おっさんひとり犬いっぴき

家族がふえてノンキな暮らし

寒っ

2015-09-30 16:50:47 | 福島

 台風の影響なのか、昨日から冷たい風が吹いている。もしかしたら木枯らしなのか。

 北海道や岩手の山では初冠雪が見られたそうだ。福島でもそろそろ山の上は、紅葉が見ごろを迎えつつあるらしい。明日から10月とは言え、寒くなるのが早すぎるんじゃないのか。

 トトは布団の上で丸くなって寝ている。ドリはと言えば、「おお、洟を垂らしているじゃないか。風邪をひいたか」。それにしても、人間にしろ犬にしろ、洟を垂らしている顔はなんと間抜けなんだろう。

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中秋の名月には

2015-09-29 17:35:00 | 福島

 まだまだ先だと思っていたら、中秋の名月だった。ニュースの解説では、月は地球の周りを楕円軌道で回っているので、一番近いところで満月になると、それはスーパームーンといって、一番遠い時より1割ほど大きくなるらしい。で、今回の満月がスーパームーンとあって、大きな満月を見ることができた。

 犬を連れ満月を堪能していると、近所の人がススキを手に歩いていた。満月を祝うためにススキを採りに行ったのだと言う。花見を祝う人は多いが、中秋の名月を祝うのはものすごく趣味がいい気がする。

 我が家では秋刀魚を買って来て、外でバーベキューにした。満月は中空高くなると小さく見えてしまうが、夜空が明るいので気分は盛り上がる。

 炭火で皮までパリパリに焼いた秋刀魚に、大根おろしをたっぷりのっけてそこにカボスを絞って醤油をかける。世の中にはうまいものが溢れるが、結局のところ単純な料理ほどうまい。

 秋刀魚のほかには、バーベキューでは最近我が家で定番になっているエリンギ。バーベキューにすると貝みたいなのだ。他にはナスを丸ごと焼くと、ジューシーでホクホクの焼きナスになる。後は冷蔵庫に余っていたウインナー。

 あたりが煙くなってきたら、犬たちがフンフンと鼻声になる。遠吠えはしない。月がぽっかり浮かんだら、ビールで乾杯だ。やっぱり田舎はいいぞお~。

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使い勝手

2015-09-28 15:17:23 | 福島

 愛車を定期点検に出した。代車としてハイブリッドの「フィット」を貸してくれた。生まれて初めてのハイブリッド車だ。モーターでスタートすると、エンジンの音がしないまま、スーッとスタートする。気持ち悪いほどの静かさだ。

 車は高価なだけに、失敗したくないといつも考えている。カッコ良さそうとか、最近の流行だとかいうのは僕の場合まったく選択肢の中にない。だからこそ、最近のメーカーの車作りには納得がいかない。なぜなら、メーカーが目指す車作りが、簡単に言えば「走行性」と「居住性」に尽きるからだ。もちろん燃費は環境性は当然のこととしてである。

 「フィット」で家まで帰ってくるまで、スイスイト快適に走る。シートはふかふかだし、内装もオシャレだ。確かに、ただ単に車を運転するということでは、ハイレベルにあるんだろうと思う。

 が、僕はへそ曲がりなので、いろんなことが気に入らないのだ。「走行性」といっても、狭苦しい街中の道路、いつも渋滞しているような高速道路を走るのに、どれだけ「走行性」が必要なのだろうと思う。「居住性」にしても、僕のように福島と大分を往復する人間には居心地は疲れないための重要なファクターだが、ほとんどの人の車の使用法は、通勤の往復とか、買い物とか、子供を学校や駅まで送迎したりとか、つまり短時間の使用が圧倒的に多いはずである。一日座っているよりも、30分、1時間で乗り降りを繰り返すような使い方だ。そんな使用法でどれほど「居住性」が必要になるのだろう。

 それよりも、僕の場合は、車に泥だらけの服で乗り込んだり、犬を乗せたり、ホームセンターで畑の土やら砂利やらを購入したり、草刈機やクワを乗せたりと、すぐに汚れてしまうのである。いかに掃除が簡単で、積み下ろしが簡単かが大切になる。なおかつ、大分までの往復の途中、仮眠を取るために腰を伸ばすことができる空間が欲しい。

 周囲の人たちの車の使い方を見ていても、「走行性」を重視するような人はほんのひと握りだし、「居住性」を重視するほど長距離を走る人もあまり知らない。そのために新幹線や飛行機があるのだから。となると、今の車作りは、僕にはなんだかメーカーの独りよがりに見えて仕方ないのだが、そういう要求は世の中にはないのかな。

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学園祭

2015-09-27 16:26:35 | 福島

 うちの近所に自動車の整備かなんかの専門学校がある。なんかの、というのは、よくわからないけど、そんなふうなことを教えている専門学校らしいという意味だ。で、今日はこの専門学校で学園祭があった。数日前にポストにチラシが入っていたから開催はしっていたが、カフェの開店時間と重なっているので、行けるわけもなく、たとえ行けたとしても今更学園祭に行って楽しめそうな気もせず、すっかり忘れていた。

 お昼前、カフェの準備のために犬たちを外に出すと。ドンドーンとすぐ裏で花火が打ち上がった。学園祭の開始の合図らしい。その瞬間、窓の外でトトが飛び上がったのがわかった。トトは雷や花火や太鼓といった大きな音が何より苦手としているのだ。

 トトの姿が見えないので、庭の柵を飛び越えてどこかへ行方をくらましたのかと探してみると、自分の小屋ではなく、ドリの小屋に潜り込み、ガタガタと歯の根も合わないほど震えている。もう大丈夫だから出ておいでと誘っても、どうやら腰を抜かしたらしい。

 お昼になるとへったくそな歌が聞こえて来た。もらったチラシで確認するとご当地アイドルのコンサートが始まったようだ。アイドルというのは昔から歌がへたくそということに相場は決まっている。追っかけがやって来て、最前列で応援しているかもしれないな。

 その後、福島出身のシンガーソングライターによるミニコンサート、それに続いて「ひょっとこ踊り」とある。すごいな、このプログラムは。ちょっと見てみたいぞ。

 そうこうしているうちに、3時を過ぎた頃から、猛烈な勢いで太鼓の音が聞こえて来た。少し距離があるので、太鼓の音というよりは地響きである。プログロムでは郡山の高校の和太鼓部による演奏がフィナーレを飾っているようだ。ドンドロドロドロ、ドンドコドンドコ。カフェでは静かなシャンソンを流していたが、和太鼓の音に掻き消され、今日は何も聞こえない。トトが小屋から這い出し、中庭をウロウロと落ち着きをなくして歩き回っている。もうちょっと、もうちょっとの我慢だからな。がんばれよ。

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言霊

2015-09-26 08:51:01 | 福島

 「言霊」と聞くと、迷信の世界のように感じられるが、意外にもその影響力は現代日本でも力を発揮している。いやいや、私はそんなものの影響は受けないという人もいるだろうが、結婚式に招待され、「切れる」や「わかれる」という言葉は口にはできないだろう。受験生のいる家の人に向かっても、「落ちる」という言葉は口にしにくいものだ。科学的に見れば、第三者が発言したからと言って当人が離婚したり試験に落第したりすることはないのだが、周囲からは「お前があんなとことを言うからだ」と非難される。日本人の精神の深いところには、言葉は力を秘めているという信仰がある。なぜ信仰かと言うと、それは科学では説明できないからだ。

 「芸術」という言葉がある。ところが「芸術」という言葉には厳めしいイメージがあるというので、もっと軽妙で洒脱なイメージを求め、「アート」と言い換える。言っていることは同じだが、言い換えることでなんとなく現代風なシャレた感じになったと思う。同じような言葉に「道徳」を「モラル」に、「店」を「ショップ」に言い換えるような例はいくらでも挙げられる。近頃は案内人のことを「コンセルジュ」と言ったりして、「なんじゃそりゃ」と突っ込みを入れたくなる。

 8月15日は「終戦記念日」だ。これは本来「敗戦記念日」としなければ、なんのことかわからない。戦争に負けたから戦争は終わったわけで、戦争を終わらせる努力をしたわけじゃないからだ。が、当時の人の気持ちを考えれば、戦争に負けて打ちのめされている上に、さらに「敗戦記念日」なんて傷口に塩を塗るような名前はつらかったろう。

 しかしながら、これが子や孫の世代になると、ちゃんと「敗戦」と言わなければ「終戦」というオブラートに包まれたイメージばかりが先行する。以前テレビで渋谷かどこかの街角で若者にインタビューしていた。「第二次大戦で日本はどこと戦いましたか」というような質問だったが、若者の中には「ドイツ」と答える者も結構いた。「アメリカと同盟を組み、ドイツをやっつけた」と答える若者もいた。というのも、漫画やアニメでは悪者はいつもドイツ軍みたいな格好をしているから、日本がドイツと手を組んでアメリカと戦ったなんて想像もできないのだ。戦争体験をした人がいなくなれば、「敗戦」とはっきり言い直したほうがいいんじゃないか。

 日本人は直接的にイメージできる言葉を嫌う。嫌うだけならともかく、それにより真実から目をそらすという悪影響もある。戦争末期、兵隊さんたちはもはやこれまでと集団自決した。が、自決はすぐに「玉砕」という美しい言葉に置き換えられた。

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晴耕雨読な日々

2015-09-25 14:42:44 | 福島

 今週はせっせと畑を耕した。その後、天候が崩れ、昨日今日と雨降りだ。土曜日には図書館に本を返しに行かなければならないが、借りてきた本のうち、まだ2冊が未読だったので慌てて読み始める。

 そのうちの一冊、アルピニストの野口健さんが書いた「それでも僕は『現場』へ行く」はなかなか興味深い内容だった。ヒマラヤ登山中に遭難しかけ、テントの中で遺書を書くところまで行くのだが、なんとしてでも帰りたいと強く思った経験から、きっと第二次大戦で南方で死んでいった兵隊さんたちも故郷に帰りたかったに違いないだろうと、遺骨収集作業に参加する。いまだ戦地で行方不明になったままの兵隊さんは百万人以上いるという。

 世界では、戦争に行って亡くなった人間の骨を自国へ持って帰るのは当たり前だ。キリスト教国では、死んだ体には魂が宿っていないからという理由で、日本人ほど遺骨にこだわることはないが、それでも硫黄島で亡くなったアメリカ兵の行方不明の遺骨はあと一体だという。軍隊の中に400人ほどの遺骨の調査・収集する所属がちゃんとあるらしい。年間数百億円の予算を組んでいるというが、それに引き換え日本の担当者は20人、10億円ほどの規模でやっている。さらに問題なのは、日本政府の見解では、遺骨の帰還作業についてはすでに終わったものとしてしまったのだ。徴兵し戦地へ送り込むことには熱心でも、死んだら放ったらかしというのが今の日本のやり方だ。

 で、なぜ急にこんなことが気になったかというと、新国立競技場に1500億円の予算内でなんてことを言っているからだ。鉄道や橋のように毎日使うものならまだしも、一年のうち数回しか使わないものにこれだけの予算である。元首相の森さんなんかは「たかだか2500億円も出せないのか」と憮然として言い放った。

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休日効果

2015-09-24 12:03:15 | 福島

 子供の頃、毎朝学校に行くのに気が重い通学路でも、日曜日の朝となると全然違って見えたものだった。空も雲も花々も、そして空気までもがいつもと違って輝いていたのだが、実際日曜日だからといって周囲の環境が激変するはずがない。激変したのは僕の精神状態だった。

 「アウトサイダー」の著者であるコリン・ウィルソンだったと思うが、そういう気分の盛り上がりと幸福感を「日曜効果」だか「休日効果」だか、そんな言葉で解説していた。

 人間というのは、初めて行うことには常に困難がつきまとう。自転車に乗るのだって車を運転するのだって、初めはこんなこと絶対無理だと思うのだが、繰り返し練習するうち、ある瞬間に突然道筋が開けることがある。これは、それまでまっさらだった脳みそに、繰り返すことで溝が生まれるようなもので、そうなると頭で考えていたことが、自動的に体が行うことができるようになる。スポーツ選手や演奏家が繰り返し同じことを練習するのは、すべてはこの脳みそに道筋を作り体が勝手に反応できるようにするためだ。

 会社の通勤でも、初めて会社に出社するときは、道を間違えないように、電車に乗り間違えないようにと緊張しっぱなしだが、毎日のことになると、次第に体が勝手に動くようになり、気がつくと会社の帰りに寄るところがあったにも関わらず、家に帰っていたというビックリするところまで自動的になる。

 毎日が初めての出社みたいだと、人間の精神は緊張で押しつぶされてしまうから、ある程度のところで自動的なロボットが行動を引き継ぐ。これが日常生活を効率的で容易にするのだが、あまりに自動ロボットが活躍しすぎると、脳みそが活性化することがなくなり鬱に陥る。ストレス発散だとかリフレッシュという言葉は、この自動ロボットから一旦自由になることをさしている。

 さて、歳を取ると、新しい物事に挑戦するのが次第に煩わしくなってくる。これは生活の大半を自動ロボットにまかせたせいで、そのほうが楽に生活できるからだが、そのせいで実は幸福感は遠ざかって行く。このことはよほど注意を要する。

 学者によっては、脳の活性化には見知らぬ土地を旅するのが一番だという人がいる。スポーツ選手や冒険家がより困難なことに挑戦するのは、そこに幸福感が待っているのを知っているからである。幸福は面倒なことの先にしかない。そう考えれば、面倒なことから逃げてばかりいるのは、幸福からも逃げていることになると思っていたほうがいい。

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意外と見ていない

2015-09-22 11:28:11 | 福島

 この夏は、猛烈に暑かったりバケツの底が抜けたような豪雨だったりしたが、お彼岸が来ると青空が広がり爽やかな風が吹き、家の中にいるのがもったいない陽気になった。地球のバランス感覚というのは、僕らが想像する以上にすばらしい。

 犬たちを連れての朝の散歩も、このままハイキングに移行したくなるような気持ちよさだ。ときどき立ち止まり、じっと空を見上げたり、白い雲を観察したり、森の梢に止まる野鳥の姿を探したり、中々前へは進めない。と、雑木林からジージーとヤマガラの声が聞こえて来た。夏の間はまったく姿を消していたが、涼しくなりちらほらと姿を現し始めた。

 5年前はヤマガラなんて野鳥の存在を知らなかったのだから、5年前の僕が同じ場所を歩いても、ヤマガラの声に気づくこともなければ、葉っぱの間をチョロチョロと飛び回る姿も見ることはないだろう。僕らは知っているものしか見えてはいない。

 人にはそれぞれ目や鼻や耳がついているから、五感に関することだと平均的に自分も知覚していると思っている。が、目の前に有名な料理人が来れば、それまで食べ物の嗜好についてウンチクを述べていたのが、突然「味覚音痴ですから」とへりくだる。人は自分の五感が平均的だとは思っているが、感覚を研ぎすました人の前に立つと、そこに天と地ほどの開き、月とスッポンほどの差を感じる。

 空を見上げていると気持ちがいい。が、ふとここでこんな疑問が浮かんだ。最近の人は携帯の画面だとか、テレビの画面だとか、あるいはパソコンだとか、そういうものをじっと見つめる時間はあるだろうが、立ち止まって空や雲を見つめたり、花や草を見つめる時間というのが一日のうちどれほどあるだろう。花を黙って30秒見つめるのは、現代人にとって苦痛だ。テレビドラマを見ているとき、演出家がこのシーンはじっくり見てもらいたいからと30秒の静止画にしてしまったら、テレビ局には苦情の電話が殺到するだろう。僕らは何かを見ているのではない。ただ意味を知りたいために見る。意味が分かれば、そのものにはもう用はない。

 二三日前、たまたまテレビをつけたら、予備校講師としてブレイクした林修先生がクイズ番組で問題を出題されていた。問題は「お彼岸の時期に咲く赤い花で、別名を曼珠沙華と呼ばれるのは、なんという花でしょう」というもので、ご丁寧に写真まで見せていたが、林先生の答えは「わかりません」だった。今の時期、テレビで田舎の棚田でも紹介されれば必ずといっていいほど映りこんでいる、どこにでもある花だ。桜や梅やススキ同様、日本人なら誰でも知っていると思っていたが、林先生のような知識人でさえ、興味のないものに関しては目に入らないらしい。

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ヘトヘト

2015-09-21 18:03:02 | 福島

 今日は敬老の日なのに、なぜか地区の一斉清掃デーになっている。出てくるのは年寄りばかり。同居する息子や娘世帯が参加することはほとんどない。敬老の日くらい代わりに出てきても良さそうだが、不思議と年寄りは自分の子供に甘いようだ。

 それにしても清掃時間は朝6時からである。犬の散歩は後回しにし、草刈機を担いで参加する。1時間もかからないだろうとタカをくくっていたら、なんとたっぷり1時間半はかかった。それから犬たちを連れ1時間の散歩に出ると、朝ご飯は9時になった。草刈りついでなので、朝食後は我が家の畑に行き、1時間半草刈りをし、1時間半冬野菜のために畑を耕し畝をいくつか作っておいた。

 遅い昼飯の後は、どうせ汗をかいたついでだからと阿武隈川まで走りに行った。時間にして1時間半、距離にすれば10キロちょっとというところだろうか。頭の上には青空が広がり、秋の雲が浮かんでいる。

 夕方には犬の散歩が待っている。さっさとシャワーを浴びてビールを飲みたいところだが、一日ゴロゴロしていた犬たちは、散歩の準備をする僕の様子を見てテンションが高い。

 これでもかというくらい体を酷使したので、全身が棒のようになった。でも、外食したりゴロゴロテレビを見て過ごす休日より、ずっと安上がりで充実感に溢れているのである。

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自分なりに考えてみる

2015-09-20 11:57:52 | 福島

 連休に入り忙しくなってゆっくり考える暇がないが、最近のテレビでの安保法制ニュースに見るにつけ、論点がどこにあるのか、どうするのが正解なのかということについて、ますます訳がわからなくなるというていたらくだ。

 そこで、安保法制とは直接関係ないかもしれないけど、自分なりにこの国の形というものを考えてみようと思う。ある物事に反対するにせよ、賛成するにせよ、自分の考えがどちらかに属するなんてことはありえないわけだから、「自分はどう考える」というのを整理しておくのは悪いことではないと思う。政治家だって賛成か反対かばかりを言うのではなく、それぞれがもっと独自の考えをはっきりさせてくれたほうがいい。そうでなければ、結局選挙はどこの政党に入れるかというそれだけのためのものになってしまうから。

 さて、国防と福祉(社会保障)は、個人レベル民間レベルで行うのは難しい。簡単な話で生産性がないからだ。最低でもこのふたつは国というものが存立するための条件であるように思う。現在の日本は、国防は志望した人たちで組織された自衛隊と、福祉は多くの民間企業で支えられている。で、どちらも生産性がないのに、そこで従事する人たちには十分な給料を払わなければならない。これは考えてみれば、物凄くもったいない話なのだ。

 めんどくさいのでいちいち細かいことは説明しないが、僕の考えは、高校を卒業したあたりで、国民は国防か福祉のどちらかの組織に2年間所属しなければならないとする。全寮制にし制服も支給し食事もたっぷり出せば、民間企業並みの給料を払う必要はない。早い話ボランティアをしてもらうのだ。そこで、さまざまな特殊車両の免許を取りたい人や整備の知識などの費用はすべて国が持つ。福祉に進んだ場合も、医療やリハビリなどの専門的知識の習得に対する費用は全額国が持つ。給料を払うことを考えれば安いものだ。

 その後、再び進学するのも、得た技術や知識で就職するのも、あるいは全然別の分野に挑戦するのも自由だが、とりあえず2年間のボランティアを経験しないと、成人として認めない。選挙権もやらない。もちろん、そんなのが嫌だと海外留学したりするものも出てくるだろうが、40歳になって帰って来ても、このボランティア期間を経験していなければ、日本人としては未成年としてしか扱われない。政治家の息子だろうが、大企業の御曹司だろうが、逃げ得は許さない。

 いやいやどちらも参加できないよ、というような体が不自由な人のためには、ちゃんとそういう部署も用意しておけばいい。とにかく、日本人全体で、国防と福祉について参加するのが日本人としての条件としておく。

 この夏のような豪雨被害があった場合、ほとんどの人は自衛隊が救難に向かうのは当たり前だと思っている。でも、濁流の上空をヘリからワイヤーで吊り下げられて救出に向かうその姿をテレビで見ていると、本当に命がけなんだなと思う。子供を戦争に行かせたくないという親は多いかもしれないが、ああいう災害現場で命がけの救出に向かわせたくないと思う親も多いはずである。

 もし、多くの人が国防に関わり訓練を受けるならば、災害に対する知識もグンと増えるはずである。なんたって、救出される側の人間より、救出する側の人間が増えるのだから。行政からの避難命令なんて待たなくたって、災害救助の訓練を受けた人間なら、災害になりそうな場所からはいち早く避難するはずである。

 徴兵制がどうしたこうした、戦争するだのしないだの、僕にはあまり関心がない。それよりも国民と財産を守るという意味で、国防と福祉が重要である以上、これはなしでは済まされない。では、日本の形として将来どうするのか、この根本のアイデアを出し合わないと、すべての議論は目先だけの水掛け論になるんじゃなかろうか。

 と思う昨今のアベさんなのである。

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