笹本稜平さんの「K2 復活のソロ」もそろそろ終わりに近づいた。ネタバレになるのであらすじを書くことはできないが、主な登場人物はふたり、先鋭的で死と隣り合わせのクライミングに挑戦する主人公と、それを支える親友の話だ。主人公のクライミングを支える親友はすでに末期癌に犯されているが、生活の質を優先させるために延命治療も拒否している。主人公がいつ死んでもおかしくないような挑戦を続ける中、もうひとりの人物も明日をもしれない毎日を過ごしていることになる。
そういう内容なので、自然と「死」とは、「生きる」とは、いった問題に直面し、読者もその大問題から逃れることはできない。
昔から、冒険的なクライミングをする人たちは、どうして死を恐れないんだろうと思っていた。ちょっとしたミスでも滑落するし、体力がつきればその場で死んでいくしかない。それでも登り続ける人たちの本を読むと、死ぬことが怖くないんだろうかと、素朴な疑問が湧く。
「K2 復活のソロ」では、そのことについて主人公にこんなことを言わせている。死と隣り合わせのクライミングをしている時には、死は怖いものではない。が、交通事故に遭ったり病気にかかったりして死ぬのは、自分ではどうにもできないだけに、普通の人が死を恐れるように、自分も恐ろしい、と。
そういう一文を読むと、なんとなくだがなるほどなあと少し納得する。クライミング中の死というのは、自分の意思でなんとかできるかもしれないからだ。雪崩に遭うといった突然の事故でも、事前に雪崩が起きそうな場所を避けるという行動を選択することはできる。体力的に無理と思えば撤退することもできる。つまり、自分の行動と死というものが、いつでもシンクロしているということになる。ところが、車が突っ込んできたとかビルが倒壊したとか、突発的な事故は不運としか言えない。不治の病というのも、ある程度予防はできても、なぜ自分だけという理不尽さは拭えない。
小説では、そういった理由で、登場人物たちは山で死にたいという。それは自分が生きた証として死が続いているからである。
というようなことをいろいろ考えていたら、韓国で大勢が混雑する繁華街で圧死するという事件が起きた。まさか死ぬために出かけたわけではないだろうが、途中で楽しめそうにないなと思ったら、引き返すタイミングはどこかにあったんじゃないかとも思う。主催者がいない自然発生的なお祭り騒ぎだっただけに、責任を行政に問うたところでどうしようもないだろう。
納得して死ぬということは不可能なことかもしれないが、人生をまっとうしたと感じて死を迎える、という人生にしたいものだと、ニュースを見ながら感じているアベさんなのである。
そういう内容なので、自然と「死」とは、「生きる」とは、いった問題に直面し、読者もその大問題から逃れることはできない。
昔から、冒険的なクライミングをする人たちは、どうして死を恐れないんだろうと思っていた。ちょっとしたミスでも滑落するし、体力がつきればその場で死んでいくしかない。それでも登り続ける人たちの本を読むと、死ぬことが怖くないんだろうかと、素朴な疑問が湧く。
「K2 復活のソロ」では、そのことについて主人公にこんなことを言わせている。死と隣り合わせのクライミングをしている時には、死は怖いものではない。が、交通事故に遭ったり病気にかかったりして死ぬのは、自分ではどうにもできないだけに、普通の人が死を恐れるように、自分も恐ろしい、と。
そういう一文を読むと、なんとなくだがなるほどなあと少し納得する。クライミング中の死というのは、自分の意思でなんとかできるかもしれないからだ。雪崩に遭うといった突然の事故でも、事前に雪崩が起きそうな場所を避けるという行動を選択することはできる。体力的に無理と思えば撤退することもできる。つまり、自分の行動と死というものが、いつでもシンクロしているということになる。ところが、車が突っ込んできたとかビルが倒壊したとか、突発的な事故は不運としか言えない。不治の病というのも、ある程度予防はできても、なぜ自分だけという理不尽さは拭えない。
小説では、そういった理由で、登場人物たちは山で死にたいという。それは自分が生きた証として死が続いているからである。
というようなことをいろいろ考えていたら、韓国で大勢が混雑する繁華街で圧死するという事件が起きた。まさか死ぬために出かけたわけではないだろうが、途中で楽しめそうにないなと思ったら、引き返すタイミングはどこかにあったんじゃないかとも思う。主催者がいない自然発生的なお祭り騒ぎだっただけに、責任を行政に問うたところでどうしようもないだろう。
納得して死ぬということは不可能なことかもしれないが、人生をまっとうしたと感じて死を迎える、という人生にしたいものだと、ニュースを見ながら感じているアベさんなのである。














