おっさんひとり犬いっぴき

家族がふえてノンキな暮らし

信じるということ

2022-02-03 10:39:04 | 日記

 先日、クライマーの山野井泰史さんが世界で13人目となる登山の最高賞ピオレドール生涯功労賞を受けた話を書いた。その時に、究極の楽天主義について触れたが、別のインタビューでも興味深い話をしていた。

 インタビュアーが「登山で挫折したことはないですか」の質問に、山野井さんは「僕のする登山は半分以上が失敗に終わっているが、それを挫折と感じたことはない。失敗も含め楽しい登山のひとつひとつだからだ。大事なのは、生きて降りて来ること。そうすることで次の挑戦ができるからだ」と答えている。

 野球のバッターでも、3回の打席のうち1本ヒットを打てば大打者である。そう思うと、失敗というのは、次のチャレンジのためにも大切なことであることがわかる。

 山野井さんは、世間的に素晴らしい登山という評価はあるだろうが、それはあくまで他人が決めることで、自分が山に登ることとは何の関係もない、とも答えている。そうした言葉を聞くと、挫折しないためには、深く自分が信じられていることが大事だということに気づかされる。

 街頭インタビューで「何を信じていいかわかりません」と答える人がいるが、何かを信じる前に自分自身を信じることが先決だろう。何かを信じたいという気持ちは、どこかしら偉い人のお墨付きや、役所の保証や、企業のブランド力といった、権威に頼ろうとする気持ちがあるのではないだろうか。「あの人のことは信じられない」という言葉の裏には、「あの人はアテにならない」という別の意味が含まれている。アテにしなければならないのは、他人ではなく、まずは自分自身のはずである。

 ある本で、欧米の子育てでは、子供が何かやらかした時に、「それはいいことなのか、悪いことなのか」をはっきりさせ、最後は神様にその判断が間違っていないことを誓わせる、と書いていた。それに対して日本の子育てでは、それがいいことか悪いことかということよりも、「人様に対して恥ずかしくないのか」とか「世間に顔向けできるのか」ということが大事にされていたりする。自分がいくら間違っていないと思っていても、世間に反することは良くないことだと教えられるのである。

 西洋の個人主義、日本の集団主義はよく取り沙汰されることだが、子供の頃から他人は関係なく、神様の前でいいことか悪いことかの判断を迫られた世界と、世間の思惑に沿う形が一番いいと教えられた世界では、社会の仕組み自体が大きく違っているだろう。これから日本が国際社会でやって行くには、人様をアテにするのではなく、まず自分の判断を信用する、自分自身の判断に自信を持つ、自分自身を信じる、ということを身につけて行かなければならないのかもしれない。

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