大学を卒業したものの、自分がどういった方向へ向かえばいいのかわからず、仕事もせずにぐずぐずしていた頃、ある映画をきっかけにスペインという国と文化にどうしようもなく惹かれたことがある。自分なりにいろいろ勉強してたりしたが、ついには金がないにも関わらず、スペイン語の学校に一年間通うことにした。
その頃の大阪で、スペイン語を勉強しようと思う人間がどれだけいたかわからないが、なかなかスペイン語を教えてくれるところはなく、ようやくその頃英会話の学校として有名なECCにスペイン語のクラスがひとつだけあるのを見つけた。
英会話の教室はどこも大盛況だったが、スペイン語のクラスは5人ほどしか在籍していなかった。それもあって和気あいあい、サークルの延長みたいなもので、教室の後でみんなで食事に行ったりしていた。南米に赴任が決まった商社マンが急遽スペイン語が必要になったとか、退職した船乗りが昔のなじみに手紙を出したいからとか、スペイン旅行に憧れる家庭の主婦とか動機はさまざまだった。
そんな中に最年少の女子高生がいた。国費で外国に留学する制度に受かったので、メキシコに行くことになったというのである。「メキシコの◯◯先生にバイオリンを師事します」ということだったが、バイオリンに素人の僕にその先生の名前はわからなかった。それよりも、先生の名前を出してわかってもらえると思っているところが、よほど我が強く自分の世界がすべてなのかなという印象だった。
年が明けるといよいよ留学の準備があるということで、その女子高生の送別会をすることになった。せっかくなのでバイオリンで何か演奏してもらおうということになり教室で披露してもらったが、その音は本格的で、その場にはまったく不釣り合いなほど立派な演奏で、僕は生まれて初めてバイオリンがこんなにいい音がするのかと驚いた。
それから数十年が立ち、その子のことを思い出すことはまったくなく、スペイン語を習ったことさえ記憶の彼方に消えていた。
ところが、先週の金曜日、テレビで「世界の村で発見! こんなところに日本人」という番組を見るともなく見ていたら、メキシコの僻地にたったひとりで暮らす日本人女性のエピソードをやっていた。その女性はすでに現地の人と結婚し、その土地に根を下ろしていたのだが、テレビ画面に現れたその中年の女性を見て僕の脳味噌は過剰に反応した。別に美人じゃないのに、脳味噌は穴があくほど注視しろと言ってくる。そして、バイオリンを勉強するためにメキシコに来たというエピソードを語る姿を見ているうち、僕はハタとあの時の女子高生だということに気づいたのだ。もう顔も名前も覚えていないが、脳味噌はテレビ画面を見ながら間違いないと告げている。記憶の底のほんのちょっとした手がかりを探してフル回転しながらも、すでにブルブルと感動しているのだ。
あのとき、メキシコに行くことになったという女子高生が、たったひとりの日本人としてメキシコ僻地の村で暮らしていること、それを僕はついこの間まで縁もゆかりもなかった福島にいてテレビで見ていること、人生というのはすべてが不思議だ。当人は決して不思議な人生を送ろうとするわけではなく、ごく自然に成り行きに任せて生活しているだけだとしても、気がつけば思っても見なかった場所に立っているということがある。
送別会の後、留学がんばれと書いた年賀状に、彼女も何かしら書いて寄越した記憶がある。今までにもらった手紙の類いはすべて大分の押し入れの中の段ボールに押し込んであるので、今度九州に戻った際、探せば出てくるかもしれない。