市街地の上は低空飛行するのか。それは日本の法律に、「米軍機には、〔最低高度や飛行禁止区域を定めた〕航空法第6章の規定は適用しない」という「航空法特例法」があるからである。米軍住宅や貴重な野生動物は守るけれども、日本人だけは守らないのは、なんと日本の法律に米軍機を制約する規定がないからだからである。

 で、著者の矢部さんは福島原発事故のことも、そこに共通の構図があるように感じて調べてみる。すると、大気汚染防止法には、「この法律の規定は、放射性物質による大気の汚染及びその防止については、適用しない」とあり、土壌汚染対策法では「特定有害物質」とは、鉛、砒素、トリクロロエチレンその他の物質(放射性物質を除く)と書いてある。水質汚濁防止法では「放射性物質による水質の汚濁及びその防止については、適用しない」とある。つまり、原発事故が起きて周辺地域が汚染されても、補償はしなくても良いとちゃんと明記されていたのである。

 なぜ、こんな不思議な法律があるのか。勘繰りたくなるのが、原発により補償問題が生じると、原発を作りたくても電力会社にとって重い足枷になってしまうからではないか。それでなくても、電力会社はかかった費用はすべて料金に上乗せできるため、絶対に赤字にならない会社というのは有名だ。だから、出来の悪い政治家の息子は、どんどん電力会社に就職させているという噂もあるくらいだ。

 矢部さんの話では、憲法さえちゃんと機能していれば防げる話だそうだ。ところが、戦後の焼け野原だった日本で施行された憲法には、公衆衛生に関する項目はあっても、環境に関する項目がないという。世界はどんどん環境に関する憲法を日々新たに改正しているというのにである。

 平和憲法である9条を守るというのは、決して間違いではないかもしれないが、憲法を少しでもいじることが9条改正につながると信じ、憲法そのものの改正を拒み続ける人たちには、こうした現実があることを知っておいてもらいたい。
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自分を育てるということ

2023-02-24 11:10:59 | 日記
 毎日早起きをして「禅と日本文化」をせっせと読んでいるが、仏教にも禅にも素養がないので、難しくってちっとも進まない。十分の一も理解しているかというと、かなり怪しい。文字を追ううちにいろいろと連想し、あれやこれや考えている時間のほうが長いかもしれない。

 「人が自己の外側にある手段によって取得した技芸や知識はいずれも、彼自身のものではなく、本質的に彼の身に付いてはいない。彼が真に自分自身のものだと主張できるのは、彼の内なる存在から生まれ育ってきたものだけである」

 わかったようなわからないような文章で、ついつい読み飛ばしてしまうが、「彼の内なる存在から生まれ育ってきたもの」ということに引っ掛かると、こんなことを連想してしまう。小林秀雄の本の中に、「文化」ということについて講演した文章があり、こんな話をしている。

 文化と言っても、文字から何を言いたいのかわからない。わからないから文化センターだの文化住宅だの、トンチンカンな言葉が生まれる。もともと「文化」という言葉は、中国語の「文化」から来ている。武力で人を導くのが「武力化」、教育で人を導くのが「文化」なのだが、日本で使われている文化という言葉にはそんな意味合いはない。「カルチャー」という英語の訳語として、中国語の「文化」という言葉を当てただけなのだそうだ。

 「文化」とは何?と質問されて、きっちりとした返答ができる人は少ないだろう。が、英語圏の人に「カルチャー」とは何と質問すれば、悩むことはない。なぜなら、「カルチャー」とは「栽培」のことだからである。種を蒔いて花を育てる。苗を植えて木を育てる。それがカルチャーだ。リンゴの苗を育て、リンゴの実を収穫する。リンゴの実を搾ってリンゴジュースを作る。これがカルチャーで、リンゴの木を切って、椅子を作ったり本棚を作ったりするのは「栽培」ではなく「加工」だ。だから、英語圏の人間は、カルチャーの意味を加工とゴッチャにすることはない。ところが、日本ではカルチャーを「文化」と訳したため、その意味するところが混乱してしまったのである。

 そんな連想で頭をいっぱいにして、本を閉じたら、「禅と日本文化」の表紙にデカデカと英語で「Zen and Japanese Culture」と原題が書いてあった。いろいろ連想するまでもない。ちゃんと「栽培」と原題では断っているのだから。「彼が真に自分自身のものだと主張できるのは、彼の内なる存在から生まれ育ってきたものだけである」という言葉は、本当はちっとも難しくないのである。
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ひさびさ全力

2023-02-23 11:51:31 | 日記
 今読んでいる「禅と日本文化」では、かなりの分量が剣について割かれている。いろいろ精神的なことを言っても、生きるか死ぬかという剣の世界は言い訳ができない。偉そうなことを言うより、現実はどうかということが禅の精神と符合するところが大きいのだろう。

 そんな剣の修行において、どうしようもないほど徹底的に試合をするという修行がある。朝から晩まで三日間、座る暇もないほど試合をするというもので、あまりの厳しさのため、三日目には立っているのもやっと、という状態になる。最後は、このまま死んでしまうんじゃないかというところまで追い込まれるが、死を覚悟した瞬間、剣は再び勢いを取り戻す。その瞬間、師匠は修行の終わりを告げる。「おまえにはもう教えるところがない」というわけである。

 で、そうしたギリギリの修行を積む中で、今で言うサードマンの出現のことに触れられている。サードマンというのは、登山や冒険で遭難した人が、ギリギリの状態に追い込まれた時、第三者が寄り添うのを感じるという。その存在は、もうダメだと感じていた人間に、勇気を与え、おまえは大丈夫だと保証してくれる。その存在は、助かった瞬間にはどこかに去っていくのだという。そんなサードマンが、禅の修行で現れていたというのは、とても面白いことだった。

 今日は朝から風もなく、気温も5度を超えるというので、全力で走ってくることにした。寒すぎたり、風が強すぎたりすると、どうしても筋肉が強張ってうまく動かない。そうした日が続いていたので、今日は思いっきり走ろうと決めて出発した。

 チェックポイントでタイムを測ると、40分15秒。40分台で通過するのは、今回で2回目だ。5年ほど前から長い距離を走り始めて、たったの2回。それがこの歳で記録するというのは、我ながら感心する。が、その後は飛ばしたツケが来て、最後はまったく足が動かなくなった。サードマンがいつ現れるだろうと期待しているが、このくらいで登場することはないようだ。

 2時間、汗びっしょりになり、家にたどり着くと、さっそく缶ビールをプシューと開ける。禅の精神とは正反対の位置にいるのであった。
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豊かさは貧乏臭い

2023-02-22 11:52:42 | 日記
 小学生の時に、「家内制手工業」という言葉を習った。例えば、下駄職人が下駄を作る。材料を用意し、切断し、組み立て、磨き、鼻緒をつける。といった具合に、一軒の家で全部行うということだ。これに対して、「工場制手工業」というのは、工場に人を集め、分業制にし、切断をする人、組み立てる人、磨く人、鼻緒をつける人というふうにすることで、生産性をアップさせるというものだ。これが発展したのが、オートメーションと言われるもので、例えば車の製造の際には、ベルトコンベアーで運ばれてくるものを、ドアをつけたり、エンジンを積み込んだり、塗装をしたりと、流れ作業にしたものだ。これで、生産性は桁違いにアップし、大量生産と安価な製品を作ることが可能になった。

 豊かな社会とは、こうして生まれた。「私に車を生み出す技術も才能もありません」という人だって、「ネジくらいなら回せます」ということになれば、一日中ネジを回す仕事につくことができる。それで収入を得ることができる。そのお金を使うことで、美味しいものも食べられるし、芝居にも行けるし、旅行に出かけることだってできる。豊かな社会になることで、豊かな人生を送ることができるというわけだ。

 が、社会が豊かになれば、個人の生活も豊かになるのかと言えば、どうやら怪しいということに人は気づき始めた。一日中ネジを回し、社会の一員として生活していると言われても、毎日が退屈でつまらないからだ。社会の豊かさと個人の豊かさは、全然別次元のことだからだ。

 最近テレビを見ていると、やたらに山奥で自給自足の生活をしている人が取り上げられている。一から十まで自分の力でやるというのは、生産性ということから言えば、あまりにできることが限られている。が、豊かな社会の恩恵を受けるのはほどほどにし、自分の力で自分のことをやるというのは、充実した生活を送っているとも言える。ソロキャンプが流行しているのも、同じ理屈だ。自然の中で、暑さ寒さを感じ、鬱陶しい虫を追い払いながら、火を起こし、食事を作るという面倒な生活をわざわざ送るのが、現代人には贅沢な趣味なのである。

 大会社の社長が、自宅の庭に家庭菜園で野菜を作るのが趣味だとする。長靴を履き、汗だくになって畑を掘り返していたり、泥だらけになって野菜を収穫しているとすると、それを見た人は「お金がたくさんあるのに、そんな真似をする必要ないんじゃないか」と思うかもしれない。が、自分で作った野菜を食べる豊かさは、高いお金を払って食べる料理には比べられない。

 豊かな生活を送るというのは、他人から見れば貧乏臭く見えることが多い。ということは、他人から貧乏臭く見えることを気にしなければ、豊かな生活を送ることは難しいことではない、とも言える。
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展覧会の準備

2023-02-21 11:20:26 | 福島
 朝4時に起きて読書を始めた時点では降っていなかったのに、テオの散歩に行く時間になって外を見るとうっすらと白くなっているではないか。気温は氷点下。天気予報では今日の最高気温は3度くらいまでしか上がらないらしい。気分は春なのに、気温は真冬なのである。



 テオを散歩に連れて行くが、雪でテンションが上がったテオは、家に帰ってからでも遊ぼうとうるさい。中庭に出すと、追いかけっこをしてくれとキャンキャン鳴いて催促する。仕方がないので、狭い庭を行ったり来たりして、テオに付き合う。雪玉を作ってテオにぶつける。小さい雪だるまをこしらえる。で、すっかり体が冷えたところで、朝の運動終了。



 気が早いように感じるが、ゴールデンウイークの始まる直前の、4月25日から30日までの1週間。絵の展覧会を行う。二人展で、一緒にやるのは同じ三春美術協会の人だ。僕が誰ひとりと知り合いのいない中、福島にやって来てカフェを始めると、真っ先に来てくれたのがその人で、店名に「アトリエ」という言葉が入っているのが気になったのだという。

 それが縁で僕も三春美術協会に入ることになり、今年、二人で個展(というのかどうか)をやろうということになった。

 開催するのは郡山駅前に建つビッグアイというビルの6階。郡山市の展示会場があるので、そこのひとつを借りることにした。で、逆算すると、そろそろポスター、案内状などを作り、準備して行かないとあたふたしそうな時期になってきた。ひとりなら大して準備に時間はかからないが、ふたりで開催するため、ポスターにしろ案内状にしろ、打ち合わせを何度か行わなければならない。点数が決まれば、展示のための名札も製作しなければならない。僕の場合はイラストのデータはあるが、プリントをする必要がある。大きなものになると印刷所に頼まなければならない。

 そんなわけで、ぼちぼち準備に入ったわけである。

 予定では僕の場合は、30点ほど出品する予定である。すべて福島にやって来てからの10年間に描いたものに限るつもりだ。すでに亡くなったトトとドリ、そして新たに家族になったテオとアンの作品や、近所の里山を舞台にしたものが中心となる。

 一緒に出品するもうひとりは、温泉地や山を中心に描いているから、展覧会のテーマを「自然と生活」にするつもりでポスターを作っている。もっとも僕が勝手に考えたテーマなので、こうしたこともこれから打ち合わせして行かなければならない。
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種芋を買う

2023-02-20 11:51:33 | 福島
 寒い寒いと思っていたが、散歩をしていると梅の花をちらほら見るようになった。今日もチラチラ雪が舞っているが、ニュースでは河津桜があちこちで満開になっているので、春は着実に近づいているようである。



 さて、我が家では家庭菜園でジャガイモを作っているのだが、いつ頃種芋を植えるんだろうと、近所の畑の様子を伺っているうちに、慌ててホームセンターに種芋を買いに行った時には売り切れ続出でなかなか手に入らないという事態になり、毎年同じように焦ってあちこちを探して回るということになる。まるで学習できないのである。

 そんなことになってはと、今年こそはと早々に種芋を買いに行くことにした。種芋を植えるのは3月の終わりだが、その前にカチカチになった冬の畑を耕し、たっぷりの肥やしをやらなければならない。それだけでも2週間くらいはかかるので、3月に入ったらすぐに準備に入るつもりだ。

 畑で作るジャガイモは、最初の頃はいろんな品種を試していたが、結局男爵とメークインというオーソドックスな品種に落ち着いた。以前は、これ以外にインカのめざめだの、キタアカリだの、十勝黄金やらも育ててみたが、珍しさはあってもオーソドックスな芋には勝てない気がする。スタンダードになるのは、なるなりの理由があるということなのだろう。

 男爵は水分が多く、ホクホク感はすごいが、長期保存には向かないようである。メークインは煮崩れしにくいという特徴があり、水分が少ないのか長期保存が可能だ。我が家ではまだ去年の初夏に採れたメークインを食べている。今年はそれに加えて、オホーツクチップという品種を買ってきた。男爵2キロ、メークイン2キロ、オホーツクチップ1キロというラインナップである。

 去年は男爵3キロ、メークイン3キロの種芋を植えたが、豊作だったこともあり、ずいぶん余ってしまった。今年は少し減らして、男爵、メークイン2キロずつにした。ただ、それだとちょっと物足りないので、見たことがないオホーツクチップを試しに買ってきたというわけである。

 オホーツクチップは、カルビーや湖池屋でもポテトチップス用に使用しているジャガイモだということだ。油との相性が良く、糖分が少ないので、揚げても黒く変色することがない。長期保存には向かないが、ポテトチップス、じゃがバターなどで食べると、抜群に美味いらしい。

 というわけで、今から種芋を見て、収穫の時を楽しみにしている。その前に畑を人力で耕すという重労働が待っているのだが、収穫の楽しみを思えば、そんなことは屁でもないアベさんなのである。
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結論の出ない検討

2023-02-19 11:44:26 | 日記
 車が古くなったので、そろそろ買い替えの時期になっている。今の車を買ったのは大分県だったので、積雪のことなんかまるで考えなかった。日本中車で旅しようと思っていたので、高速を走るのにターボくらいあったほうがいいかなくらいで、あとは体を伸ばして寝られるならそれで十分だった。ところが、福島で生活を始めると、最初に雪のことを考えなければならない。凍った急坂を登るためには四駆でなければ役に立たないし、積雪量が多い時にはある程度車高がなければ走れない。

 と、いろいろ検討することがあるが、1番の問題はこの先、日本は電気自動車でなければ走れない社会になるのかどうかだ。ヨーロッパでは、近く電気自動車でなければ走れなくなる。そこで、急ピッチで充電器の設置が進む。ところが、日本はカーボンニュートラルがどうの、環境に優しい社会がどうのと、抽象的な話ばかりで、将来がちっとも見えて来ない。トヨタ自動車は水素エンジンで走る車を開発しているが、水素ステーションをひとつ作るのに1億円くらいかかるという。そんなものをガソリンスタンド並みに今から日本中に作るなんてのは、どう見ても机上の空論である。電気ならすでに日本中どこでも使える。そう考えれば、実用性の高いのは電気自動車ということになる。

 が、テレビのコマーシャルを見ていても、出てくるのは電気自動車だけということにはならないし、中古車市場はガソリン車が手に入らないくらいで、電気自動車が人気になっているとは聞かない。そうこうしているうちに、今やテスラ以上に成長する中国のメーカーが電気自動車を日本で販売することになった。性能では日本製の電気自動車より優れ、価格は日本製より安いという。

 GoogleやApple社、Amazonも電気自動車を作って売り出すようで、モーターで動く車の形はガソリン車と同じ必要はなくなるのだから、自動車メーカーが作っていた自動車とは、似ても似つかないものになるかもしれない。自動車メーカーの下請けとしてやっていた工場は、ほとんどの部分で必要がなくなるだろう。

 そういう現実があるにも関わらず、いまだに日本の政策ははっきりしない。検討はしているようだが、結論が出ない。ジェンダーレスや夫婦別姓の問題も、岸田さんは「社会を変える問題でもあるので、結論を急がず検討したい」と言う。が、結論はもう出ている。ジェンダーレスや夫婦別姓は世界のスタンダードになるのは間違いない。日本だけ鎖国するわけにはいかないのだから、早急に法整備をする必要がある。

 「検討する」というのは、結論がどうなるかわからない時にやることで、この先どうなるか見当がついているのだから、検討したところで結論は変わらないのである。
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