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おっさんひとり犬いっぴき

家族がふえてノンキな暮らし

不慮の死

2022-10-31 12:02:40 | 日記
 笹本稜平さんの「K2 復活のソロ」もそろそろ終わりに近づいた。ネタバレになるのであらすじを書くことはできないが、主な登場人物はふたり、先鋭的で死と隣り合わせのクライミングに挑戦する主人公と、それを支える親友の話だ。主人公のクライミングを支える親友はすでに末期癌に犯されているが、生活の質を優先させるために延命治療も拒否している。主人公がいつ死んでもおかしくないような挑戦を続ける中、もうひとりの人物も明日をもしれない毎日を過ごしていることになる。

 そういう内容なので、自然と「死」とは、「生きる」とは、いった問題に直面し、読者もその大問題から逃れることはできない。

 昔から、冒険的なクライミングをする人たちは、どうして死を恐れないんだろうと思っていた。ちょっとしたミスでも滑落するし、体力がつきればその場で死んでいくしかない。それでも登り続ける人たちの本を読むと、死ぬことが怖くないんだろうかと、素朴な疑問が湧く。

 「K2 復活のソロ」では、そのことについて主人公にこんなことを言わせている。死と隣り合わせのクライミングをしている時には、死は怖いものではない。が、交通事故に遭ったり病気にかかったりして死ぬのは、自分ではどうにもできないだけに、普通の人が死を恐れるように、自分も恐ろしい、と。

 そういう一文を読むと、なんとなくだがなるほどなあと少し納得する。クライミング中の死というのは、自分の意思でなんとかできるかもしれないからだ。雪崩に遭うといった突然の事故でも、事前に雪崩が起きそうな場所を避けるという行動を選択することはできる。体力的に無理と思えば撤退することもできる。つまり、自分の行動と死というものが、いつでもシンクロしているということになる。ところが、車が突っ込んできたとかビルが倒壊したとか、突発的な事故は不運としか言えない。不治の病というのも、ある程度予防はできても、なぜ自分だけという理不尽さは拭えない。

 小説では、そういった理由で、登場人物たちは山で死にたいという。それは自分が生きた証として死が続いているからである。

 というようなことをいろいろ考えていたら、韓国で大勢が混雑する繁華街で圧死するという事件が起きた。まさか死ぬために出かけたわけではないだろうが、途中で楽しめそうにないなと思ったら、引き返すタイミングはどこかにあったんじゃないかとも思う。主催者がいない自然発生的なお祭り騒ぎだっただけに、責任を行政に問うたところでどうしようもないだろう。

 納得して死ぬということは不可能なことかもしれないが、人生をまっとうしたと感じて死を迎える、という人生にしたいものだと、ニュースを見ながら感じているアベさんなのである。
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耳に痛い

2022-10-30 11:45:11 | 日記
 今日は福島県の県知事選だ。朝の散歩のついでに投票しようと考えていたら、普段と同じコースを歩いたため、投票所と反対方向へと歩いてしまった。途中で選挙ポスターを貼っているのを見て、ああそうだ、今日は県知事選だと気づいた。

 仕方ないので、朝飯を食った後、自転車に乗って投票所に向かった。投票は知事選だけなので、紙1枚に名前を書いて箱に入れたらおしまい。なんだかあっけない。労力に見合った結果が出て、県民の生活が向上するというのならいいが、誰が知事になっても同じじゃないかと考えてしまうので盛り上がらない。

 全国の県知事の半分は官僚の天下りである。少し前に官僚の天下り先が問題になったが、県知事になるのは問題ない。おまけに霞ヶ関とのパイプがあるので、官僚出身というだけで地方の人間は歓迎するのである。ちなみに福島県の知事は、現在お役所上がりの人で、対抗馬は学校の先生経験者である。どっちになっても、福島は今は原発事故の影響で、国の管理下にあるようなものである。国が決めたことを粛々と進める政策以外、独自のものはほとんどないので、知事は広報マンみたいな役回りである。

 テレビを見ていたら、富山県知事が元統一教会と関係があるというので、チューリップテレビが追求するニュースが流れていた。チューリップテレビというと、この前富山市議の政治資金の不正流用問題で十数名が辞職したドキュメンタリー「はりぼて」を見たばかりなので、「いいぞ、チューリップテレビ」と応援してしまった。先輩のジャーナリズム精神は、後輩にも引き継がれているようだ。

 富山県知事は、チューリップテレビの「統一教会とは縁を切りますか」という質問に、「社会的に問題のある団体とは付き合いません」と言うばかりで、口が裂けても「統一教会との付き合いを止める」とは言わなかった。おまけに「チューリップテレビは印象操作をするような放送をする」と憎まれ口を叩いていた。よほど耳の痛い質問だったのだろう。

 地方のテレビ局というのは、僕の個人的感想で言えば、ジャーナリストとしてはあまり機能せず、お役所の太鼓持ちみたいな放送ばかり流しているように感じる。県民に寄り添う姿勢を見せているのかもしれないが、本当に県民のことを思うなら、たまには耳の痛いニュースも扱ってもらいたいと思う。でなければ、地方局はジャーナリズムのないただのマスコミにしか過ぎなくなる。

 耳が痛いということで言えば、知事も県民のためには時には国に口ごたえするくらいの気構えが欲しい。原発事故の汚染水を福島近海に流すということが行われようとしているというのに、現在の知事やお役所は、国の政策にまるで意見を言う気がないように見える。復興税という多額の資金が流れ込んだ結果、何ひとつ口ごたえできないようになってしまったのだろうか。
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夜明けの楽しみ

2022-10-29 11:18:58 | 日記
 毎朝午前4時頃になると、アンが腹が減ったのでご飯をくれとミャアミャア鳴き始める。僕の枕元にちょこんと座り、顔をのぞきこんでミャアと鳴く。仕方がないので布団から出ると、アンは真っ先に自分の餌入れの前に行き、カリカリを入れてくれるのを待っている。そんなことをしていたら、すっかり目が覚めてしまうので、顔を洗い髭を剃り、ファンヒーターに火を入れるとコーヒーを淹れる。

 外はまだ真っ暗である。部屋を暖めるために、ボーッと大きな音を立ててファンヒーターが熱を出す。その前に陣取ると本を広げ、読書を始める。世の中がまだシーンと静まり返っている時間に、熱いコーヒーを啜りながら本の世界に入っていくのは至福の時だ。

 そうこうしていると、足を伸ばした僕の腹の上にアンが乗り、居眠りを始める。ぽっちゃり体型になっているアンを乗っけているのは苦しいが、そのままにして活字を追う。

 今朝から読み始めたのは、笹本稜平さんの「K2 復活のソロ」という小説だ。何年か前に「春を背負いて」という映画が上映されていたが、数少ない本格的な山岳小説を書いている。最近は全然山登りに行けていないが、せめて本の世界ででも山登りの雰囲気に浸りたいと思ったのである。

 ところが、読み始めてすぐに、この小説が「ソロ ローチェ南壁」という小説の続編になっていることに気づいた。しまった、と思うが、そっちは買っていないので今朝はこれを読むしかない。ただ、小説としては続編とはいえこれだけで成立しているようなので問題はないが、なんとなくしっくりしないのである。70ページほど読んだところで、外が明るくなってきたので、テオを連れて散歩に出ることにした。

 朝食後、畑に行った後は用事があって外出したついでに本屋に立ち寄ってみることにし。本棚の笹本稜平さんの棚を見ると、「ソロ ローチェ南壁」が「K2 復活のソロ」の隣に並んでいる。しまった、ちゃんと確認して買うべきだった。この際なので、前作を買ってまずこちらから読もうかとも考えたが、すでに70ページ読んでしまったし、前作のあらすじも続編を読むとなんとなくわかってしまったので、今日のところはこのまま買わずに帰ることにする。何年か経ち、本の内容を忘れた頃に前作を読めば、新鮮な気持ちで読めるに違いない。
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料理はめんどくさい

2022-10-28 11:21:38 | 日記
 一昨日、テオを散歩させていたら、これ持って行ってとスーパーのビニール袋を渡された。なんですかと尋ねると、餃子を作りすぎたので、ちょっと持って帰ってという。全部食べたらいいじゃないですか、と言うと、食べ飽きたという返事。それならとありがたく頂戴してきた。

 昨日は大量に余っている我が家の畑で採れたジャガイモと里芋でコロッケを作った。いつもはジャガイモだけだが、里芋も食べないと悪くなってしまう。そこでジャガイモ2に対して、里芋1の割合で混ぜ、ついでだからと庭で大きくなり使わずにいたバジルの葉っぱを大量に刻んで入れてコロッケにした。ジャガイモだけだとホクホクしすぎるコロッケが、里芋をちょっと入れるだけでしっとりし、何より丸めやすいので、成形するのが簡単なのである。バジルは大量に入れた割にはバジル感がなく、イタリアンを狙ったが狙いは外れたようだ。

 で、毎日うまいうまいと夕飯を食っているが、料理をするというのはなかなか面倒なものだ。もっとも、うまいものを食いたければ、めんどくさいのは当たり前と思っているので苦にはならないが、世の中にはめんどくさいから買って済ますという人も多いようで、こんな記事が紹介されていた。うろ覚えなので、間違っているかもしれないが、料理で手作りするのがめんどくさいと感じる料理ランキングなるもので、1位はコロッケになっていた。で、2位は餃子。なあんだ、最近食ったものばかりじゃないか。

 ついでなのでもう少し書くと、3位は同率でハンバーグとポテトサラダ。5位は唐揚げ、6位は天ぷらという順位である。揚げ物というのは片付けが面倒なので嫌がる人が多いが、餃子とかハンバーグとかポテトサラダとかは、想像するほど面倒ではない。ポテトサラダなどは、たいして手間はかからないと思うが、その理由のひとつにジャガイモの皮を剥くのが面倒、というのがあったから、こうなるとカレーライスも肉じゃがも全部面倒ということになって、結局面倒な料理ではなく、料理そのものが面倒だということなのだろう。

 うまいものが食いたければ手作りじゃないと食えないというのが僕の持論だが、それ以外に安心という意味でもなるべく既製品は買わないようにしている。1番の問題は添加物で、人工的に作られた化学物質が入れられているというのが恐ろしい。添加物を恐ろしいと思わないことは、もっと恐ろしい。

 豆腐屋で働いている時に、豆腐を固めるのに泡で穴が開かないように、消泡剤というものが入れられていた。正体は何かというとシリコンである。つまりはプラスチックみたいな化学物質が入れられるのである。これにはビックリした。こんなものを食わされているのかと思い、それからは少々高くても豆腐は高いものを買っている。

 野生の猿が人間の弁当を盗み食いしていたら花粉症になったとか、ペットに人間の食べ物を与えていたら虫歯や歯槽膿漏になったとか、最近は奈良の鹿に鹿せんべい以外の人間の食べ物を与えると病気になるからと注意喚起がされていたが、人間が食べているものというのは、今や自然界にあるものではなくなっている。

 コンビニのおにぎりや弁当のご飯なら添加剤は含まれていないと思っていたら、色艶を良くするための添加剤、旨味を増すための添加剤など、実は添加剤まみれなのだそうだ。古米を新米に感じさせる技術は、日々企業努力によって発達しているが、次第に食品から離れて行き、消費者に購入させるための商品と化しているに違いない。
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丘の上の家

2022-10-27 11:31:17 | イラスト
 なかなか題材が見つからず、新しい絵を描くことができなかったが、あまり気負わずに身近なところからと思い、近所の家を描くことにした。と言っても、そのままでは絵にならないので、ポツンと丘の上に建つというふうにした。夕方、散歩に行く時、そこの家の玄関の灯りが、なんとも暖かな光を放っていたので、描きようによっては絵になるんじゃないかと考えたのだ。



 絵はシンプルに陽が落ちたばかりの空に、三日月が浮かんでいるところにした。家と電信柱と草むらを黒く描き、玄関先の明かりだけ黄色で描いた。ただ、それだけでは絵としてちょっと寂しいので、そこに子供が帰宅し、今にも家に入ろうとしている場面にした。絵としては平凡な絵になったが、寒くなってくると家の灯りというのが実に暖かく感じるものだ。特に子供にとっては、陽が落ちた後の世界は恐怖に満ちているだけに、家の玄関を開けるというのは、心が休まる瞬間でもある。
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風が弱く吹いている

2022-10-26 12:21:14 | 日記
 寒いことは寒いが、天気がいいのでランニングに出る。気分に任せてその都度コースを変えるのだが、ここ4回連続で同じコースを走った。

 スマホの万歩計によると、毎回歩数は違うものの、距離は21.2キロと出る。スマホの設定では、一歩の歩幅を入力するようになっていたので、距離は単純に歩数かける歩幅で計算するのだろうと思っていた。ところが、途中で歩いたりして、毎回歩幅が100歩以上違っているにも関わらず、距離は同じと表示されるので、もしかしたらGPS機能で正確な距離を測っているのかもしれない。そんなことがあって、スマホの距離が信用に足るのかどうか確かめたくて、同じコースを走ってみたのだ。

 で、どうやら距離は正しく表示されているらしいことがわかったので、これからは別のコースを走る時にもスマホの距離を参考にしようと思っている。

 21.2キロというのは、マラソンの42.185キロのほぼ半分の距離になる。つまりハーフマラソンの距離だ。だったら、しばらくこのハーフマラソンのコースで走って、自分の走力を伸ばそうと思っている。

 1回目では、途中で何度も休んだので、2時間5分ほどかかった。2回目は2時間を切るというのを目標に、休憩する回数を減らして走る。と、結果は1時間59分で、ギリギリ2時間を切ることができた。3回目は強風のため、途中で2時間切りを諦めて、スマホでパチパチ写真を撮りながらのジョギングになった。4回目は、最高記録を目指して走った結果、1時間57分で走った。おお、だんだん記録が良くなっているのである。

 若い人からすれば、亀みたいに鈍いし、走る格好も不恰好だ。足が上がらないから引きずるようにして走る。疲れてくると、ほとんどすり足みたいな状態になる。その姿は能を舞っているかのようだ。

 先日、アマゾンプライムに「風が強く吹いている」という箱根駅伝を題材にした映画があったので、観てみることにした。主演は小出恵介と林遣都だ。どういう役者か知らないままに観たが、特に林遣都の走る姿は、軽々と空を飛ぶように走り、それだけでいつまでも観ていられるように美しかった。マラソンの大会でトップを走るランナーの走る姿は、遅いランナーに比べれば無駄がなく美しいが、「あんなふうに軽々走れたらいいなあ」と、自分の鈍臭い走りを振り返りながら、最後まで鑑賞したのだった。

 よく、外国から来た人が、相撲の取り組みがバレエを観るようだと評することがある。おそらく、無駄のない動きがバレエを踊っているように感じるのだろうが、軽々と空を飛ぶように走るランナーの姿も、バレエダンサーのように僕には感じるのである。
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力を抜く

2022-10-25 11:29:44 | 日記
 昨日、「老人力」についてウィキペディアで検索すると、間違った使い方の例として、「史上最高齢の宇宙飛行士――米国版”老人力”の発揮」という記事が出ていた。元祖「老人力」の赤瀬川原平さんも、いよいよマスコミの誤用に呆れ、もし最高齢の宇宙飛行士グレンさんが、宇宙で本当に「老人力」を発揮したら、大変なことになると苦笑していた。そもそも「老人力」とは、ボケや物忘れの酷くなったことの裏返しの言葉なので、マスコミはまるっきり逆の使い方をしていることになる。

 と、赤瀬川さんはここで、もしかしたら間違って使っているのはマスコミだけで、個人レベルでは案外正しく使っているのではないかと思い直す。例えば、100歳でのど自慢に出るとする。本人は100歳にもなってのど自慢に出るということを老人力の発揮として面白がっているのに、マスコミが取り上げると、「100歳でも堂々たる歌いっぷり」というように、別の意味合いになってしまうからである。

 赤瀬川さんが、宇宙飛行士グレンさんについての「老人力」の誤用について苦笑していたら、ある人が地球に帰還した時のグレンさんのインタビュー全文を赤瀬川さんに送ってきた。それによると、宇宙から帰還した記者会見で、日本のマスコミからこんな質問が出たという。「日本では今ボケたり物忘れが激しくなったりすることを、老人力という言葉を使うことが流行しているが、グレンさんは宇宙で老人力を発揮することはなかっただろうか」と聞いたという。それに対するグレンさんの応答は「忘れてしまいました」で、それを聞いた周りの宇宙飛行士や記者たちは、大爆笑だったという。そのことがすでに二重の意味での「老人力」に対するジョークになっていたからである。

 で、赤瀬川さんはその応答に感心する。若さとパワーが賞賛されるアメリカ人に、「老人力」を理解するような力はないと思っていたが、ユーモアという資質が、同じような力を発揮していることに驚いたのである。

 日本では冗談に対して、「冗談を言っていいときと悪い時がある」などと、堅苦しい場では冗談などもってのほかという風潮がある。が、世界で指導者の立場にいる人たちは、ユーモアのセンスがなければ馬鹿にされる。その点日本の総理大臣は失格である。「ガースーです」と挨拶した菅さんが攻撃を受けるような国民性では、ユーモアはなかなか身につかない。

 アメリカの教育白書の1ページ目には、教育はユーモアを理解する人間を育てるため、と書いているという。ユーモアを理解するとは、ヒューマン(人間)を理解するということでもある。そういったことでは、日本人は肩の力を抜くことを教育から除外してしまっている。

 ジョークのひとつでこんなのがある。フランスで交通取り締まりをやっていると、交差点で赤信号が青に変わったにも関わらず車を発信しない女性がいた。すかさず警官が近づくと、その女性に対して「お気に入りの色はまだ出ませんか」と声をかけた。

 世の中を潤滑に動かすのは、肩の力を抜いて人と接することであるということを、象徴するようなエピソードだ。
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老害にならないために

2022-10-24 11:09:08 | 日記
 赤瀬川原平さんの「老人力」は、20年以上前の本になるが、今持って色褪せない本だと言える。ウィキペディアで「老人力」と検索すると、「赤瀬川原平が1997年に提唱した概念。(中略)この用語は1999年にかけて社会現象と言えるほどの流行となった」と説明している。

 どういうふうに使うのかと言えば、作者本人は、「ふつうは歳をとったとか、モーロクしたとか、あいつもだいぶボケたとかいうんだけど、そういう言葉の代りに、『あいつもかなり老人力がついてきたな』というふうにいうのである。そうすると何だか、歳をとることに積極性が出てきてなかなかいい」と表現している。

 が、流行語の運命でもあるが、すぐにその概念は誤解され、間違った使用法をされるようになる。「まだまだ若い者には負けませんよ」とか、「年の割にはその歌には声量がある」というようなことである。老人力とは、物理的なパワーのことではなく、パワーがなくなっていくことを積極的に受け入れることなのである。

 赤瀬川さんも、すぐに「老人力」という概念が誤解されるだろうことは予想していたと書いている。というのも、今の日本において、大切なのは円熟していくことよりも、若さや力に溢れることが重要視されているからである。アンチエージングが尊ばれ、他の人から見れば年寄りの冷や水としか見えないことを自慢したがる。いい歳にも関わらず、「いくつに見える?」と言いたがるのも、円熟よりも若さに重きを置いているからだ。

 朝、テオの散歩をしながら、タミちゃんと年寄りの話になった。最近、身の回りの人たちが(自分たちも含めてなのだけれども)、どんどん歳をとって行き、なんとも寂しいという気分になっている。歳をとるのは、生き物として当たり前のことなのに、寂しい存在になるというのは、どうしても納得が行かないと思うのである。

 昔は、誰から選ばれたというわけでもないのに、「村おさ」と呼ばれる人がいた。「村の長老」という相談役もいた。未開地の原住民の暮らしを紹介する映像でも、長老をピラミッドの頂点としているような生活振りを見ることがある。今の世の中は、指導者としてぐいぐい力で民衆を引っ張っていく力がなくなると、引退した方がいいという風潮である。いつまでも年寄りが指導的な立場にあると、「老害」扱いされる。

 けれでも、これだって考えてみれば、「老害」になってしまうのは、本人が自分に「老人力」がついたことを自覚せず、「自分はまだまだやれる」と、若者ぶっているからである。世の中から「老害」扱いされたくなければ、長老となり、村おさとなり、相談役に回るのが「老人力」というものなのだろう。
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玉ねぎの植え付け

2022-10-23 11:52:50 | 福島
 朝食後、玉ねぎの植え付けをするために、いそいそと畑に出かける。ちょっと前に畝を掘り返し、苦土石灰やら化成肥料やら堆肥やらを撒いていたので、今日はそれを鋤き込んでならし、玉ねぎ用の黒いビニールシートのマルチを張れば、玉ねぎが植え付けできるのである。

 で、畑に行くと、玉ねぎの前に畑の隅っこの里芋が気になったので、こちらを先に収穫することにした。全部引っこ抜くと、小さい里芋がゴロゴロついている。小さなものばかりだが、皮を剥いて調理してしまえば、大きさは関係ない。ビニール袋いっぱい収穫すると、「今年はいつなく豊作だなあ」と、それなりに満足する。商売としてやっている農家とは違うので、大きさや形などは気にならない。とにかくたくさん採れれば、それで十分なのである。

 玉ねぎ用の畝を鋤き、マルチを張ると早速タミちゃんと手分けして苗を植え付け始める。苗はホームセンターでふた束買ってきている。これだけあれば十分だろう。そう話し合いながら植え付けてみると、なんと半分植え付けたところで買ってきた苗がなくなった。全然足りないじゃないか。せっかく準備したのに、半分穴が空いたままではもったいないと、慌ててあちこちのホームセンターに「玉ねぎの苗はありますか」と電話する。そのうちの一軒が、「昨日入荷したところです」と言うので、すぐに車を出して買いに行くことにした。

 ところが、置いてあった苗は、貧相でしょぼくて、これで大きくなれるのかと言うくらいのもやしっ子だ。それでも、せっかくだからと、200本の苗を買う。半分使えなくても、100あれば十分だろうと余分に買ってみる。

 で、畑に戻ると、マルチのすべての穴に玉ねぎを植え付けた。



 たくましい苗と貧相な苗が混じってしまったが、今までも何度も失敗してきているだけに、きっとうまくできるだろうと希望的観測のうちに作業を終えた。

 玉ねぎは来年の収穫になるが、この前植えた白菜はそろそろ結球しそうなくらいにデカくなったし、大根も長く食べられるようにと、2週間の間をおいて種を蒔いたのが大きくなってきているので、今年の冬は鍋三昧な生活が送れそうである。





 春菊はこの前蒔いたものが大きくなっているので、早くも湯豆腐に入れたり、白和にしたりと、我が家の食卓を賑わせている。何はともあれ、畑があるっていうのは、食生活を豊かにする必須条件のように思う。お金を出して外食しても、豊かな食生活をするのは案外難しいんじゃないかとも思う。


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人工知能の絵

2022-10-22 13:52:38 | 日記
 今日は朝から三春の町民ホールに出かけた。三春美術展が開催されているので、受付に座るためである。今までカフェを営業していたので、一度も協力していなかっただけに、今年は断る理由がなかったので、積極的に参加した。

 町の美術展なので、お客はちらほらで、受付と言ってもすることはない。同じ美術協会の人たちとおしゃべりをしているだけの美術展である。そんな中、僕の絵がコンピュータで描いているということから、人工知能の絵の話になった。そもそも僕がコンピュータで絵を描くというと、パソコンが自動的に描いているものだと思っているくらいの知識なので、人工知能の絵と言っても簡単には理解しがたいようだ。まず想像するのは、人工知能の絵なんて無機質で血の通わない絵だと思うようで、「AIが描いた絵には、人が描いたような温もりがない」と、見てきたようなことを主張する。「AIが描くと言っても、プログラミングするのは人間なので、AIと言わなければ人間が描いたのかAIなのか、違いは判断できない」と言っても、どうもピンとこないようである。

 そこで、最近ニュースで話題になったAIの絵をスマホで調べて見てもらうことにした。それは歴とした美術展なのだが、1位を与えた作品がAIソフトが描いたと後でわかり、大騒動になったのである。ニュース映像で見た人も多いだろうが、その絵がこちら。



 この絵を見せると、それまで無機質なコンピュータの絵を想像していた人たちは、思わず絶句した。

「AIがここまで描けるなら、もう人間は必要ないじゃないか」と、ガッカリした様子である。「SF映画で、人工知能が世界を動かしている作品があるが、最後はあんな時代が来てしまうのだろうか」。

 2045年には、コンピュータの演算結果を人間が理解できなくなるため、AIが人間の能力を越える日、シンギュラリティが来ると言われている。が、だからと言って人間が必要なくなると考えるのは早計である。

 簡単に言うなら、今目の前に鍬やスコップが転がっているとする。人間がいなくなっても、鍬やスコップはそこに存在するだろう。しかしながら、人間がいなくなった世界に、鍬やスコップは何の意味もなくなってしまう。あるいは、羽の回っている扇風機があるとして、そこに人間がいなければ、扇風機が動いている意味というのはなくなってしまうのである。

 それと同じことで、コンピュータが人間をこの世から抹殺し、コンピュータがこの世を動かす世界を誕生させたとしても、人間がこの世に存在しなくなれば、実はコンピュータの存在意義はなくなってしまうのだ。

 というわけで、どんなにコンピュータが知恵を持ち、上手な絵を描こうとも、人間が絵を描く意味は消えてなくなることはないのである。
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